品種改良を施された新しい種子は確かに豊穣をもたらしたが、その反動として種子の値が高騰した。入植管理局は農場の数をきちんと把握していながら、必要な量の種子を確保していなかった。仲間内での無意味な競り合いを避けるために、私たちの栽培燃料ジョゴ農場地域帯プランテーナは競りで落とした種子を、抽選によって販売する形式を採用した。抽選の結果、私たち家族は8番目に種子を購入する権利を得ていた。次の定期便がいつ種子を運んでくるのか見当がつかないのだと入植管理局の役人は呑気に言った。

 「それまで古い種子でやりくりしてもらう他ありません。β-3農薬の使用は農場主の判断に委ねられます」

 継続して新しい種子を購入する権利を得た近隣農場の喜びを余所に、私たちは再び古い種子を持ち出すほか方法がなかった。父はβ-3農薬の不使用を宣言したが、新しい種子で馴染んだ土地に、β-3農薬なしで古い種子を捲いたところで、家族の家計を支えるほど十分な栽培燃料ジョゴを収穫できる保証はなかった。

 入植管理局がβ-3農薬の活用段階を特別推奨から、非推奨に切り替えたことで明らかなように、辺り一帯に蔓延する病の原因がβ-3農薬にあることは間違いなかった。

 私たちは疲弊していた。家族の内、誰一人として一人前の力を発揮できる者はいなかった。父は呼吸器を患い、私は依然として片足を引きずっていた。母は度重なる心労から精神を病み、最近では故郷の写真を手に幻の友人に語りかけている。最も症状の重いショーは左腕の肘より先を失い、病巣は新たに内蔵系にまで達しつつある。

 巨大複合入植企業コングロマリット地域の医者は私たちに薬を処方することを惜しんだ。それどころかヴヴ市街の病院ですら私たちに出す薬の量を絞っていた。夜まで延々と待たされたあげく、私が手にすることのできた薬は必要量の半分にも満たなかった。貴重な薬品類は新たにやって来る第三次入植者のために備蓄された。私たちは実験体で、失敗作だった。腐りゆく作物は、刈り取って未来への影響を最小にする方が良い。健康な働き手がこの先いくらでも現れるのだから、農場プラントに空きがある方が喜ばれるのは自明なことだろう。

 病院を出るとゴプトが待っていた。すり減った地盤に車体を傾けて停まる高級自動車ヴィァ・モブはいかにも居心地が悪そうだった。高級自動車ヴィァ・モブに乗り込む私を、通院者たちは奇妙な物を見る目で眺めていた。高級自動車ヴィァ・モブ栽培燃料農家ジョゴ・ファーマーの取り合わせには、どこかしら不誠実な趣がある。

 「もう二度と訪れてはくれないものと心配になりました」シュシュ・ウントは前回の非礼を丁寧に詫びた。

 室内は相変わらず強いハーブの香気で満ちていた。その香りは、唱われる効用とは反対に私の気持ちを落ち着かなくさせた。

 「農場を長く離れることが出来なかったものですから」と私はまごまごと答えた。

 シュシュ・ウントは思慮深く頷いてみせると、椅子を勧めた。

 「先日あなたが置き忘れていった物に、最近ようやく向かい合う気概を持つことができました。あなたには数字が書かれたただの板きれに見えるかもしれませんが、この札は、私にとって直視するのがひどく辛い物です」

 シュシュ・ウントは目線をあらぬ方にやりながら、手振りで札の在処を示した。32の番号札は空っぽの棚にぽつんと飾られていた。

 「あの札をご存じなのですか?」

 「私は39番でした。母は35番です。ゴプトの父親には43番が課せられていました」シュシュ・ウントは抑揚に欠けた声で言った。口が半ば開かれたまま閉ざされなかった。言葉を吐き出そうにも喉の奥に引っかかり、うまくしゃべれないように見えた。幾度かの挑戦の末、彼女は口元を引き結んだ。

 ゴプトはシュシュの後ろに控えたまま沈黙を守っていた。

 私は会話の始まりを引き取った。

 「私の農地に、32番号札と、その持ち主が埋まっていました。彼は、あるいは彼女はまるで古代の王のように、たくさんの物品に囲まれていました。そこには32以外の番号札も含まれています。フェムの物が混ざっていたかどうかはわかりません」

