第21話

 漸く放課後になり、奈緒はホッと肩の力を抜いた。

 何とか授業は集中して受けることが出来たが、その分精神的に随分と疲れてしまったようだ。

 授業の合間の休み時間の度に気が抜け、疲労が蓄積されていくような感覚に見舞われたのには勘弁してほしかった。

 おまけに気が抜けた途端、昨日のことを色々と考え込んでしまいそうになるのだから尚更だ。

 更には直ぐ後ろの席から気遣わしげな視線を幾度となく感じ、その度に申し訳なさから心的負担が増すという悪循環に陥っていた。

(多分、藍ちゃんも気付いてるよね……)

 登校して顔を合わせた途端、怪訝そうな顔で心配されてしまったのだ。

 ただの寝不足だと誤魔化しはしたが、奈緒の様子がおかしいことなど恐らく藍子にはお見通しだろう。

 然程親しくない相手ならばいざ知らず、何でもないふりをしたところで、それが弘樹や藍子に通用するとは奈緒も考えていなかった。

 だからと言って弘樹にも話せないことを藍子に話せる訳がない。

 無論男の子である弘樹には話せない女の子同士ならではの話はいくらでもあるが、当然今回の件はそれには該当しない。

 心配は掛けてもその理由を言えないのが心苦しい。

 だが現状ではどうするのが最善なのか見当が付かず途方に暮れるしかないのだ。

 しかも藍子の話では昼休み終了間際に弘樹と話したとのことだから、既にこの件で何か話している可能性が高い。

 藍子が弘樹の連絡先を聞こうとしたら時間がなく、それで次の機会にではなく奈緒に教えてもらうように言われたということも、それを指し示しているような気がしてならない。

 それでも何も話せないのだから、それが後ろめたくもあり、完全に隠し通すことが出来たならどんなによかっただろうかと思う。

 それに今日はまだ顔を合わせていないが、義人達にも不審に思われてしまうかもしれない。

 そう考えると気が重くて仕方なかった。

「奈緒ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」

 盛大な溜息を吐きたくなるのを堪えながら席を立つと、斜め後ろから顔を覗き込んできた藍子の心配そうな声が聞こえる。

 そのことに改めて上手く立ち回れない自分の不甲斐なさを情けなく思いながら、出来るだけ不自然にならないよう意識して微笑んでみせた。

「寝不足なだけだから、しっかり休めば大丈夫。心配掛けちゃってごめんね」

「…本当に?無理してない?」

「そんなことないって。相変わらず藍ちゃんも過保護なんだから」

「弘樹君や恭兄ほどじゃないもん…。なんか、誤魔化された…」

 じっとりと恨めしそうな眼で見上げてきた藍子から敢えて態とらしく視線を逸らすと、教室後方のドアへと向かう。

 それに納得いかないと唇を尖らせた藍子と、どう口を挟めばよいかわからず黙って二人の遣り取りを見守っていた智代が苦笑いを浮かべながら続いた。

「そういえば、恭兄どうしてるの?」

「家出て一人暮らししながら大学行ってるよ」

「そっか。久しぶりに恭兄にも会いたかったんだけどなあ」

「バイト始めたらしいし、彼女も同じ大学で近くに住んでるみたいだから、もしかしたら夏休みまで帰ってこないかも…」

「そっかあ」

「奈緒ちゃんのお兄さんって滅茶苦茶美形そう…」

「うん、それはもう、弘樹君と並んだら慣れない人は圧倒されるからね」

 諦めたのか仕方ないとばかりに話題を変えた藍子や智代と他愛ない話をしながら廊下を歩く。

 そのことにホッとしたのも束の間、弘樹の姿を眼にした途端、奈緒は小さく息を呑み、わかりやすく顔を強張らせた。

 それを弘樹の隣にいた義人に気付かれ窺うような視線を向けられてしまう。

 何だか居た堪れなくなり、それでも何とか取り繕おうと必死になる奈緒には、二人と一緒にいた真斗に気付く余裕などなかった。

「今日は用事あるから、先に帰るね」

 義人の直ぐ手前でそれだけ告げると顔を伏せたまま足早に通り抜ける。

 弘樹はその表情に複雑な色を浮かべると、躊躇うことなく奈緒の後に続いた。

「俺も先に帰る」

「ああ…」

「奈緒ちゃん?弘樹君?」

 義人と真斗はその場で二人を見送り、呆気に取られた藍子と智代もその場に留まる。

 特に事情を知らない智代は、奈緒の明らかな異変とこの場の微妙な空気に、何が何だか訳がわからず戸惑うしかない。

「確かに、おかしいな…」

「ああ。彼女のことをよく知らない俺でさえそう思うくらいにはな」

 その遣り取りに、藍子が敏感に反応する。

 それに気付いた義人は柔らかく微笑むと、徐にスマートフォンを取り出した。

「椎名さんだっけ?色々と情報共有する方が良さそうなことがこれからもありそうだから、良ければ連絡先交換してもらってもいいかな」

「えっ、あっ、はいっ!」

 一瞬何を言われたのかわからず吃りながらも、藍子が勢いよく首を縦に振る。

