いたずらの真相
俺の職場はバスの利用者が少ないのかバスの本数が少ない。大体一時間に一本だが時間によっては一時間に一本も来ない。だから仕事が終わってもすぐには帰れず、バスを待ってから帰ることになるので結構面倒臭い。おまけに乗り換えで更に時間もかかるので車で二十分かかる距離でも平気で二時間かかってしまう。
だからできるだけ早く帰りたいのだが、俺の乗るバスの時間帯には面倒な乗客がいた。その男は俺が乗る頃には既にバスに乗っていて、とても挙動が怪しい男だった。そして停車ボタンを押すのだが、いつも降りようとしてしばしば逡巡して結局降りないのだ。どんな意図があるのかわからないが、こちらとしてはバスが遅れるのでかなり困っている。
そんな冬のある日、雪が降り積もる空の下俺は職場の近くの停留所でいつも通りバスを待っていた。今日は仕事が忙しかったのでいつもに増して疲れていた。こんな日は早く帰宅して風呂に入って布団に横になりたいのだが、こういう日に限ってバスが遅れるものだ。かれこれ十五分ほど待ってようやくバスが来た。
バスカードを挿入して中に入ると例の男はいた。いつものことなので特に落胆することはなく一番前の座席に座る。
バスが発進して目的の停留所に着くまで窓から景色を眺めていた。外は変わらず雪が降り続いていた。今日いつもの停留所まで歩くとき雪が積もっていて膝下まで足が埋まってしまった。これだけ積もってしまったら誰か道の上で寝ていても埋まって気づかないだろう。雪が降るのは北国の特徴なんだろうけど、二十何年生きてるといい加減うんざりする。
仕事帰りにバスから外の景色を眺めるのは好きだ。今の季節みたいに外が雪で積もっていたり空が真っ暗だったりする時期もあれば、暖かくなって日が長くなれば今の時間でも空は明るいだろう。そういう変化を楽しむことができるのは今の環境の特権だろう。まあできるなら自家用車で通勤したいが、お金がまだ貯まっていないのでまだ無理だ。
そうして景色を楽しんでいるとバス車内で停車ボタンの音が鳴り響く。停車する停留所の場所を見てため息をついた。例のいたずら男がまた停車ボタンを押したのだ。なんだか秘密の楽しみを邪魔されたようで気分が悪い。
以前はこの停留所で降りていたのに、いつからかこの停留所で降りなくなった。それどころか停車ボタンを押してウロウロして挙句の果てに降りず周囲の時間を無駄にするいたずら行為に走り出した。
バスが停車すると男はトボトボと歩いた。今度こそ降りるのかと思ったが運賃箱の前で止まり、戻ったり行ったりを繰り返す。運転手が降りないんですかと訊いてもお構いなしだ。こう毎日毎日いたずらされると流石にうんざりする。我慢の限界だったのか俺は立ち上がり男の腕を掴んだ。
「何してるんだ。降りるなら早く降りろ」
俺がそう言うと男はうろたえたように目を合わせない。面倒だったので男の腕を引き強引に降りさせる。男は抵抗するが、その力は弱く簡単に降りさせることができた。運転手も同じ気持ちだったのか男が降りるとすぐに扉を閉めた。
「すいません、料金は僕が払いますので」
「いえいえ、本来なら迷惑な乗客はこちらで対処するはずなので助かりました。お金に関しては気にしないでください」
簡単に会話してバスは発進した。男はバスが走り去ってもまだそこで立ち尽くしていた。胸に詰まったような妙な気分になったが、悪いのは向こうなのだ。これであの男も少しは反省してしてもらいたいものだ。
ぼーっと景色を眺めているとふと疑問に思った。そういえばあの男はいつもどこで降りていたのだろうと。
あれから数日が経った。あれ以来男はバスに乗っていなかった。あくまでいつも俺が乗っている時間帯にいないだけなので、ただ乗る時間を変えただけなのかもしれないが、ようやく厄介な乗客がいなくなってホッとした。
俺は朝起床し、簡単に朝食を済ませ身支度を終えるとニュースを見ながらコーヒーを飲んでいた。特に面白みのない内容ばかりだったが、あるニュースが近場のニュースだったので俺はテレビを注視した。
