第16話

 弘樹の視界に影が落ちる。

 それを齎した相手には、ここ暫くずっと悩まされ、いい加減勘弁してくれとうんざりするしかない。

 まだ登校して間もない時間で、朝から憂鬱な気分になる。

(何で俺、こんな得体の知れない妖怪に絡まれてるんだろうな……)

 口にしていないとはいえ、クラスメイトの女子に対して随分と失礼極まりない酷い言葉だ。

 だがこのクラスには、それを非難するどころか同意する者の方が圧倒的多数だろう。

 高等部に入学してからまだ一週間だというのに、その女子生徒は次から次へと周囲を不快にさせる言動ばかりして、クラス中から顰蹙を買っているのだから。

 中でも最大の被害者と言えるのが弘樹だ。

 入学式当日からしつこく付き纏われ、いくらきっぱりと拒否しても一向に通じないのだからストレスは溜まる一方。

 今も弘樹が座る席の横に立ち、気色の悪い笑みを浮かべている。

 更に身体をクネクネとさせながら、耳障りな濁声で猫なで声を出すという、悍ましいことこの上ないことを仕掛けてきた。

「ねえ弘樹くぅん、今度の土曜日、どこに行くぅ?」

「どこにも行かねえ」

「えっ、それって、弘樹君のお家に遊びに行ってもいいってことぉ!?」

「それは、絶対に、有り得ねえ!断固拒否する!!」

「どおしてぇ、それじゃあ、どこに行くのよぉ?」

「だから、お前と出掛けることなんて絶対に有り得ねえ!何度言やわかるんだよ!!」

「もうやだあ、弘樹君ったら照れちゃって!」

「全っ然、照れてねえ!全力で嫌がってんだよ!!」

「やだあ、またそんなこと言っちゃって。だったらぁ日曜日はぁ?」

「だから、お前と休みの日まで会うなんて冗談じゃねえって何度も言ってるだろ!」

 恐ろしい程会話が噛み合わない。

 いくら弘樹が全力で拒否しても、どうしてそうなると頭を抱えたくなるほど、自分の都合の良いように解釈される。

 適当に相槌を打とうものなら、取り返しのつかないことになるのは目に見えている。

 おかげでスルーしたいのにまともに相手せざるを得ない状態が続き、我慢の限界はとうに超えていた。

 ただでさえその言動自体が鬱陶しいのに、彼女の容姿がその鬱陶しさにさらに輪を掛けていた。

 身長は恐らく百五十に満たないが、横幅は平均的な体型の男子高校生より遥かに大きい。

 横幅だけではなく前後もだ。

 しかも女性らしい凹凸はなく、胸からお腹にかけて緩やかに膨らんでいる。

 所謂アンダーバストと呼ばれる部分がどこなのか不明だ。

 その下にある脚もそれに相応しい太さで、脹脛は弘樹の太腿より明らかに太い。

 当然それより逞しい太腿は、隠せばいいものを、下着が見えそうなほど短いスカートから殆ど見えてしまっている。

 そしてその顔は、何とか辛うじて人間に見えないこともないという全体的に気味の悪い容姿をしている。

 これまた失礼な話ではあるが、入学式当日、弘樹はその女子生徒が自分に向かってきているのを見て、妖怪に襲われると戦慄を覚えたりしたのだ。

 その女子生徒、高梨小夜子たかなしさよこの性格が常識的なものであれば、ここまで嫌悪感を抱かれることはなかっただろう。

 だが、自分の思い通りにならないことはないと言わんばかりに他人を見下し、非常識かつ好き勝手なことばかりやっているのだから、皆から疎まれても仕方がない。

 しかも、相手のことなど一切考えない、迷惑極まりない言動ばかりだ。

 内面の醜悪さが、より外見を醜悪に見せていると言っても過言ではない。

 弘樹も最初はやんわりと控え目に拒否していたが、今では遠慮なくはっきりと拒絶している。

 それでも何一つまともに通じないのだから、始末が悪い。

 容姿で判断するようなことはしたくないが、流石にこいつは例外でいいのではないかと、弘樹はそう真剣に考え始めていた。

「なんでそんな意地悪ばっかり言うのぉ?折角こんなに可愛い学園一の美少女のあたしが、彼女になってあげるって言ってるのにぃ」

「ふざけんな!お前のどこが美少女だ!?第一俺が好きなのは奈緒なんだよ!他の女に興味はないし、それに学園一の美少女も奈緒以外に有り得ねえ!!」

 ついに堪忍袋の緒が切れ激昂した弘樹が、ドンっと拳で机を叩く。

 完全に据わった眼で鋭く相手を睨み付けている。

 小夜子の言葉に周囲では殺気が生じていたが、弘樹に対しては憐れみの視線が向けられた。

 クラスメイトの殆どが、弘樹が奈緒を好きなことを知っているし、これまで何度も告白しようとしてはタイミングを逃してばかりいることも知っている。

 その状況に焦れているところに、こんな話の通じない訳のわからないものに付き纏われては、ストレス過多で鬱憤が溜まるのも仕方がない。

 しかも、全力で拒絶している相手に上から目線で彼女になってあげるなんて言われては、怒りが爆発してしまうのも当然だろう。

 おまけに、学園一醜いと言われている女子生徒が学園一の美少女を自称しているのだから、図々しいにも程がある。

