第8話

 一体どれくらい走り続けただろうか。

 あまり使うことのない道とはいえ、見知った場所であるにも拘らずその感覚が掴めない。

 闇雲に走り続け、何度か角を曲がったような気はするが、何処をどう走ったのかわからない。

 わかっているのは、自宅とは違う方向であるということだけだ。

 それ以前に今の奈緒には、状況を冷静に分析する余裕などない。

 そして、現在の自分の状態を認識することも。

 額には薄らと汗が滲んでいるが、不思議と息は上がっていない。

 それどころか、呼吸が乱れる様子が全くない。

 おまけに、今や走るスピードは、高速道路を走行する自動車に匹敵する速度となっている。

 奈緒はそれらを疑問に思うどころか気付くことさえ出来ないほど恐怖のあまり混乱し、ひたすら走り続けることしか出来ずにいたのだった。




 異形の者が、周辺の地図を確認していた地点から四つ目の角を曲がったことをその気配から察していた翔は、その角へと急いでいた。

 途中、一つ目、二つ目の角へと到達する度に、その気配と地図とを確認しながらその先へと進む。

 周辺の道がそれほど複雑ではなかったこともあり、異形の者の気配が地図上の道のどの辺りにあるのかすぐに見当を付けることが出来た。

 もしこれが複雑に入り組んだ道であったならば、これほど容易なことではなかっただろう。

 気配を辿り、それを追いながら、翔は異形の者が何を追っているのかが気になっていた。

 人影のようにも見えたが、どう考えても生身の人間に出せるスピードではない。

 ならば、あれは一体何なのだろうか。

(それにしても、なんて速さだよ…。これじゃ追い付くのは…って、えっ!?)

 漸くそこで翔は、先程から異形の者の気配と自分の距離が、それほど変わっていないことに気付いた。

 角に到達する度に地図を確認していた分、若干離れはしたが、ただ走り続けている間は、変わらないどころか逆に若干詰めているような気さえする。

(有り得ない速さで走っているのは俺もかよ…!?)

 どうやら例の力は、身体能力を超人的なものに引き上げる効果もあるようだ。

 そのことに、思わず苦虫を潰してしまう。

 次から次に、常軌を逸するにも程がある。

(――!?まさか、あれが追い掛けているのは人間か!?俺と同じ力を持っている奴なのか…!?)

 三つ目の角を通り過ぎたところでその可能性に気付き戦慄が走るのとほぼ同時に、異形の者の気配の進む方向が変わったのを感じた。

 慌てて地図を確認すると、その気配が時計回りに一周するかのように移動していることに気付いた。

 その先は、最初に異形の者達が走り抜けて行った真っ直ぐな道へと繋がっており、そこまでの間に曲がり角は存在しない。

(上手くいけば、先回りする位置に出れるかもしれない…)

 そう考えた翔は、一か八か、今来た道を全力で引き返し始めるのだった。




 一度も足を止めることなく走り続けている奈緒は、次第に恐怖だけではなく焦燥感も募らせ始めていた。

 例の異形の者は、変わらず奈緒を追って来ている。

 背後に足音は全く聞こえない。

 だが、全身で感じている禍々しい気配がそれを教えていた。

 そしてそれは、少しずつではあるが着実に距離を詰めてきている。

 それも、既に僅かな距離しか残されていないということは、振り返らなくてもはっきりとわかる。

 逃げ回っているだけでどうにかなる状況ではないのは明らかだ。

 だが、それ以外の手段が思い付かない。

 あの化け物を凌ぎ逃げ延びる為に有効な手段など、一体何があるというのだろうか。

(助けて、弘樹――!)

 無意識に、誰よりも近くに居続けた幼馴染みの名を呼び、助けを求めていた。

 それは何故なのか、奈緒にはわからないし、考える余裕もない。

 それを疑問に思うことすらない。

 ただひたすら走り続けることしか出来ない。

 そうする内に、それの気配がすぐ後ろまで迫っていることを感じ、思わず振り向いた。

 その瞬間、それが自分に襲いかかろうとしているのに気付いた。

 その距離、僅か三メートル弱――。

 鬼のような顔をした女が、宙を舞った。

「いやっ!!」

 反射的にそれに向き直ると、勢いがあったからかポニーテールにした栗色の髪の毛先が視界を遮ったが、それを気にしてなどいられない。

 瞼をぎゅっと閉じ、顔を庇うように右手を掲げながら、奈緒は身を引き裂くであろう衝撃を覚悟したのだった――。




 取り敢えずの目的としていた地点まで引き返した翔は、ほぼ同時に異形の者の進む方向が再び変わったのを感じた。

 それは真っ直ぐに、翔のいる場所へと向かって来ている。

 そして、異形の者が現在いる地点から一番近い曲がり角は、翔が視認した時にそれが通り抜けて行ったところ。

 そこへは、翔の方がずっと近い。

 距離は相手の半分以下だ。

(上手いこと狙い通りになったな!)

