第14話
身体が怠くて重い。
いつもより少しだけ遅い時間にベッドに入ったものの予想通り眠れず、完全に寝不足なのでそれは仕方がないことだろう。
更に精神的な疲労がそれに輪をかけている状態だ。
それでもいつもと同じ時間に起き、仕事へと出掛けていく両親を見送りながら弘樹と自分の二人分の弁当を作り朝食を済ませた。
一階にいる間の行動は普段と変わらない。
だが二階の自分の部屋に戻った後は普段通りとは言い難い。
制服に着替えたり髪を纏め直したりと学校へ行く為の身支度を整えながら、奈緒は寝不足であまり回らない頭で昨夜の翔との遣り取りを思い出していた。
翔の話では、彼が初めてあの化け物と遭遇したのは四月五日、つまり今月に入ってからだ。
その時は、訳もわからず気付けばその力を使い倒していたらしい。
彼はみっともないほど恐怖で身体が竦んで情けなかったと零していたが、奈緒はそれは仕方がないというか当然のことだと考えている。
あんなものに突然遭遇して平静でいられる方がおかしいのだ。
しかもそれが敵意剥き出しで襲い掛かってくるのだから、恐怖を覚えるなと言うのが無理な話だ。
あの化け物のことは、角のない般若面のようだということで、気付けばお互いに『鬼』と呼称するようになっていた。
何故だかそう呼ぶのが自然に思えたのだ。
そして、その力に関して現在判明しているのは大きく分けて攻撃・防御・治癒・瞬間移動だ。
大きくと言うより大雑把と言った方が妥当な気がしないでもないが、取り敢えずはこの四つだ。
いや、生身の人間では有り得ない程の身体能力の向上を含めた五つと言った方がいいだろうか。
攻撃に関しては、奈緒は光る刀のような形をしたものを使用したが、翔はそういった武器の類のようなものは使わず気を撃ち込むことで倒したらしい。
何だか漫画かアニメの必殺技のようだとも思ったが流石にそれを言葉にはしなかった。
茶化しているつもりはないが、彼にとってはあまり気分の良いことではないだろう。
それぞれの攻撃手段は異なっているが、基本的に違うのかそれともお互いに相手の使った方法が使えるのかは現状では判断出来ない為、他の攻撃手段があるのかも含め今後検証していくしかない。
次に防御だが、これも翔は使えるようだ。
奈緒同様、薄い透明な膜のようなものを張り巡らすことで相手の攻撃を防いだらしい。
その透明な膜は性質を考えれば結界、バリア、シールドといくつかの呼び方が考えられるが、障壁と呼ぶのが一番しっくりくるというのが二人共通の意見だった。
それは単なる偶然か、それとも意味のあることなのかはわからない。
何となくそう思っただけなのか、気付いていないだけで本能的に何かを感じ取ったからなのか、現状では考えるだけ無駄な気がしたので深く考えないことにした。
そして治癒だが、翔はその能力のことは知らなかったらしい。
奈緒がその時の状況を知らせると、困惑し頭を抱えているようだった。
これも回復ではなく治癒と表現することで意見が一致している。
この能力に関して現状わかっているのは、鬼とは関係のない他人の怪我は治せないということだけだ。
つまり、治せるのは自分の怪我だけなのか、鬼が絡んだ怪我だけなのかわからない。
鬼が絡んだ怪我しか治せないのであれば、治せるのは自分の怪我だけなのか、それとも他人の怪我も治すことが出来るのか今のところは不明だ。
ただ、仮に自分の怪我だけしか治せないのだとしても、鬼とは関係のない怪我までは治せないのではないかという気はしている。
当然のことながらこの能力を知らなかった翔にその力が使えるかどうかは現状わからないし、それは今後検証するしかないのだが、この能力が必要な状況は負傷した時であり、出来ればあまり使う機会がないことを願うばかりだ。