 「私の札はすでに処分しました。母が自分の札をどうしたか、私は知りません」シュシュ・ウントはやっとのことで言葉を繋いだ。

 「話の続きを聞かせていただけますか?」

 シュシュ・ウントは病人のように弱々しく頷いた。

 言葉はなかなか出てこなかった。瞳だけが周期的なコースを辿って動いた。病的なカウントアップは時を経るごとに速度を増した。

 1,2,3……

 1,2,3、4……

 息を引き取る間際の家族を見守るような、居心地の悪い沈黙が続いた。

 「あなたは自身が幸運であると思いますか?」シュシュ・ウントは視線を動かす速度を落とさずにしゃべった。

 「わかりません。そんなこと考えてみたこともありません」

 「私は自身が幸運の持ち主であることを知っています。そして同時に、自身がどれくらい不運であるかも知っています。幸運とは相対的に規定することができる価値です。一から百までの数字に序列を設ければ、自分の持つ数字よりも優位な数字を持つ者は誰もが幸運であると言えるでしょう」

 「番号札に記されている数字が幸運を表すとでも言うのですか?」

 「私は35の札を持つ母よりも幸運で、43の札を持つゴプトの父親よりも不運でした。そして、32の札を抱えた男は、それよりも若い数字を持つ者よりも幸運であったはずです」

 「正直なところ、うまく話に着いていけません。それは、配給証のような物だったのですか?例えば、薬の受け取りを待つような」

 シュシュ・ウントは答えを返さなかった。視線だけが忙しなく動いた。手元が小刻みに震え、力強く肘掛けを握りしめていることが伺えた。

 ――怯え?

 ゴプトは依然として沈黙していた。

 「大丈夫ですか、フェム?」と私は尋ねざるをえなかった。

 「オゼルの海は赤かった」

 「失礼、今なんと仰ったのですか?」

 「オゼルの海を私は未だに思い返します。オゼルの海は赤かったと大人たちは私に語りました」

 「赤いと表現される海を私は目にした事がありません」

 「そうでしょうか?そうかもしれませんね」シュシュはそこで空気中に重苦しく漂うハーブの香気を深く吸いこんだ。

 「海は私が物心をつけるより前に涸れていました。水は一滴もなく、白く乾いた大地がどこまでも続いています。かつて水が存在した証拠として波打ち際に波線が残されていました。私はその線を辿って良く散歩に出掛けました。海は立ち入りが禁じられていました。近寄る者がおらず、底抜けに静かだったのです」

 「オゼルとはあなたの暮らした土地の名前なのですね?」

 シュシュ・ウントは否定とも肯定とも取れる呻きを発した。

 私は、ただ頷いた。

 シュシュ・ウントの不揃いな呼吸がノイズとなって耳に届いた。

 「オゼルの海が涸れたのと同じ頃、第一次入植者と自称する者たちがオゼルの地から退去を始めました。私が幼少の頃に接した入植者たちは、退去からあぶれた者たちです。彼らは母の勤める老齢者保護施設クレードルに置き去りにされていました。私は母の退勤を待つ傍ら、彼らの元に通いました。彼らの語る外界の話は刺激的で、老人たちにつきものの退屈さとは無縁でした。オゼルの海が赤かったという話も彼らから聞いた話です。彼らは……」

 ここで、シュシュ・ウントは深い呼吸を繰り返した。

 「老齢者保護施設クレードルでは老人たちが一週間に一人、必ず死んでいきました。死の報せを受ける日には決まって部屋の内に甘い香りが残っていました。それは、この部屋に立ちこめるハーブの香気に似た、強力な弛緩作用をもたらす薬品の匂いでした。給仕室で上る噂話によると、老人たちは仲間を穏やかに眠らせた後、濡れタオルを一枚、鼻と口元を覆うように掛けたそうです。私は特別仲の良かった老人に、その旨の是非を問いました。彼はただ順番が決まっていることを暗に告げました。彼らの従った順序とは何であったのでしょう?私はついぞ、その順序の謎を解き明かすことができませんでした。私の友人である老人の番が巡ってくる前に、私たちは捕らえられ、場所を移ってしまったからです。老齢者保護施設クレードルに居た老人は、その際全員が殺されたと、後に伝え聞きました」

 「シュシュ・ウント、あなたは一体何の話をしているのですか?」

 「私たちは定められた順序に従って生きていくことを余儀なくされています。花を摘むと、その後に果実が実ることはありません。定められた順序が乱れると物事は歪みます。母は私より先に死を迎えました。それは、正しい事です。あなたの事を調べさせたと、以前話しましたね?あなたに割り振られた入植コードを目にしたとき、ひとつの考えが私の頭をよぎりました」