どうやら男が凍死したらしい。いつからかわからないがずっと雪の中に埋まっていたらしい。その男は頭に外傷があり、誰かに殴られてそのまま気を失い、誰にも発見されず凍死してしまったとの趣旨だった。
最近は降雪量も多かったので、一晩降っただけで人一人は埋まるくらいは降ってしまうだろう。発見されなかったのは気の毒だが、その男の顔写真を見たときコーヒーを滑り落としそうになった。
その凍死した男は、以前バスでいたずらで停車ボタンを押していた男だったのだから。
その日の仕事帰り俺はバスに乗っていた。運転手は偶然にもあの日強引にあの男を降ろしたときにいた運転手だった。俺はその運転手に話しかけた。
「あの停車ボタンをいたずらで押していた男、覚えていますか?」
「……えぇ、覚えていますよ」
運転手の表情はこちらからは伺いきれないが、どこか暗い。
「あの男、ニュースで凍死したって言ってました」
「えぇ、ご存じです」
「あれ、おかしいんですよ。死体は少なくとも一ヶ月前には亡くなっていたんですが、その後も僕はこのバスであの男を見てるんですよ。僕が見ていたのは幽霊だったのかゾンビだったのかわからないですけど、考えれば考える程気味が悪くて」
おかげで今日は仕事に手がつかなかった。もし幽霊ならこの後も出てくるかもしれない。もしかしたら強引に降ろした俺を恨んで僕の目の前に現れるかもしれない。そう思うと無性に後ろが気になって仕方なかった。
「……私はあれ、幽霊だと思っていますが、もう出てこないと思います」
「な、なぜですか?」
運転手は更に声のトーンが下がった。
「これは私の想像ですが、あの人は元々このバスで通勤していたんですよ。元々あの停留所で降りていた。しかし亡くなった後もこのバスに乗り続けいつも通りいつもの停留所で降りようとしたが、降りなかった」
運転手は奇妙なことを語りだした。まるでオカルト話をするように。いつもなら聞き流している内容だが、冷静さを失っている俺は聞き入っていた。
「なぜ降りなかったんですか?」
「降りたら死体に出会ってしまうからでしょう。まだ死が確定していないのに死体に戻ってしまえば本当に死んでしまう。いや、とっくに死んでいるのにそれを知るのが怖くて降りることができなかった。私はそう思います」
少なくともあの時点では死んでいる自覚はなかった。いつも通り帰ろうとして停車ボタンを押すと死んだときのことを思い出した。自分の死を実感するのが怖くて迷って迷って、勇気が出なくて降りず、それを毎日繰り返していたのだろうか?
「あの人はね、気が付くといなくなっているんですよ。いつも停車ボタンを押して、降りなかった後人知れずいなくなっていた。だから私はいつも恐ろしかった。だからあのニュースを見てむしろ安心しました。幸運にもあの人はもう現れませんしね」
運転手の声のトーンは少し戻っていた。それほどにも彼は今まで悩んでいたのだろう。
「あの人には悪いですが、この仕事を辞めなくてよくなりました。この仕事はそれなりに気に入っているのでね」
運転手は少し微笑んでいた。俺は笑うことができなかった。結局俺はあの男を殺したようなものなのだから。その夜はよく眠れなかった。
翌日、俺は仕事を辞めた。俺はあの男が消えたように思えなかったからだ。あのバスに乗り続けていたらいつかあの男が現れて殺しに来るんじゃないかと思うからだ。
それから春が来て、夏が来て、秋が来て、また冬が来る。俺はこの雪が恐ろしかった。雪が積もったこの下にもしかしたら死体が埋まっているかもしれないからだ。今にも雪の下から血色の悪い男が這い出てきて、いつものようにバスに乗って、今も彷徨っているのかもしれない。
しかし俺にはもう関係のない話だった。今の俺は新しい仕事に就いて、今は車出勤だ。ある日雪の道を走った。溶けかけの雪の下には、何もなかった。
終
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