第15話
奈緒の様子がおかしい――。
それが、現在弘樹の頭の中を占める最重要事項だ。
昨日の放課後、藍子の手伝いで居残りする奈緒が、後で家に取りに行くのは面倒だからと弘樹のクラスに弁当箱を回収しに来た時は、特に変わった様子はなかった。
おかしいと思ったのは、帰宅途中の彼女の姿を見掛けた時だ。
駅から数分歩いた住宅街の少し手前の道で佇んでいるのを不思議に思い声を掛けると、大きく肩を震わせながら振り返り、明らかにホッとした様子で肩の力を抜いた。
その表情は微かに強張り、少し青褪めていた。
恐らく彼女は、そのことに気付いていなかったのだろう。
何でもないように、いつもと同じように振る舞っていた。
だが、生まれた時からの付き合いと言っても過言ではない仲だ。
彼女の様子がいつもと違うことは直ぐにわかった。
それでもいつも通りに振る舞おうとする彼女に合わせ、弘樹も普段と変わらない調子で話していたが、途中で弘樹の右手辺りをじっと見詰め、何か考え込んでいる様子に、それ以上、何も気付かないふりをするのは無理だった。
おかしなことなど何もないと言わんばかりに表情を取り繕っていたが、その不自然さを弘樹が見抜けないわけがない。
それは他の者なら気付かないような些細なものだったが、弘樹が誤魔化されることはなかった。
心配を隠せず、思わずいつもの癖で奈緒の頬に触れようと手を伸ばした。
だがその手を拒否の言葉と共に振り払われ、一瞬、何が起こったのかわからなかった。
二人にとって当たり前だったことを拒否されたのは初めてで、ショックで呆然としてしまった。
それと同時に胸が痛むのを感じた。
幼馴染みというだけでなく、幼い頃からずっと恋焦がれ、誰よりも大切に想う少女から拒否されたのだから尚更だ。
ただ、その行動に驚いたのは弘樹だけではない。
奈緒自身も、自分のしたことが信じられないようで呆然としていた。
弘樹の手を振り払ったその手を見詰め困惑している姿に、何も言えなくなった。
その後はいつものように並んで歩くこともせず、お互い黙り込んだまま一言も話さずに帰った。
奈緒の家に着き、何があったのかと気になりながらも、結局何も聞けなかった。
いつものように奈緒が家の中に入り、鍵を掛ける音を確認してから、隣の自宅へ足を向けたが、その足取りは酷く重かった。
何かあったのは間違いない。
それも、弘樹には言えないような何かが。
そして、それは放課後以降のことだ。
そう考えると、一緒に下校出来なかったことが悔やまれる。
実のところ、弘樹は奈緒を待つつもりでいたのだ。
思わぬ邪魔が入ってそれは出来なくなってしまったのだが。
奈緒を一人で登下校させない――、それは、奈緒だけが知らない、奈緒以外の彼女の家族と弘樹の家族全員の一致した意見だ。
家族構成は両家とも両親と子供二人の四人で、奈緒には三歳上の兄の
父親同士は幼馴染み、母親同士は高校からの友人であり、四人とも同じ大学の出身でその頃からそれぞれ交際し結婚に至っている。
当然の如く家族ぐるみの付き合いとなり、子供同士も家族同然の仲の良さだ。
親達も、お互いの子供達のことを我が子同然に可愛がっているし、本人達に話したことはないが、将来、弘樹と奈緒が結婚してくれればいいのにと願っていたりもする。
奈緒の父親に至っては、「奈緒の相手は弘樹以外認めない」とまで言い張る程だ。
この二つの家族は全員がかなりの美形、しかも隣同士ということもあって、近所では結構有名だ。
その中でも奈緒と弘樹は、特に美しく整った顔立ちをしている。
おかげで本人達が望まずとも注目を浴びる機会が多いのだが、中には邪な視線を送る者も少なくない。
今のところ実際に何かを仕掛けてきた者はいないのだが、それでも思わず警戒してしまうような気味の悪い相手もいる。
特に警戒すべきなのは、女の子である奈緒に向けられるものだろう。
しかも残念なことに、近所にもそういった者が一人いる。
今のところ遠くから気味の悪い視線を送ってくるだけでそれ以上のことをする気配はないが、それでも警戒するのは当然のことだ。
この件に関しては、奈緒自身も警戒はしているが、困ったことに彼女には、自分が類稀な美少女であるという自覚がない。
何故か自分の容姿を平凡だと思っている。
