第21話 指輪を嵌めよ、兜を被れ
二ツ龍物語 21 指輪を嵌めよ、兜を被れ
うず高く積まれた書類が崩れるのをぼんやりとした眼が捉えていた。
終わらぬ執務と限りない問題に包囲されたヴォロフ=ペルーンであった。
彼の周りでは人と言わず、人以外と言わず忙し気に大勢がひたすら動き回っている。
その有様たるや、遠からず破綻する事は男とて予期できぬではない。
だが、やらねば事業の完遂は成らぬ。失敗など想像するだに恐ろしい。
元凶はフェレストスの不可思議な失踪だ。
煙のように消えてしまった男の事を思い返し、ヴォロフは頭を抱える。
何せ全員が全員とも口を揃えて理由が解らない、と述べているのだ。
小悪魔どもの胸倉掴んで締め上げても結果は同じ。最早どうしようもない。
かくて実務と政経について横断的に把握している存在が消えた結果が現状である。
しかし状況は待ってくれない。青い顔をした文官が沈痛な面持ちでやって来る。
ヴォロフが嘆息する暇もなく、手元の紙に目を落として報告を始める。
「閣下、食料品の急激な高騰が……今は備蓄で誤魔化せておりますが破綻も近く。
それと発行している紙幣が少額過ぎると不満が出ております」
「発行量を増やすか、額面を切り上げよ。食料に関しては近隣から鉄で買い付ける」
「鉄の製造量も現状から急には増やせませぬ。今だ建築途上の必要設備も多く……」
「ええい、またもか。借金のアテは?」
「シャロム様からならば。しかし、金を借りたとて肝心の買い付ける穀物の在庫が」
「芋があるだろう。パンが無いなら芋でも食わせておけば良い。
何処からでもよい、調達できる食料を近隣から買い付けよ」
「……承知いたしました。輸送はいかがしましょう」
「あああ、もう!!」
悲鳴染みた叫びをあげてヴォロフは頭を掻きむしった。
段々と執務量とその規模が膨れ上がっているのは錯覚ではあるまい。
加え、戦である。敗れ、積み上げた物を失う訳にはいかない。
それだけは絶対に認められない。成功すると信じて進む他ない。
ではどうすれば現状を打開出来るのか。思考はぐるぐると空転を繰り返す。
これ程努力したのだ。これ程の成果を出したのだ。今の選択こそ正しい筈であった。
正しい筈だ。この道以外などありはしない。
募る焦燥感を悟性で捻じ伏せ、ヴォロフは目の前の政務に注力する。
手に掛かった未来への扉が、今にも開きそうに彼には思えた。
その先には夢見た世界がある。今更手を離すことなど出来はしない。
着衣も崩れ、赤い帽子もずり落ち、血走った目でヴォロフは左右を睨む。
やや引き攣った笑顔で文官の一人が休息を薦めてくる。そうか、と短い返答。
もつれにもつれた思考の整理にもなろう。椅子から立ち上がる。廊下を歩む。
疲れの為か、僅かな眩暈を覚えつつヴォロフは邸外へと逍遥する。
歩きながら見上げた空には千切れたような雲が幾つも浮かんでいた。
新鮮な空気に、僅かに熱の覚めた男の脳裏に次々と課題が浮かぶ。
例えば、弟の反乱。例えば、物価、特に食料品の高騰。
順調に行っていた物資生産は設備の不足により一時的な頭打ち。
錯綜した状況の結果、蓄積する住民の不満への対処。軍の整備。他にも諸々。
成すべき事は雪だるま式に膨れ上がり、互いに縺れ合うにも関わらず、
投入できる労力は増大どころが減少という有様だ。
貴重な文官たちの疲弊も限界に達しつつあるのも明白であった。
──問題はかくも山積みだ。
だが、何よりもフェレストスの失踪と弟の反逆への対処が焦眉の急だ。
軍を組織した弟を捨て置けば、何をしでかすか解らない。
また、勝算無しの賭けに出るほど無能ではない事をヴォロフは良く知っている。
どうしてこうなった、と叫べば一時はきっと愉しかろう。
代わりに漏れるのは陰鬱な溜息ばかり。思考が濁り切ったのを自覚しながら男はぼやく。
「正に内憂外患、か」
「友人殿」
急な呼びかけに振り向くと、平服のオーソドクが居た。
その巨体よりも尚大きな魔剣──龍を洞窟に縫い留めたのだという代物を抱えている。
かの龍を開放した後持ち戻り、ユーリを経てオーソドクの手に渡ったという次第である。
筋骨隆々の大兵が手にした新たな武器を眺め、ヴォロフは問いかける。
「どうだ、使えそうか」
「ウム、悪ク無い。いヤ、名剣ト言っテ良イ」
