第13話

 どれくらいの間そうしていただろう。

 奈緒は漸く自分の身体を抱きしめていた腕を解くと、ゆっくりと息を吐き出した。

 いつまでもこうして立ち尽くしたままでいるわけにはいかない。

 家に帰れば夕飯の支度もあるし、授業の予習復習に加え課題もある。

 それに、この後やるべきことはいつもの日常的なことだけではない。

 今日に限っていえば一番重要なのは、その日常的ではない、会ったばかりの翔と連絡を取り合いより詳細な話をすることだ。

 その上で今夜は色々とあって眠れるかはわからないとはいえ、睡眠時間だって最低限確保しなければならない。

 あまりのんびりとしている時間はないのだ。

(取り敢えず、帰らなきゃ……)

 そうして無理矢理気持ちを切り替え、帰宅する為にのろのろとした動作で歩き出そうとした瞬間、左膝に微かな痛みを感じた。

 恐らく化け物を倒す為に跳躍した後、地面に左膝をついて着地した時にでも出来たのだろう。

 そこには小さな擦り傷があった。

(家に着くまでに血が出ないといいけど……。傷口洗わなきゃ絆創膏も……、って…、えっ!?)

 傷の手当てのことを考えた途端、確かにそこにあった傷も痛みもゆっくりと消えていった。

 最初から怪我などなかったかのように、跡形もなくきれいに消えてしまっている。

 奈緒はそこに視線を合わせたまま数度眼を瞬かせると、思わずゴシゴシと強く眼を擦った。

 それ自体が夢か幻だったのかと思える程見事に消えているが、擦り傷が出来たこともそれにより痛みを感じたことも、間違いなく現実に起きたことだ。

 そのことに少なからず動揺しながらも、頭の中では冷静に今起きたことに関して推測していた。

 推測とは言っても、確信しているも同然ではあるのだが。

(これも、さっきの力の一部なのかしら……?取り敢えず、翔に報告しないといけないわね…)

 次から次へと頭が痛い。

 この短時間の間に色々有り過ぎて、何度も何度も溜息を吐いてしまうのは仕方がないことだろう。

 普通ではないことばかりで嫌気が差してくる。

 再び足を止め頭を抱えていると、後ろから不思議そうな声音をした聞き慣れた声に呼ばれた。

「奈緒?お前何やってんだよ、そんなとこで突っ立って」

 思考を巡らせ始めたところに掛けられた声に思わず肩をビクッと震わせ振り向くと、その声音同様に不思議そうな顔をした弘樹がこちらを見ていた。

 弘樹の顔を認め肩の力を抜くも、何と言って返したらいいのかわからない。

 どう答えようかと迷い始めたところで彼の格好に気付き、結局質問に質問で返すことで誤魔化すことに決めた。

「…弘樹こそ、先に帰ったんじゃなかったの?」

 先に帰ったと思っていた弘樹の格好は、何故かまだ制服のままだった。

 しかも、彼にしては珍しく着崩している。

 意外に思うかもしれないが、普段の弘樹は割ときっちりと制服を着ている。

 ネクタイはちゃんと締めているし、シャツのボタンを開けることもない。

 せいぜいブレザーのボタンを開けているくらいだ。

 だが今の弘樹は、ネクタイを緩め、シャツのボタンを二つ開けていた。

 それでもだらしなくは見えないのが不思議なところだ。

 だがよく見ると髪はボサボサになっているし、どこか疲れたような顔をしている。

 どうしたのだろうと思い見ていると、ムスッとした顔でぼやくように口を開いた。

「今日もサッカー部の先輩に捕まったんだよ。直ぐに逃げたけど校門の外どころか、電車の中まで追いかけられてさ…。結局、二つ前の駅で降りて逃げ回る羽目になったんだよ。しかも気付いたら、一つ向こうの駅近くにいたからな……」

「……」

 一体何をやっているのだろうか。

 最寄駅に電車が着く時間を考えれば、この時間にこの辺りを通るのはどこか不自然だと思いはしたが、まさかそのような事情があったなどと誰が考えるだろう。

 つい先程まで色々と深刻に考え込んでいたというのに、何だか毒気を抜かれたような気分だ。

「いくら弘樹が入部したからって、劇的に強くなる訳じゃないと思うけど…」

「だよなあ。一勝くらいしたいって言うけどさ、いきなりそれなりに強いとこと当たったら、俺がいてもいなくても変わんねえっての。第一俺みたいな中途半端にしかやってなかった奴なんて、真剣にやってる奴らに直ぐ抜かれるよ」