瞬間移動に関しては、翔は遠く離れた地に生じた鬼の気配に意識を集中させることでその場所に移動し、戻る時は元の場所をイメージすることで戻っている。
勿論、昨日初めて自宅近くで鬼に遭遇したばかりの奈緒にその力が使えるかはまだわからない。
翔同様、遠く離れた場所に鬼の気配を感じた時に試してみるしかない状態だ。
最後に、非常識にも程がある凄まじい身体能力の向上。
翔がこちらへ移動してきた後、鬼の気配を頼りにそれを追いかけたそうだが、最終的に鬼の移動する速さは、体感的にではあるが、高速道路を走行する自動車並みになっていたらしい。
つまり、それから逃げていた奈緒も同じくらいの速さで走っていたということだ。
薄々感じていたとはいえ、まさかそこまでだとは思わず、今度は奈緒が頭を抱えてしまったのだった。
取り敢えず、この力に関して現状わかっているのはこの程度だ。
鬼に関しては全く何もわからない状況だが、翔も奈緒も、今後もそれと遭遇することを前提として話をしている。
これからもそれと遭遇するという確証などないが、近いうちにまた現れるのではないかと予感していた。
予感というより確信していると言った方がいいかもしれない。
また翔は今後、今の自分達では手に余る強力な鬼が現れることを懸念していた。
それについては奈緒も同感だ。
翔はそれと二度遭遇したということだが、どちらもあっさりと倒せたらしい。
奈緒も散々逃げ回りはしたが、結果的にはあっさり倒している。
跳躍距離こそ異常ではあるが、跳んで刀を振り下ろしただけだ。
複雑な動きなど一切していない。
だからと言って、それらと同程度の強さの鬼しか出ないと楽観視するのは、余りにも浅はかで危険な考えだろう。
ただ、それに備えて強くなる必要があるとしても、どうすれば強くなれるのか全くわからない。
これに関しては途方に暮れるしかなかった。
それから他にも気になるのが、翔の推測通りであれば、自分達以外にも同じ能力を持つ者がいるということだ。
昨日同時刻に、遠く離れた北の方角にも鬼の気配を感じたと翔は言っていた。
そして、奈緒が鬼を倒した頃にはその気配も消えていたと。
ならば、自分達と同じような状況が発生していたと考えるのは自然なことだろう。
普通ならば、それだけ遠く離れた場所にいる相手と出会うとは思わない。
だが実際に、島根と福岡、それだけ離れた場所に住んでいながら、翔の瞬間移動によって二人は出会っている。
それを考えると、もう一人の相手とも出会う可能性はゼロではないし、他にも同じ能力を持つ人物が現れる可能性も無視出来ない。
もし出会えるのであれば、彼らとも情報を共有する必要がある。
翔と奈緒は、これらの話をメッセージで遣り取りしていたのだが、場合によっては、複数で遣り取りすることが可能なアプリを使用することも選択肢に入れなければならないだろう。
因みに鬼の出現した時間帯だが、今のところ午後六時から七時の間に出現しているらしい。
二人が把握している鬼の出現回数は四回だけということを考えれば、単なる偶然なのかもしれない。
だが仮に出現する時間がその時間帯だけなのであれば、色々と行動するのも予定が立てやすくなるし、そうであってくれればいいのにとも思う。
また、あの鬼が、自分達以外の者に見えるのかどうかも気になる。
鬼が見えるのは自分達だけなのか、霊感がある者もそうなのか、それとも霊感があるかどうかに関係なく誰にでも見えるのか、全くわからない状態なのだ。
翔は、周囲に誰もいない時にしか遭遇していないらしい。
奈緒も、必死だった為自信はないが、誰かを見掛けた覚えはない。
もし見られていれば大騒ぎになっている可能性があるし、今のところその様子はないから大丈夫だと思いたい。
これ以上面倒な事態になるのは御免だ。
それを考えれば、自分達以外にも見えるのか確認出来る状況にならないことが望ましいのだろう。