 そして慌ただしくスクールバッグからスマートフォンを取り出す藍子の姿に、これはどういう展開なのだろうと智代は益々困惑を深めた。

「取り敢えず、あたしにもわかるように説明してほしいんだけど…」

 思わずそうぼやく彼女にわかるのは、義人と連絡先を交換することを、藍子が内心どう思っているかということだけだった。


 昇降口へと歩きながら智代とは初対面の義人と真斗がお互いに簡単な自己紹介を交わしているうちに、いつものメンバーが顔を揃えているのが見えてきた。

 当麻と秀行の男子二人に、四組の松川結まつかわゆい、それから七組の江藤真由えとうまゆ矢野梓やのあずさの女子三人だ。

 彼らはそれぞれ困惑や戸惑いを隠せない表情をしていたが、義人の姿を認めると一緒にいる三人、特に藍子と智代に対して訝しげな視線を向けてくる。

 その機先を制するかのように、義人が三人を紹介しようと口を開いた。

「こいつは俺と同じクラスの藤谷真斗。こちらは一組の椎名藍子さんと杉谷智代さん。椎名さんは、弘樹と奈緒の小学校の同級生で幼馴染みだそうだ」

 それでも女子三人は不思議そうな顔をしたままだったが、当麻と秀行はこの状況を理解したらしく軽く眼を見張った。

「昨日、奈緒が放課後手伝うって言ってた子達?」

「ああ、そうだ」

 義人の肯定する言葉に対し、当麻と秀行は納得したとばかりに頷く。

 だが未だに状況がよくわからない女子三人は、その会話より奈緒の名前に反応したようだった。

「ねえ、奈緒と弘樹どうかしたの?何か様子がおかしかったんだけど」

「二人とも顔が怖かったっていうか強張ってたよね」

「如何にも何かありましたって雰囲気だったし」

 その様子に苦笑しながらも義人が藍子と智代を含めた女子五人に、昼休みに弘樹から聞いた話を、弘樹の行動に沿って順を追って説明する。

 それに対し智代を除く四人が見せた反応は、義人達と全く同じものだった。

「奈緒が、弘樹の手を振り払った!?」

「嘘でしょ!?」

「今更!?」

「有り得ない!」

「待って、突っ込むとこそこ?」

 奈緒と弘樹が一緒にいるところを見たことがない智代が、昼休みの真斗と同様の反応で四人に呆れた眼を向ける。

 だが次の瞬間、一斉に鋭い視線を向けられ、ビクッと肩を震わせ後退りする羽目になってしまった。

「それはあの二人のことを知らないから言えるのよ」

「バカップル顔負けのことを平然とやらかすし」

「それもごく普通の会話で極甘な空気醸し出すとか訳わかんないことやるのは日常茶飯事だし」

「それでも昔に比べたら大人しくなった方ね。小学校一年生の頃まで奈緒ちゃん絡みで嬉しいこととかあるとよく弘樹君が抱きついてたけど、奈緒ちゃんは当たり前のように平然としてたもん。弘樹君の方は無邪気さを装った確信犯だったけど」

「うわあ、もの凄く納得」

「おい、どんどん論点がずれていってるぞ」

 何だかよくわからない方向へ話が行き始めたところで心底呆れきった当麻が会話に割り込む。

 それにハッとして口を噤んだ四人が気不味そうに顔を背ける。

 智代はといえば、下手に言葉にするのはやめておこうと引き攣り笑いをしながら、これまた真斗同様、あの二人は一体周囲にどう思われているのだろうかと疑問に思ったのだった。

「それにしても奈緒ったらどうしたんだろ?急に弘樹のことを意識し出したとかじゃないよね?それなら顔真っ赤にしてテンパってるだろうし」

「そうよね。寧ろそれなら弘樹のことだからチャンスとばかりに告白してガンガン攻めてるはず」

「それに、何で途中で立ち止まってたりしてたのかしら?」

「多分、何らかの被害に遭ったとかでもないと思うけど…。それだったら奈緒ちゃんのことだから、弘樹君の顔見た瞬間に泣き出してる可能性が高そう」

 それぞれ疑問や推測を口にしては首を捻る。

 奈緒の態度や不可解な行動に対して、確信出来ることは何一つない状態だった。

「取り敢えず様子を見るしかないだろうな」

「だな。弘樹に任せるしかないだろうし」

「ああ。奈緒に関しては、弘樹にどうにも出来ないことが、俺らにどうにか出来るとは思えないからな」

 義人に当麻と秀行が同意し、智代以外の女子達が複雑な表情で頷く。

 真斗は黙り込んだまま状況を見守っている。

 智代はどう反応すればいいのかと困惑していたが、やはり腑に落ちないのか、場違いな気はしながらも思わずその疑問を口走ってしまった。

「ところで、奈緒ちゃんと涼川君って、付き合ってはいないんだよね?」

「うん、まだそうだけど。それがどうかした?」

 藍子にあっさりそう言われた智代が乾いた笑いを漏らす。

 奈緒と弘樹の関係をよく知らない智代は、恋人同士ではなく幼馴染みの間柄である二人に対する藍子達の言動に首を傾げながら、そろそろ帰ろうかと校門の方へ向かう皆の後について行くのだった。

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