「強豪校に勧誘されといて何言ってんのよ…」

「いや、正直何で俺が勧誘されたのかわからねえんだけど。他校の奴らにはそんなひょろひょろの身体でよく動けるなって皮肉言われてたし」

「そうなの?でもひょろひょろっていうのは違うような…。てかそれって皮肉なの?」

 確かに弘樹は全体的にすらりとしたという表現が似合う体型をしているし本格的にスポーツをやっているようにはみえない。

 だが程よく引き締まっているし、決して軟弱なイメージはない。

 しかも見た目に反してかなり体力がある。

 もしかしたら皮肉ではなく負け惜しみの類ではないかとも思ったが、確証はないので奈緒もそれを口にはしなかった。

(それにしても、何であたし、さっきの今でこんな呑気な会話してるんだろう…)

 先程起きたことに関して何も知らない弘樹が相手だから仕方ないとはいえ、あまりの温度差に遠い眼をしてしまう。

 渇いた笑いを漏らさないだけマシかもしれないが、全身から力が抜けそうになるのはどうしようもなかった。

 不自然に思われない程度に小さく息を吐き少し視線を落とすと、弘樹の右手の甲に引っ掻いたような傷が出来ているのに気付いた。

 それを眼にした途端、奈緒は自分の傷が消えたことを思い出し、場合によっては面倒な事態になるのは承知の上でその傷に意識を集中させた。

 だが、今度は一向に変化が訪れない。

 より詳細な情報を得る為とはいえ、弘樹を誤魔化さなければならない状況にならずに済んだことにホッとしながらも、厳しい表情にならないよう注力せざるを得なかった。

(治せるのは自分の傷だけ…?それとも、あの化け物が絡んだ時だけなの……?)

 明確なことがわかった訳ではないが、化け物が絡まない他人の傷が治せないことがわかっただけでも今はよしとするべきだろう。

 出来る限り弘樹に不審に思われないよう表情に気を付けながら考えを纏めていく。

 だが、他の者なら気付かないような奈緒の些細な表情の変化を彼が見逃すことはなかった。

「どうした?さっきから何かおかしくないか?」

 そう言いながら弘樹が、心配そうな顔で奈緒の頬に手を伸ばす。

 それは、二人にとっては自然で当たり前のことだった。

 ただ、奈緒の反応はこれまでと異なるものだった。

「いやっ…!」

 頬に触れそうになった弘樹の手を反射的に振り払った奈緒は、自分のその行動に呆然とした。

 何故そんなことをしたのか、自分でもよくわからない。

(どうして…?こんなの、いつものことなのに……)

 奈緒が落ち込んでいた時や体調が悪そうにしていた時など、心配した弘樹が奈緒の頬に触れたり、額に手を当て熱がないか確認することは、幼い頃から数え切れないほど自然に行われてきたことだ。

 奈緒もそれが当たり前のことであるかのように受け入れてきた。

 だからこそ、自分の取った行動に驚き戸惑いを隠せなかった。

「奈緒?」

 呆然とした声に呼ばれ顔を上げると、同じく驚き戸惑っている弘樹と眼が合った。

 その表情に傷付いている様子が窺え、胸に痛みを覚えた。

「…ごめん、ちょっとびっくりして……」

 そう言って顔を背けるのがやっとだった。

 弘樹にそんな顔をさせてしまったことを申し訳なく思いながらも、彼の顔を見ることが出来なかった。

「いや……、俺も驚かせて悪かった…。お前、今日も夕飯作るんだろ?早く帰らないとな」

 奈緒の頭にポンと手を乗せると、お互い顔を見合わせることもないまま弘樹が先立って歩き始め、奈緒も黙ってそれに続いた。

 謝る必要もないのに謝った弘樹に、そんな資格もないのに泣きそうになる。

(何で、あんなこと…。それにしてもあの化け物のことは、流石に弘樹にも話せないよね……)

 これまで、弘樹に対して秘密にしたり隠し事をすることがなかった。

 だが今回は、そんな簡単に話せることではない。

 信じてもらえないかもしれないし、信じてもらえたとしても、とてつもない心配を掛けることになるだけだ。

 それに、彼を巻き込みたくはない。

(だけど、さっき弘樹が一緒だったら、一体どうなっていたんだろう……)

 そこまで考えて、背筋が凍りそうになるのを感じた。

 奈緒自身はあの力があったから切り抜けることが出来たが、力を持たぬ者があの化け物と遭遇したらどうなるのだろうか。

 奈緒の顔が強張り青褪める。

 だが、無言で前を歩く弘樹がそれに気付くことはない。

 奈緒の中で不安が膨れ上がっていくが、それがどういう種類のものなのか、全てを理解していなかった。

 そしてこの日起きたことが、二人の関係が変わるきっかけの一つとなったことも、奈緒が気付くことはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る