 容姿で相手を貶めるのは卑劣な行為ではあるが、その当の本人がこれでは、蔑まれても自業自得ではないだろうかという気さえする。

 何故こうも自分に都合の良い方にばかり考えられるのかと、不思議に思うしかない。

「何であたし以外の女が学園一の美少女なのよ!?そんなの有り得ない!この世にあたし以上の美少女なんているわけないじゃない!!それに奈緒って誰よ!」

 弘樹の言葉に納得出来ない小夜子が、怒りに顔を赤く染め大声で喚き始める。

 それを弘樹は冷え切った眼で見返し、怒りを孕ませた低い声で嘲笑った。

「だったら、他の奴らに学園一の美少女は誰かって聞いてみろよ。まともな美的感覚持ってる奴なら、全員奈緒って答えるだろうからな。けど、それが気に食わないからって奈緒に危害を加えるようならただじゃ置かねえ。あいつを傷付ける奴は俺が許さない」

 今更ながら、勢いで奈緒の名前を出したのは迂闊だったと後悔する。

 しまったと思ったがもう遅い。

 弘樹は、小夜子が奈緒に対してとるであろう行動を危惧し、そんなことはさせないと強く睨み付ける。

 それに対し小夜子が返してきたのは、またしても斜め上の耳を疑うような言葉だった。

「そんなの、全員あたしって答えるに決まってるじゃない。こんなに可愛いあたしを好きにならない奴なんていないもの。何よ、もしかして、あたしの気を引きたくて、わざとそんなこと言ってるのぉ?本当は、あたしのことが好きで好きでたまらないんでしょお?」

「そんなわけねえだろ……!」

 妄言も甚だしい言葉に、呆れるより先に更なる怒りが込み上げる。

 弘樹の奈緒への想いを否定するも同然の言葉に、腸が煮えくり返りそうだ。

 何故こんな奴に、自分の想いを否定されなければならないのか。

 そんなこと、到底許すことなど出来ない――。

「不愉快だな」

 弘樹が怒りに任せて口を開こうとした途端、横から低く不機嫌な声が割り込んできた。

 その声の冷たさに開きかけた口を閉じ、思わずそちらを振り向くと、一人の男子生徒がその声音以上に冷え切った凍てつくような視線を小夜子に向けていた。

「どうやったらそこまで現実を無視して、何もかも自分にとって都合の良い方にばかり考えられるのか疑問でしかないな。お前のような人間とは思えないほど顔も中身も醜い女を好きになる奴がいるとは思えない。いたとしたら、余程の物好きだな。嫌っている奴なら大勢いると思うが。妖怪のような見た目をしてこの世で一番の美少女だとは片腹痛い。いや、お前を妖怪呼ばわりは、流石に妖怪に失礼か」

 歯に衣着せぬ辛辣な言葉に、その内容には概ね同意だが、そこまで言って大丈夫なのかと心配になる。

 彼のことはまだよく知らないが、冷静沈着で穏やかな人物という印象を抱いていたので、随分と遠慮のない物言いに驚きを隠せない。

 藤谷真斗ふじたにまさと――、学園創設者一族の親族で、奈緒のクラスの担任である幸人とは再従兄弟同士、東京の中学校からこの学園の高等部に進学してきている。

 そのことから密かに注目を集めており、好奇の視線を向けられることも少なくないが、それに嫌な顔をすることもなく、人当たりも良い。

 その彼が見せた一面に、信じられないと呆然とした者も多い。

 弘樹もその一人だ。

 その中で、真斗の言葉を謂れなき侮辱と受け取った小夜子は、憤怒の形相でドスンドスンと足音を立てながら、彼の方へと近付いていった。

「どういう意味よ、失礼ね!あたしを嫌いな奴なんているわけないじゃない!だってこんなに可愛いんだもの。それなのにどこが妖怪だっていうのよ!土下座して謝りなさいよ!それでも許してあげないけど!!」

「俺は事実を言ったまでだ。何故お前に土下座なんてしなければならないのか、その方が余程意味がわからないな」

「バカじゃないの、当然のことじゃない!このあたしを侮辱したんだから!!それにお腹痛いならトイレに篭ってずっとそこにいなさいよ、目障りだから!」

「片腹痛いの意味もわからないのか。よくそれで進学出来たな。それに、目障りなのはお前の方だ。このクラスの殆どがそう思っているだろうな」

「何ですってぇ!」

 小夜子は大声で喚き散らし、それに対し真斗は冷静に辛辣な返しをするという形で口論が続く。

 予鈴が鳴っても止める気配がない。

 主に小夜子の方が。

 弘樹は、小夜子に対する行き場のない怒りを抱え、何だか釈然としないまま溜息を吐くと、二人から視線を逸らした。

 すると義人が、真斗に負けず劣らずの氷のように凍てついた視線を小夜子に向けているのに気付いた。

 温厚で人当たりの良い義人にしては珍しい。

(義人……?)

 真斗に対しては驚いたが、義人には違和感しか感じない。

 こんなに険しい顔をした彼を見るのは初めてだ。

 担任教師が教室に入ってきても、小夜子は真斗の横で的外れな罵倒を続けていた。

 それはいくら注意されても終わらず、最終的に担任教師の怒号が響くことになったのだった。

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