第19話
漸く落ち着きを取り戻した弘樹が疲れを滲ませたまま顔を上げる。
それを待ち構えたように、義人が弘樹に対し一つの疑問を投げかけた。
「ところで、何で奈緒は、帰り道の途中で立ち止まったりなんかしてたんだ?」
「さあ、俺もわかんねえ…」
寧ろそれは、弘樹こそ知りたいことだ。
彼女が何故その場所で立ち止まっていたのか、その理由はわからない。
弘樹自身それを聞かなかったというか聞けなかったのだから当然だ。
どこか怪我をしているようには見えなかったし、制服にも乱れた様子は見られなかったのだから、何らかの危害を加えられるような事態は起きていないと信じたい。
ただ、その額に薄らと浮かんでいた汗が、彼女に何か良からぬことが起きたことを示唆しているようにも思われた。
「聞かなかったのか?」
「…ああ」
「つまり、手を振り払われたのがショックで聞けなかったってことか」
「……」
その通り過ぎて言葉も出ない。
何より奈緒自身、それを話すことを拒んでいたのは確かだ。
何かを隠していることも、それがただならぬことであろうことも明らかなのに、何でもないふりを貫き通したのだ。
きっと無理に聞いたところで、態とらしくはぐらかされただけで終わったことだろう。
普段の弘樹であれば、強引にでも聞き出そうとしたかもしれない。
だが、手を振り払われたことが思った以上にショックだったこともあり、何も聞けないどころか会話らしい会話自体出来ずにいる状態だ。
それが酷く情けなくて仕方なかった。
「結局何もわからないってことか。それにしても、どれくらいそうしてたんだろうな」
「そんなの俺が知りてえよ。十分、いや十五分くらいか?多分、それくらいだと思うけどさ」
「…その根拠は?」
「根拠?」
義人にそう言われ思わずきょとんとして間抜けな声を返してしまったが、一応その根拠はある。
自宅最寄駅に電車が到着する時間と、家に着いた時間がそうだ。
実際には翔が元の場所へと戻った後、奈緒がその場に留まったのは五分程でしかないが、それを知らない弘樹がその程度だと答えたのは仕方のないことだ。
「下校時間ギリギリまで学校にいたとすると、六時過ぎの電車に乗ったと思うし、それが最寄駅に着くのが三十分くらいだ。駅から家までは徒歩十五分程度、でも実際に家に着いたのは七時少し前だった」
「成程、だったらそれくらいと考えて問題なさそうだな。…弘樹が見た時、奈緒は一人だったんだよな?他に誰か見掛けたりとかは?」
「…いや、他には誰も見てない。一本道の途中で、奈緒の姿に気付いたのは歩いて三分ほど手前の位置だったし、他に人の気配もなかったと思う。…俺が気付いてないだけかもしれねえけど」
改めてその時の状況を思い出しそう答えると、義人は眼を伏せ暫く考え込む素振りを見せると、弘樹に視線を戻した。
「直前まで誰かと話していたとしても、弘樹が気付いた時点で誰の姿も見えず気配もしないってのは、ちょっと不自然だよな」
「ああ。それに奈緒は基本的に平日は夕飯作ってるから、普通なら誰かと会っても、その後は急いで帰る筈なんだよな」
「そうだよな…」
再び義人が弘樹から視線を外すと、二人同時に黙り込む。
するとタイミングを見計らったように、暫く黙って二人の話を聞いていた当麻がある懸念を投げかけた。
「例の変態親父が何かした可能性とかは?」
「いや、あの親父の家よりずっと手前だったから多分それはないと思う。それにあの時間帯なら、そこの奥さんが眼を光らせてるだろうし」
「そっか。まあ、いつも見てるだけって言ってたし、それはなさそうか。それによく考えたら、その後の奈緒の反応からしてそれはないか」
一応の納得を見せた当麻がホッと胸を撫で下ろす。
すると今度は、事情を知らない真斗が怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「…変態親父って?」
「ああ、うちの近所に奈緒のことを厭らしい眼で見てくる親父がいるんだよ。一応見てるだけなんだけど、以前、一度奈緒が冷たい眼で見返したら、恍惚として悶えてたことがあってさ…」
「……気色悪いな」
真斗が盛大に眉を顰めボソリと呟く。
実際にその現場を目撃した弘樹もその状況を思い出し、あれは悍ましかったと口元を引き攣らせた。
あれがきっかけで奈緒に対する過保護に拍車がかかったようなものだ。
しかも、その妙な視線は、奈緒に対してだけではなかった。
「おまけにさ、奈緒だけじゃなくておばさん…、奈緒の母親とか時々来る奈緒の母方のばあちゃんに対してもそうだからな」
「何だそれ…」
「三人とも顔そっくりなんだよ。あの系統の顔が好きなんじゃねえ?よくわかんねえけど。一番執拗で気味悪いのは奈緒に対してだし、生きてたらひいばあちゃんにもだったかもなんておばさん達言ってたな。俺らが生まれるずっと前に亡くなったらしいから会ったことないけど、奈緒が一番似てるのはひいばあちゃんらしいからさ」
「もう、何と言ったらいいかわからないな…」
先程より更に気味悪そうに真斗が顔を顰める。
弘樹も話しながらうんざりしているし、既にこの話を知っていた他の三人も苦笑いだ。
「それは兎も角、奈緒が立ち止まっていた理由は見当が付かないってことか」
「ああ、今更ながら一緒に帰れてたらって思うけど、って……、あっ……!?」