他の者の美醜に関しては人並みの感覚を持っているのに、自分のことに関しては、恐ろしいほど理解していない。
そんな奈緒を両家の皆が心配し、人並みの警戒心で足りるわけがないとやたらと過保護になり、奈緒を一人で出歩かせないという結論に至ったのだ。
奈緒が和桜学園へ進学することになったのは、これが根底にある。
恭一が通っていたこともあり、奈緒の両親が薦めたのだ。
親達は、奈緒が受験するとなれば、弘樹もそうするだろうということはわかっていた。
思った通り、奈緒の受験のことを聞いた弘樹は即座に自分も受験すると言い出した。
残念なことに奈緒本人は全く気付いていないが、奈緒の家族も弘樹の家族も、弘樹が幼い頃から奈緒にベタ惚れだということは知っている。
本来なら弘樹が合格するのは難しいことだったが、奈緒が絡めば想定以上の力を発揮することは間違いないと思っていたし、その通り見事合格した。
そのことに、親達も、そして恭一と風花も、やっぱりと苦笑しながらもホッと胸を撫で下ろしていた。
驚いていたのは奈緒だけだ。
因みに奈緒に関しては、余程のことがない限り合格は間違いないだろうと全く心配されていなかった。
兎に角、これで奈緒を一人で登下校させずに済む。
恭一も弘樹も、奈緒と一緒に登下校し、がっつりガードする気でいた。
ただ奈緒自身は、小さな子供ではないのだから、いい加減一人で出歩かせてほしいと不満を抱いていたのだが。
入学当初弘樹は、部活に入る気は全くなかった。
中等部の間は恭一もいることだし、入りたい部活があればやってみればいいのではと家族からも言われていたが、弘樹にとって奈緒と一緒にいることが優先だったし、特に興味のある部活もない。
だから入学後暫くは、毎日三人で登下校していた。
それが、何がどうしてそうなったのか、サッカー部の練習試合に助っ人として出場することになり、それがきっかけで気付けば入部する流れになるという訳のわからない状況に陥っていた。
当然そんなことは受け入れられないし、勿論全力で抵抗したのだが全く聞き入れてもらえず、泣く泣く入部せざるを得なくなってしまったのだ。
おかげで奈緒と一緒に下校出来なくなり、弘樹にとっては大誤算もいいとこだった。
しかも一年生ながらレギュラーだった為、辞めたくても辞められない。
結局、三年で引退するまで続けることになったのである。
早い段階から高等部では部活はやらないと声を大にして言い続け、これからは奈緒と一緒に下校出来ると思えば、今度は何故か複数の強豪校から勧誘されるという、想定外の事態が起きた。
当然、話を聞くと同時に断った。
サッカー部の顧問は弘樹を説得しようとしたが、理由を聞いてあっさりと納得した。
弘樹が奈緒を好きなことは、生徒だけでなく教師の間でも有名なことであり、サッカーより奈緒と一緒にいる方が大事と言い切った弘樹に、それもそうだよなと納得したのである。
正直それはどうなのかと思わないでもないが、紛れもない事実だ。
流石にそれをそのまま伝えてはいないが、そんな理由で断られた方は、気の毒としか言いようがない。
だが、その気もないのに受けたところで結局しんどくなるだけだろう。
サッカー部の顧問が迷いもなく断る選択をした弘樹に理解を示したのは、そう考えたからでもある。
そうした背景もあり、弘樹は奈緒を置いて帰るつもりはなかった。
弁当箱の回収はまあいいかと応じたが、奈緒の用事が終わるまで適当に時間を潰す予定だった。
それがサッカー部の先輩に捕まり追いかけられ、結果的に先に帰ることになってしまったのである。
入学早々、奈緒を一人で下校させてしまうことになり、それだけでも頭が痛いのに、電車を途中下車して三駅分近く走って逃げ回る羽目になったのだから、踏んだり蹴ったりもいいとこだ。
そしてそれが、奈緒の異変の原因を見逃すことに繋がったのだから、悔やんでも悔やみきれない。
(一体、何があったんだ?)
正直、今は奈緒のことだけを考えていたい。
だが、それが不可能な状況に追い込まれていた。
弘樹は眼の前のその元凶に冷え切った視線を向け、げんなりとした気分で深く重い溜息を吐いた。
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