タオルセヌフィスの朝

ゆきこ

第1話 タオルセヌフィスの夜明け

紀元前3世紀ごろ、エジプトの古都メンフィス。


ナイル川の東から今日も太陽が昇った。砂交じりの乾いた風が、街を吹き抜ける。

背の高いナツメヤシの木が、風に揺られてさざめく。


いつものように朝が来た。

タオルセヌフィスは、伸びをして目を覚ます。少し眠い瞼をこすり起き上がると、隣に寝ていた母親がもう起きていることに気が付いた。リネンの長いチュニックに同じくリネンのベルトを締めて、香油を少し肌になじませ身なりを整える。


階段を降り、こじんまりとした中庭に出る。土で作られた炉からはすでに煙が出ていて、母親のタイスが鍋をかき混ぜていた。


「母様、おはよう。」

「おはよう。」


野菜とハーブの香りがタオルセヌフィスのお腹を刺激した。思わず、鍋を覗き込む。小さく刻まれたタマネギとハーブが煮込まれていた。


「ちょっと、危ないでしょ。向こうを支度して頂戴な。」

「はーい。」


タオルセヌフィスは中庭にある大きなナツメヤシの木の下にマットを敷き、朝食の準備に取り掛かかった。中庭の奥にある部屋からパンを籠に入れて持ってくる。


「お嬢様、おはようございます。」

「ティア、おはよう。」


ティアが桶に水をたっぷりと入れて、運んできた。炉のそばにある大きめの甕に水を貯める。ティアは重そうな腰を何度か叩いて伸びをすると、タイスに代わって鍋を混ぜ始めた。


「タオルセヌフィス、おはよう。」


一階の奥の部屋から、叔母のティが赤ん坊と男の子を連れてやって来た。男の子は眠そうに瞬きを繰り返す。


「ほら、ご挨拶!」

「おはよう。」

「おはよう、クロニオン。」


その後ろから中年の男がやって来る。ティの夫リュシマコスだ。タオルセヌフィスは、ティから赤ん坊を預かるとあやし始めた。

スープを皿に分けて並べ終わった頃、青年が中庭に入って来た。膝までの白いリネンの衣服が風に揺れる。


「おはようございます。」

「お兄様、おはよう。」

「レオニダスさん、おはよう。」

「ご主人様、おはようございます。」


レオニダスは、朝食の匂いに目を細め、用意された皿の前に座った。皆それぞれの場所に座り、朝食が始まった。

まだ少し冷える3月の朝に、スープの湯気がほのかに立ち上った。


*******************


「レオニダスさん、言っていたお客様って明日よね。」

「ええ。明日の仕事終わりに連れてくるということになっています。‥すみません。」


心配そうに確認したタイスに、レオニダスは申し訳なさそうに答える。


「私が断り切れなかったばかりに。お母様にご迷惑を。」

「確か、ギリシアの人なんでしょ。お兄様の知り合いなの?」


心配そうなタイスとは対照的に、タオルセヌフィスはパンを頬張りながら嬉しそうにレオニダスを問い詰める。アレクサンドリアや他のエジプトの街からの旅人はよくあるが、地中海を越えた客人はめったにない。一体どんな人なのだろうと、胸をときめかせた。


「いいや。俺も初めて会う人だ。どうもギリシア語が堪能な人の家が良いと探していたらしいんだ。」


レオニダスは、タオルセヌフィスの嬉しそうな姿に苦笑しながら答える。


「お兄様はギリシア語もヘブライ語も何だって話せてしまうものね。どんな方なんだろう!楽しみ。いろいろな所を旅してきたんだよね。」

「タオルセヌフィス。お客様の前では、大人しくしておくのよ。いつものように騒がしくしないこと。」

「そうそう、物珍しいものがあったらすぐ食いついて騒ぎ出すんだから。」


タイスが諭すとそれに重ねてティも口を揃えた。タオルセヌフィスはむくれながら答える。


「私だって、もう14歳なのだから。子どもじゃないわ。ねえ、ティア。」

「背はだいぶ大きくなられましたよ。でも、他はどうでしょうかねぇ、お嬢様。」


既に朝食を食べ終えたティアは、皿と鍋を片付けながら話す。ティアの投げやりな言い方にタオルセヌフィスは「もう!」と怒り、皆は笑った。

朝食が終わり、タオルセヌフィス達の一日は始まった。


雲1つ無い青空、いつもと変わらない1日だ。


*******************


紀元前3世紀エジプト。

壮大なピラミッドや神殿が建設されたかつてのエジプト王朝はペルシアによって滅ぼされ、そのペルシアに打ち勝ったギリシア人たちがエジプトを治めていた。

プトレマイオス朝である。

プトレマイオス1世に始まったこの王朝の都アレクサンドリアから、ナイル川を北に下ったところにかつての都メンフィスがあった。


エジプトの伝統文化が色濃く残る古都メンフィス。

無数に建てられた家の中でも、比較的大きな家の1つがタオルセヌフィス達の家だった。日干しレンガが積み上げられたこの家は、タオルセヌフィスのお祖父さんのお祖父さんが初めに建てたものだと聞いている。

小さな中庭には、背の高いナツメヤシが植えられ、草が茂る。


「行ってくるよ。」

腰にビーズで装飾されたベルトを締めたレオニダスが玄関から出ようとしていた。美しいブレスレットをいくつも腕に着けている。

タオルセヌフィスは周囲に母親がいないことを確認すると、レオニダスに駆け寄る。


「いってらっしゃい。今日は神殿に行くの?」

「ああ、そうだよ。」


タオルセヌフィスは目を輝かせて、自分よりも随分と背の高いレオニダスの腕を引っ張り、こっそりと耳打ちする。


「途中まで着いて行っていい?」


キラキラと目を輝かせているタオルセヌフィスに、レオニダスは溜息をつく。


「駄目。」

「ええ、どうして。ちゃんと自分で帰るから!ちょうど香水がなくなりそうだし、市場に‥」

「だから、駄目だ。前もそうして、お母様にバレて怒られただろ。」

「お母様は頭が固いのよ、市場ぐらい皆行っているのに。」


レオニダスは「仕方がない奴だな。」と苦笑して、ぶつぶつと文句を言うタオルセヌフィスの頭を撫でた。タオルセヌフィスは、「連れて行ってくれるの!」と目を輝かせる。しかし、レオニダスはティアが持ってきた麻袋を担いで、さっさと歩きだした。途中で、振り返ってニヤリと言い放つ。


「じゃあ、行ってくるから。大人しく家にいるように。」

「お兄様!」


タオルセヌフィスはむくれながら、ティアと共に兄を見送った。その奥に壮大なプタハ大神殿の外壁が朝日に照らされて見えた。

今から1千年ほど前に建てられた大きな門と外壁のある神殿。この地の中心であった。

レオニダスはその神殿に勤める書記官だ。タオルセヌフィスにとって自慢の兄だった。


「タオルセヌフィスー!」


中庭からタイスの呼ぶ声が聞こえ、条件反射的にビクッと体を凍らせた。そうだ、今日はパンを作るとか言っていたっけ。タオルセヌフィスは、中庭に急いだ。


一日はまだ始まったばかり。

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