突然弘樹が素っ頓狂な声を上げる。
それに何事かと四人が眼を向けると、何かを思い出したというような顔で、弘樹が眼を見開いた。
「何だよ急に。他にも何かあったのか?」
「あ…、ああ」
呆れを含んだ眼を向けてきた義人に、取り敢えずそれだけ答える。
奈緒のことばかり考えていて、すっかり忘れていたことがあった。
漸くそのことを思い出した弘樹が、彼にとっては迂闊で不自然極まりないその出来事を、困惑しながらも話し始めた。
「いや、昨日先輩を撒いた後、駅近くのコンビニに着いたのが六時二十分くらいだったんだ。それで、もしかしたらもうすぐ着く電車に奈緒が乗ってるかもって思って、チラチラ時計見ながら時間潰してたんだけどさ、気付いたら電車着いてから十五分以上経ってたんだよ…」
弘樹にとっては大失態としか言いようがない。
それに対し真斗を除く三人はまたしても、これまた大袈裟なほど驚愕し口々に言葉を放ったのだった。
「嘘だろっ!?有り得ねえ!」
「お前が奈緒絡みでそんなうっかりミスやらかすなんて珍しいというか、前代未聞だな。別に熱があったわけじゃないよな?」
「信じらんねえ…。それで今日雨降ってないのが不思議だな。雨どころか雪や槍が降ってもおかしくないってのに…」
弘樹自身もそう思わなくはないことばかりではあるが、散々な言われようだという気がしないでもない。
真斗に至っては、弘樹と奈緒の二人は一体周囲の者達にどう思われているのだろうかと疑問に思わずにいられなかったが、敢えてそれを口にするような真似は控えておいた。
「それで慌てて奈緒に電話したけど通じなくてさ。何度掛け直しても、呼び出しなしで短く雑音が入ってすぐ切れるの繰り返しだった」
「…何だよそれ?」
今度は、真斗を含めた四人が揃って訝しそうに眉を顰める。
弘樹にしても最悪なタイミングとしか言いようがなく、こうして改めて話してみると何だか話が出来すぎているような気がして、より不自然なことに思えてならなかった。
「呼び出しなしで雑音?どういう状況でそんなのが起きるんだ?」
「さあ?チケ取りとか混み合ってる時に、呼び出しなしで切れるってのはよくあるけどさ。でも雑音とかしたかなあ?」
勿論イベント等のチケットを入手する為に電話が集中している状態とは違うのだから、今回の件には当てはまらない。
当麻と秀行があれこれ思いつくまま疑問を口にしては首を捻り、義人と真斗は神妙な顔をして何かを考え込んでいるようだった。
「…まあ、それでさ、何か嫌な感じがしたから急いで帰ってたら、途中で奈緒が突っ立ってたんだよ」
「つまりいつもとは違う、いや、いつもなら有り得ないおかしなことが続いた後に、奈緒の不可解な言動があったってことか」
「ああ…」
「何にせよ、奈緒が立ち止まっていた理由は、電車を降りた後、駅からその地点までの間に起きたことに原因がある可能性の方が高そうだな」
「多分な」
義人に頷き返して改めて昨日の奈緒の様子を思い浮かべる。
電車を降りるまでの間に何かあった可能性も完全には否定出来ないが、彼女の様子から、義人の推測通りである可能性の方が高いだろうと思われた。
「俺もそう思うが、今の時点であれこれ考えたところで、これ以上は何もわからないだろうな。それにしても電車で三十分近くってことは、弘樹達って学校から遠い方なのか?」
「いや、ここから六駅先だからそうでもない。俺達が利用してんのは普通電車なんだけど、途中の急行停車駅で、急行待ち合わせで停車時間が長い時間帯があるんだ。夕方六時過ぎの電車がそれでさ」
真斗が義人に同意しながらも、言葉で推測や憶測だけでは限界があることを、それだけで結論へ至ろうとすることの危うさをその表情で暗に仄めかす。
その上で何気なく話題を変えた彼に不自然な様子を感じることもなく弘樹がそれに応じ、義人達もそれはそうだよなと、真斗の言葉に特に反発することもなく頷いた。
「そうなのか。まだ、この辺りの通学に掛かる時間がどれくらいが普通なのかとか、そういった感覚がよくわからなくてさ、ちょっと気になっただけなんだ」
「あっ、そっか。そういや東京から来たんだっけ?」
その言葉をそのまま受け取り、何の疑いも含みもなくそう言えばと弘樹がそう返す。
それに首肯しながら、真斗はどこか躊躇いがちに言葉を続けた。
「お前達は、色々詮索したりはしないんだな」
「うん?」
何のことだと首を傾げる弘樹に苦笑しながら、真斗はわかりやすくそれを言葉にした。
「いくら身内が理事や校長を務めている学園だからって、態々親元を離れて東京から来たのは何故かって気になる奴が多いみたいだからさ」
「ああ、そういうことか。別に話したけりゃ聞くし、話したくないなら一々詮索する気はねえよ」
こともなげにそう返す弘樹に、他の三人もそれぞれ同意を示す。
それに少し戸惑いを見せながらもホッとした様子で真斗が微かに笑みを零した。
「そうか、それは助かる。別に家族仲が悪いとか複雑とかそういう訳じゃない。でも、出来れば聞かないでほしいし話したいとも思わないんだ」
「そっか、わかった」
「…ありがとう」
そう言って微笑んだ真斗は妙に大人びていて、何故か、何だかとてつもないものを背負っているように思えてならなかった。
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