第26話
玄関を閉め鍵を掛けると、張り詰めていた糸が切れるように全身の力が抜けた。
今日も弘樹と一緒に登下校してはいるが、ぎくしゃくして殆ど会話がない状態なのは相変わらずで、何だか妙に緊張してしまう。
事情を話すかどうかを迷い始めてから更に弘樹に対する気不味さが増し、自分の態度がどんどん挙動不審になっているような気がする。
どう接すればよいのか分からず思い悩み続けたせいか、彼の姿が視界から消えた途端、どっと疲れが出たような気がした。
不自然な態度を取り続けているのは藍子や義人達に対しても同様で、当分の間は用事があるから先に帰ると誤魔化してはいるが、それがいつまでも通用する訳ではない。
結局どうすればいいのか分からないままで、奈緒はそんな自分の不甲斐なさを情けなく思い俯いたまま深く溜息を吐くと、何かを振り切るように数度軽く首を横に振った。
(取り敢えず動きやすい服に着替えて、それから…)
鬼が現れた場合を想定して、頭の中でこの後の行動を組み立てる。
手洗い等済ませて二階に上がり、部屋でいざ着替えようとしたところで、昨日に引き続きある問題で顔を顰めることになってしまった。
「ワンピースが圧倒的に多いのよね…」
基本的に奈緒は、外出着と部屋着をある程度はっきりと分けている。
そしてどちらもスカートやワンピースを好んで着用しており、特にちょっとした外出なら大丈夫な部屋着はワンピースが殆ど。
パンツ類はあまり持っていない。
今の時期に丁度良くて、尚且つ部屋着にもちょっとした外出にも使えるものとなると、ジーンズが一本にショートパンツが二枚だ。
秋冬物はこれより多いが、流石に今の時期には合わない。
家で明らかな外出着で過ごすのも何か変だし、鬼が出現すれば着替える間もなく家を飛び出すことになるだろうから、そうなると外出しても大丈夫な部屋着がベストということになるのだが、スカートやワンピースを除くと選択肢が随分と少ない。
今度新たに購入するしかないかと小さく息を吐き、取り敢えずショートパンツを手に取った。
着替えて一階に降り、コーヒーを淹れて一息つく。
普段は大抵ブラックかノンシュガーのカフェオレだが、精神的な疲労を感じているせいか、昨日も今日も砂糖多めの甘いカフェオレだ。
その後洗い物をしたり、早めに夕飯の支度をするべきか、でも鬼が現れて途中で放り出して家を出る羽目になるのもどうかと考えたりしていると、いつの間にか午後六時を過ぎていた。
推測通りであれば、鬼が出現してもおかしくない時間帯だ。
スマートフォンは手元にあるが、上着や家の鍵は二階の自室に置いたまま。
一応直ぐに家を出れるようにしておいた方がいいかもしれないと考えたところで、微かに覚えのある気配を感じた。
(これって、まさか…)
それが何かを確信した奈緒は、リビングを飛び出すと急いで階段を駆け上がった。
違和感に気付くのはそう難しいことではなかった。
ただ、その後に起こった出来事に関しては予想外もいいところだったが。
学校の帰り道、母親からの連絡で薬局での買い物を頼まれたのは電車に乗車してからだ。
途中下車して目的を済ませ、ついでにとその近くの雑貨店に寄った後、そろそろ駅に向かおうと外に出て暫くしたところで、何かおかしいと辺りを見回した。
大通りから外れた場所とはいえ、駅からそれほど離れてはおらず、普段であればまだ人通りもそれなりに多い時間帯の筈だ。
それなのに今は他に人影もなければその通りを走る車もなく、そこだけやけに静かな気がしてそれが妙に不気味に思えてならなかった。
(何で、こんなに静かなの?何も音が聞こえないなんて…)
それを不自然に思うのとその気配が生じたのは、ほぼ同時だ。
背筋がぞくりとするほどの悍ましい気配を背後に感じ振り向くと、思わず声にならない悲鳴を上げ、後退ろうとして足がもつれバランスを崩した。
咄嗟に左手を突き地面に這い蹲る羽目になるのは防いだものの、その左の手のひら、それから同様に地面に打ち付けた両膝は擦り傷を負い、薄らと血が滲んできている。
それを気にかける余裕もなく、ペタンと地面に座り込んだまま、少女は恐怖の余り眼を見開いた。
(何、あれ…)
視線の先にいたのは、半透明の般若面のような顔をした女だ。
当然生きている人間である筈がない。
それが、少女から僅か五メートル程度しか離れていない場所に浮かんでいた。
その異様な光景に戦慄が走るが、逃げようにも身体が凍りついたように動かない。
唇を震わせながら息を呑みそれを見上げると、視線がかち合ったような気がした。
その瞬間、その女から憎悪に満ちた殺気が一気に膨れ上がる。
そして瞬く間に少女に迫ると、その右腕を振り下ろした。
「――っ!!」
悲鳴を上げることすら出来ず顔を両腕で覆うと、直後に聴覚というより直接神経を刺激するかのような、何とも形容し難い音が響いた。
そのまま恐怖に怯え身を硬くしギュッと強く眼を瞑っていたが、暫くして自分の身に何らかの衝撃を受けた様子がないことに気付くと、恐る恐る閉じていた眼を開く。
そして飛び込んできた眼の前のその光景に驚愕し、声を上げることも出来ずに呆然と眼を見開いた。
自分を守るかのように薄い透明な膜が張られ、何度も振り下ろされる女の腕を防いでいる。
癇癪を起こしたかのように何度も何度も腕を振り下ろす女に気味の悪さを覚えるが、何故か先程までの恐怖は微塵も感じない。
そして何かに突き動かされるように、無意識に自身の右手をその女に向け突き出した。
指先にひんやりとした感触を感じると、そこから冷気を伴う白い気体が女に対し放たれる。
だがそれは女の腕に纏わり付き数瞬動きを鈍らせただけで直ぐに霧散してしまう。
何度繰り返そうが結果は同じだった。
(何よこれ、一体何がどうなってるのよ……!)