 「入植コード?」

 「331A-2-2891」

 シュシュ・ウントがそらんじてみせた数字には覚えがあった。入植管理局がヴヴへの渡航時に割り振った管理コード。ヴヴに着いてからはおろか、申請の時ですら意識したことのない数字だった。

 「覚えていません。たぶん、合っているのだと思います」

 シュシュ・ウントは私の反応などお構いなしに話を続けた。

 「大事な点は、入植世代を示す2という数字にあります。この地を新しく始めるためには、新しい世代の力が必要となります。私は他の多くの人間よりも、ずっと前にいなくなっている必要があったことにようやく思い当たりました。私は長く生きすぎました。始めから私の生きる場所などなかったというのに」

 「私にはあなたが仰る事の意味がよくわかりません」私は支離滅裂に思える言動に疲れ始めていた。

 「あなたが知りたいと望んだことです。それは、遠い昔に忘れられた土地の名前です。オゼルは、この世界における一番最初の入植地でした。現在のヴヴを支配する第一次入植者の末裔は、その半数以上がオゼルからの撤退者で構成されています」

 「でも、私は今までオゼルの名を耳にしたことがありません。ヴヴへの入植の歴史は、たかだか五十年しかありません。人々の記憶からその名が消えるには時間が足りないように思えます」

 「私の時間では、ヴヴがその統治をオゼルからの撤退者に引き渡してから最低でも百年が経過しています」

 「そうすると、あなたの年齢は百を超えることになりますね」私はいよいよ狂った人間を相手取るようなぞんざいな態度を隠すことができなくなっていた。

 「その通りです」とシュシュ・ウントは事もなげに答えた。「多くの人間が私たちの血の秘密を解明しようと外界から押し寄せてきました。彼らは始め、私たちの血を得るために礼儀正しく協力を仰ぎました。母の話では、広場に設営された天幕の下、幾ばくかの血を提供するだけで必要十分な見返りが手に入ったそうです。血の提供が、任意の協力から義務に変わるまで、そう長い時間が掛からなかったと聞いています。外界人たちは、オゼル人の血が若返りの効果を発揮することを発見したのです。当時オゼルの地に押し寄せた共同体ネイションは十を越えていたことでしょう。その中には、あなたの知る旧時代の共同体ネイションも多く含まれているはずです。彼らは入植者同士協力して血の独占を始めました。故郷である外界を相手取って交易を始めたのです」

 「残念ながら、そのような話を聞いたことはありません。私の暮らしたイースト・ユーローでは、人が百を越えて生きることすら希でした」

 シュシュ・ウントは訳知り顔で頷いた。

 「それもそうでしょう。私たちの血は彼らに合わなかったのですから。オゼル人の血を摂取した外界人は、最初こそ若返りの兆候を示しましたが、数年が経つと、その反動であるかのように急速に老いて行きました。先ほどの話しに出た老齢者保護施設クレードルの老人たちも、せいぜい四十に届くかどうかの年齢でした」

 「その頃の第一次入植者たちの記録が残っていない理由がそこにあると?」

 「血は商品です。それもとびきりの高値で取引される高級品です。オゼルへやって来た入植者の中で、オゼル人の血を得る事ができた者は多くありません。オゼルを捨てヴヴへ拠点を移した人々は、それまでの権力者を殺し、新たな秩序を打ち立てました。権力者を見つけることは容易でした。血によって老い、弱った者を順に始末していけば良かったからです」

 シュシュ・ウントは言葉を句切ると、指先で自身の首筋に触れた。例え彼女が狂っているとしても、その姿は凛として美しかった。彼女の年齢が母より上だとはとても思えなかった。それ故に、百を超えているという彼女の主張は奇妙な現実味を帯びていた。

 「私たちは己の血をこの体に留めている限り無害でした。しかし、ヴヴへの撤退者たちは私たちを放っておいてはくれませんでした。私たちはオゼルから別の土地に移送され、収容されました。そこは無機質な壁に囲われた場所で、明かりに乏しく、不衛生で、言うなれば牢獄のようでした。そこで割り振られた番号があなたの見つけた木札に記されていたものです」

 シュシュ・ウントは今や、小刻みに震える瞳で私の目を見つめていたが、お互いに目を合わせていても、同じ時間を共有している気がしなかった。私はゴーストになった気持ちがした。あるいは、遠い過去の亡霊に眺められている気分に。彼女は、私と向き合いながら、その先に透ける過去を見ていた。

 「施設では最初こんな説明がありました。ヴヴへ同化するために簡単な検査を行う必要がある。そのためにしばらくこの施設に留まらざるをえないことを承知して欲しい、と。番号は検査のための順番でした。検査が終われば解放すると告げられました。検査は遅々として進みませんでした。日に二人か三人。多いときでせいぜい五人ほどの人間が検査室に連れて行かれました。順番はなかなか巡ってきませんでした。そして私は、海を見たのです」