 近いとはいえ、相手より先にその場所まで辿り着かなくては意味がない。

 翔は異形の者の気配に意識を向けつつ、その地点へと急いだ。

 そして何とか先に辿り着くと、漸く異形の者の姿を捉えた。

 それだけでなく、その少し手前に、同じく凄まじい速さで駆けて来る人影があることに気付いた。

 どこかの学校の女子の制服らしい服装であることから、追われているのは翔と変わらない年頃の少女だろうか。

(――女の子っ!?…まずいっ!)

 少女と異形の者との距離は殆ど残されていない。

 今にも、異形の者が少女に襲い掛かろうとしている。

(くそっ!間に合うか!?)

 その状況に焦りを感じた翔が更に走る速度を上げると同時に、一か八かで力を放とうと試みる。

 だがその直後、眼の前で起きた出来事に、力を放つどころか足まで止めることになった。

 何となく予感していたこととはいえ、予想を上回る展開が繰り広げられたことに、暫し驚愕したまま立ち尽くす羽目になったのだった。




 右手に痺れるような衝撃が走る。

 だが、予想された激しい痛みに襲われることはなかった。

 衝撃を感じた右手には、そこにある筈のない何かをしっかりと握りしめる感触がある。

 奈緒はそれに戸惑いながら、ゆっくりと閉ざしていた眼を開いた。

 そして、今、自分の身に起きていることに気付き愕然とすることとなった。

(――何なの、これは!?)

 その女と自分を遮るように、透明な膜が張られている。

 結界、障壁、シールド。

 恐らく、そういった類のものだろう。

 自分の右手が握りしめていたのは、青白い光を放つ剣のような物。

 いや、その形状は、刀の方が近いかもしれない。

 透明な膜と光る刀で、その女の鋭い爪を持つ手を受け止めていた。

(一体、どういうことなの!?――いや、それは後で考えるべきことよね)

 取り敢えず今やるべきことは、この化け物を凌ぎ現状を打開することだ。

 先程まで恐怖のあまり混乱していたとは思えないほど冷静にそう判断すると、無意識に右手の光る刀を薙ぎ払う。

 同時に、その女が十メートル程後方に飛び退った。

 光る刀を左手に持ち替え、右肩からずれ落ちたスクールバッグを少し後方の地面に素早くかつそっと置くと、改めて両手で刀を握りしめる。

 そして、相手が体勢を整えるより先に、地面を力強く蹴った。

 瞬時に相手の斜め上、刀の届く間合いへと距離を詰める。

 異形の女を見据え、振り上げた刀を躊躇うことなく落下の勢いに合わせて真っ直ぐその頭上目掛けて振り下ろした。

 刀が、女を真っ二つに切り裂く。

 トンッ、と片膝をついた状態で奈緒が着地するのと同時に、憎しみに満ちた眼を大きく見開いた女の姿が光に包まれる。

 その光が膨らんだかと思うと、すぐにスッと霧散した。

 それから一拍置いて、左肩の前にふわりと落ちた髪の毛先を頭を振って背中に戻すと、静かに立ち上がった。

 その右手には、光る刀を手にしたままだ。

(それにしても、どういうことなの――)

 奈緒は、女が消えた空間を見詰め眉を顰める。

 一体、あれは何者なのだろうか。

 何故、自分が襲われそうになったのだろうか。

 何故、突然自分にこのような力が使えたのか。

 この力は、一体何なのか――。

(剣っていうより、日本刀とかの方が近いかしら?)

 未だ自分の右手にある光る刀に視線を落とし、思案を巡らせる。

 だが、いくら考えても答えの出ないことばかりだ。

 自分の身に起きたことに意識を集中しすぎていたかもしれない。

 新たな気配が生じていたことに気付くことが出来なかった。

「剣?いや刀か?」

 先程自分が考えていたことの一つと似たような言葉を、小さく呟く声が後ろから聞こえた。

 その声に驚き右手の力が緩むと同時に、刀が消失する。

 それを気にする余裕もなく、弾かれたように振り向いた。

 その先に見えたのは、一つの人影だ。

 奈緒がスクールバッグを置いた少し後方、そこにいた声の主は、同じくらいの年頃の見知らぬ少年だった――。

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