異常かつ緊迫した状況であるのは確かだが、何故このような事態になっているのかさっぱり分からない。
そしてその状況が変わらず続いていることに焦りを感じながら、訳も分からず、ただ闇雲にその力を放ち続ける以外に成す術がなかった。
フード付きの上着を羽織り外ポケットに家の鍵とハンカチ、内ポケットにスマートフォンを突っ込むと、部屋を飛び出し階段を駆け下りる。
正直スマートフォンは邪魔になりそうな気がするが連絡手段がないのは困るので仕方がない。
動き回って落としたり壊したりしないよう対策しなければと考えながらスニーカーを履くと、玄関を開けることはせず、その場で微かに感じる鬼の気配に意識を集中させた。
屋内でそうするにも拘らず鍵を持って行くのは、戻ってきたら家の外だったなんてことになったら困るからだ。
直ぐにその気配を強く感じ、それと同時に視界が揺らぐ。
その直後飛び込んできた景色に、奈緒はギョッとして辺りを素早く見回し、近くに人の気配がないことにホッと胸を撫で下ろした。
商業施設やオフィスビルと思われる建物が並び、人通りだけでなく車の通りも多い場所であることが容易に想像出来る。
丁度建物の間で人目につきにくい場所だったということもあり、それを目撃されずに済んだらしいが、これは心臓に悪いと頭を抱えたくなった。
お陰で瞬間移動を果たしたこと自体に対して驚くどころではない。
見慣れない場所であることからここがどこかは気になるが、今は鬼に対処する方が先だ。
気配に意識を集中させれば、ここからは少し離れている。
通りに出ると、人も車も全く見当たらないことに気付き違和感を感じたが、それも考えるのは後回しだ。
念の為、場所を考え常識的な速さで走りながら、鬼の気配のする方へと急ぐ。
先程からその位置が変わっていないが、その近くに鬼とは違う気配も感じている。
そのことに焦りを覚えるが、力を使って駆け付けたいのを必死で抑え、少しずつスピードを上げながらも何とか常識の範囲内の速さで走り続ける。
そして鬼まで後少しというところで、更にもう一つの気配が生じたのを感じた。
奈緒の前方に現れたその人影は、同じように驚き辺りを見回している。
それが誰かに気付くと同時に、奈緒はその人物の名を大声で呼んだ。
「翔!」
「奈緒!?」
その声に反応した翔が振り向き、奈緒の姿を認め眼を見張る。
それに対し奈緒は翔を追い越しざま、主語を省いて簡潔に叫んだ。
「次の角を左!」
直ぐにその意味を理解した翔も奈緒の後に続く。
そして奈緒同様、鬼とは違うもう一つの気配に気付くと、一昨日とは違う感覚に困惑した様子を見せた。
「鬼以外に、もう一人!?」
「そこから全然動いていないわ」
困惑する翔に構わず、簡潔に状況だけを説明する。
その焦りの滲んだ声に、それが何を示しているのか気付いた翔も、その顔に焦りの色を浮かべた。
目当てとした角を曲がり、二人揃って足を止める。
その先には二人の推測通り、同じ力を持つと思われる人物が鬼との攻防を繰り広げていた。
こちらからは後ろ姿しか見えないが、セーラー服を着用していることから恐らく同じ年頃の少女だろう。
その少女は地面に座り込んだままの状態で障壁を張り続けていた。
更にその指先から何度となく白く煌く気体のようなものを鬼に対し放っているが、多少動きを阻害する程度で決定的なダメージを与えるには至らない。
これでは、いつまで経っても埒が明かないし、その少女一人で決着を付けることも難しいだろう。
「手出しした方が良さそうね」
「ああ、フォローする」
「任せるわ」
イメージすることで奈緒の右手に、青白く光る刀が出現する。
その刀を両手で握り直すと、奈緒は深く息を吸い込み、強く地面を蹴った。
時の彼方(修正前) 水沢樹理 @kiri-mizusawa
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