 「海?」

 「オゼルと同じ赤い海をです。あなたは海をご覧になったことがありますか?」

 私は困惑しながら頷いた。彼女の話がどこに辿り着こうとしているのかまるで見当がつかなかった。

 「老齢者保護施設クレードルの老人たちは海を説明する際、大きく三つのことを挙げました。大量の水。独特な匂い。そして定期的な波の反復。あなたの知る海もこの三点で説明がつきますか?」

 「はい。ですが、私の知る海は青いです」

 シュシュ・ウントは慇懃に頷いてみせると話を続けた。

 「施設には壁の高い場所に格子窓がありました。太陽は、朝のごく短い間だけその窓から差し込みます。私は朝日を眺めたいばかりに、格子窓によじ登り外の様子をうかがいました。それは体の軽い子供の私にしか出来ないことでした。私は、肩を貸す母に向かって海が見えると言いました。波の音が聞こえるとも。母は信じてくれませんでした。格子窓に切り取られた僅かばかりの空間から私は確かに海を見たのです。波は、定期的に押し寄せました。刺激を伴う特徴的な匂いが鼻をつきます。赤く透き通った水が、朝日を反射して煌めいていました。海は、確かにそこにあったのです」

 「シュシュ・ウント?」

 シュシュ・ウントの瞳は閉ざされていた。半ば開かれた口からは、穏やかな呼吸に合わせて少しずつ魂が漏れ出ているように見えた。

 「オゼルの海は赤く、美しかった」と呟くと、シュシュ・ウントはそのまま意識を失った。

 

 ゴプトはシュシュの看病を理由に見送りが出来ぬことを詫びた。

 急いで移動すれば農場プラント方面に向かう公共自動車コウ・モブの最終便に飛び乗ることもできただろう。私はその代わりにシュシュ邸を出たその足で老齢者保護施設クレードルに向かうことにした。ヴヴに留まるからには、宿を定める必要があったが、それよりもオゼルに対する興味が私を動かした。

 シュシュ・ウントはやはり狂人なのだろうか?

 私の中で、まだ答えは出ていない。

 

 老齢者保護施設クレードルには相変わらず死の匂いが満ちていた。吐き気を催すおぞましい匂いの内に、シュシュ邸に満ちるハーブの香気を嗅いだ気がした。

 オゼルと口にしたあの老人がまだ生きていたことに私は驚いたが、半植物状態で、目を開いているものの何の反応も返さなかった。騒がしい時が続いたから薬の量を増やしているのだと担当官は悪びれもせずに言った。天井から伸びる管に流れる薬は、ヴヴの市街で流行る安いドラッグと同じ色合いをしていた。

 私は老人がまともな意識を取り戻す事はないと早々に見切りをつけた。

 「あの老人はいつからここに居るのですか?」

 「さてね。俺がこの施設に入った時からあの調子だよ」

 「それはいつ頃ですか?」

 「もう十年以上も前だよ。いや、二十年は経っているかもしれない。詳しく知りたければ、そこの端末ポータルを使って調べると良い。三十分だけ使わせてやるよ」

 担当官がカードを揺する仕草をしたので、私は電子貨幣マネーを送金した。

 老齢者保護施設クレードル公共端末コウ・ポータルにアーカイブされた情報によると、老人はこの老齢者保護施設クレードルのできた三十四年前から登録されていた。年齢や出身地などの情報は不明となっていたが、老人は元軍人として記録されていた。ヴヴは軍という組織を持たない。それは外界から持ち込まれ、すでに風化した概念だった。

 三十四年も前から老齢者保護施設クレードルで生きている?

 老人の年齢を訝るよりも、三十四年間もこの劣悪な環境で生きながらえていることに驚きを覚えた。

 担当官は二十分後に戻って来て、もう使用時間は過ぎたと言った。私は大人しくその場を辞した。僅かな時間で得られた情報の内、有益なものは、老齢者保護施設クレードルに入った人間が三年を越えて生きながらえることが希なことと、あの老人の他にも、出自が不明瞭なまま何年も生き続けている人間が居ることだけだった。

 

 今日の寝床を探すために日の落ちた市街を歩いていると、道ばたに寝起きするヴヴ人の中に、若者がいないことに気がついた。ヴヴ人は皆老いていた。それこそ入植の始めから、ずっと生き続けているかのように。

 

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