それでも気になってしまうのは、仕方のないことかもしれない。
最後に翔は、最近何か異変を感じたことがなかったかどうか聞いてきたのだが、奈緒の思い当たる異変といえば、此の世ならざる者を視る機会が増えたことしか思いつかない。
それを伝える前に、他にも何かあっただろうかと記憶を掘り起こしていると、翔も同じ状態であることが告げられた。
正確には、視る機会ではなく、気に留める機会が増えたと表現するべきだろう。
奈緒は、視ても基本的には意識しないようにしているし、特に害のないものは無意識にスルーしている。
だから実際には、認識している以上に視ていたりするのだが、視えたところで何も出来ないことに変わりはない。
だから、無関心を貫くようにしている。
それでも、時折はっきりと認識してしまう。
そうしたことが増えたのだ。
お互いにそれを言葉にはしていないが、実は翔も似たような状態だった。
それが鬼の出現と関係あるかどうかはわからない。
これも現状では、確認のしようがないことだ。
以上が、昨夜翔と話した内容だ。
結局、状況を整理したところで多くの疑問が生じただけだった。
正直頭が痛いし、特大の溜息が出るばかりだが、一人で抱え込まないで済むだけでも随分とマシなことだろう。
これまで翔の抱えていた精神的負担は、かなりのものだったのではないかと思えた。
もし自分が同じ立場だったなら、それに耐えられただろうか。
奈緒は身支度を終えたところで、考えた末、制服のスカートに隠れる短い丈のスパッツを小さめのポーチに入れ、それをスクールバッグに入れた。
念の為の保険だ。
出来れば、鬼の出現時間が午後六時から七時の間に限定されますようにと願わずにはいられない。
一階に降り、自分の分の弁当をスクールバッグに入れ、弘樹の分の弁当を片手に玄関へと向かう。
いつものように、既に弘樹は家の前で奈緒を待っていた。
玄関ドアを開けると同時に奈緒を確認しこちらに寄ってくる。
朝の挨拶を交わし、ドアを閉めながら、奈緒は手にしていた弁当を彼に差し出した。
「…サンキュ」
弘樹がそれをスクールバッグに仕舞う間に玄関の鍵を閉める。
現在この家に住むのは、両親と奈緒の三人。
三歳上の兄は大学進学を機に家を出て一人暮らしをしているので、戸締りは必然的に一番最後に家を出る奈緒がすることになる。
その僅かな時間に会話がないのはいつものことだ。
表面的には何ら変わりはないが、弘樹の手を振り払って以降、二人はぎくしゃくとしていた。
振り払われた理由がわからない弘樹は、きっと困惑していることだろう。
昨日も弘樹は一緒に帰宅した時はいつもそうであるように、奈緒が家の中に入るのを見届けてから隣の自宅に向かった。
ただ、いつものような会話は全くない。
何か言いたげに口を開きかけたが、結局は何も言わずに奈緒を見送った。
今も何か言いたそうにしているが、戸惑うような表情で口を噤んだままだ。
そのまま、言葉を交わさず駅へと歩き始める。
二人の間には、これまでにないほど重くてぎこちない空気が流れていた。
それでも、奈緒は自分の身に起きたことを弘樹に話すつもりはなかった。
(弘樹を巻き込むわけにはいかない。危険な目に遭わせるなんて絶対にダメ…)
弘樹だけでなく、友人達も巻き込むつもりはない。
だから、当事者以外にこの話をするつもりもない。
だけど、その状態で彼らと一緒にいてもいいのだろうかと不安に潰されそうになる。
(どうしたらいいの……?)
初めての弘樹にも言えない大きな秘密に、胸が苦しくて痛い。
巻き込みたくはないのに、弘樹と離れるのは寂しいと思う気持ちに、奈緒はまだ気付いていなかった。
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