「お前がそういうならば、そうなのだろうな。しかし、名剣というより魔剣だろう」
「シャロム様ニ見て頂いタ。使ウ分にハ問題ナイ」
言うなり、オークは剣を振り上げ、掲げて見せる。
鉄柱めいた長さと厚みの長大な刃であった。やや身幅に欠けるのは敵を縫い付ける為か。
長く、分厚く、鋭く、見れば見るほどに人間に扱えるとも思えない剣だ。
裂帛の気合と共に走る太刀筋が木立を切り飛ばし、その不安を一蹴した。
様子を見るに、オーソドクは鉄柱めいた大業物をいたく気に入ったらしい。
安全な位置まで離れると、刃が空を裂く轟音を響かせ軽やかに演舞を始めた。
芋を潰し猪と捏ね合わせたような魁偉な横顔には、明らかな喜びがあった。
「あノ子供ハ尾噛刀ヲ持つト聞いテいる」
言うと、振り下ろした剣を正眼の位置にぴたりと静止させる。
ヴォロフは龍殺しを自称する冒険者連中などが、好んで大剣を使う事に思い至る。
大抵は単なる見得と飾り、或いは駄法螺に過ぎぬが、中には例外もある。
成程、巨大な剣を小枝のように扱えるならば、龍と打ち合う猛者とて実在するのだろう。
毒は用いず、圧倒的な膂力と常識外の武器を以て怪物を滅ぼす、そういう類の連中だ。
「洒落タ趣向ダ。実ニ今度の戦ニ良い」
「……勝てるか?」
「勿論ダ、と言いたイ所だガ冒険者共はチト厄介カ」
オーソドクは自らの狙いのあらましを語る。
聞けば、既に反逆者共は軍勢をかき集めたらしいが、その主力は外様の冒険者たち──
先だってヴォロフ自身が都から招いた所の連中だと報を受けたと言う。
その他ユーリが育てていた民兵、つるんでいた連中も居るが、
農民あがりなど金属鎧に身を固めた我が氏族の敵ではないとオークは豪語した。
「我々ハ鉄槌であり穂先ダ。遠くかラ弩を浴びセ、弱った所にトドメを刺ス。
集めテ頂いタ傭兵どモ、冒険者ドモは真っ先ニ進まセ露払イにすル」
「全て使い潰して構わん。戦意も低い役立たず共だが、それぐらいにはなろう。
ペルーンが抱える兵や文官は別途、シャロムの伝手で集められよう。
領地が育てばもっと信用できる傭兵も集まる」
「人間よリ魔物を信頼されルか」
「当然だ!見ろ、我がペルーンの有様を。生意気にも盾突いてくる弟を!
人間の敵は何よりもまず人間だ。外様の方がまだ信用できる。ゆくゆくは──」
ヴォロフは両腕を広げると高揚して語り始める。
その瞳は遥か彼方にある未来を見据えているようであり、
また茫洋として定かならぬ光景を夢見ているようでもあった。
「オークが、エルフが、ドワーフが。数多の種族が我がペルーンを豊かにするべく働こう。
今の人間どもの都合などには構っておれない──いや、寧ろ邪魔だな。
ペルーンの未来の為に今の連中は破壊し、入れ替えるのもよかろう」
「……我ガ氏族としテもヴォロフ閣下には誠心誠意お仕エ致したイ。さテ」
オークは巨大剣を収めると、館の方へ顔を向けた。
何事かとヴォロフは思うが、異種族の横顔からは中々表情が読み取り辛い。
が、申し訳なさそうに口をもごもごとさせているのは見て取れた。
「主ノ見舞イをお願イしたイ。不安がっテおられル」
「行ったが、断られた。顔を見られたく無いと」
「私モ付き添ウ。もう一度頼む、心配なノだ。余り食事モ召し上がリになられなイ。
──手傷を負わされタのが余程堪えタのダと思ウ」
ヴォロフは応諾するとオークを伴い、シャロムの私室の前に立つ。
固く閉ざされた扉の奥に怯まず、覚悟を決め男は戸口を叩いた。
「シャロム、シャロム。聞こえるか。私だ、ヴォロフだ」
返事は無い。ドアノブに手を掛けるとあっさりと扉は開いた。
飛び込んで来た光景は酷い有様だ。調度品などまるで嵐にあったかのよう。
なぎ倒され、粉砕された椅子の残骸がそこらに転がっている。
柱がへし折れてひっくり返っているのは新しいベットだろう。
壁には何か大きな動物が爪で刻み込んだような跡が幾つもある。
荒れ果てた室内の片隅に、人間ほどに盛り上がった布団の塊があった。
ヴォロフはそれを見定め、息を飲むオーソドクを他所に歩み寄って、床に尻を下ろす。
しばし一言も無い。ぼんやりとした頭を休めるようにヴォロフは天井を仰ぎ、
やがて手足を広げて床に寝転んだ。ひんやりと心地よい冷たさを味わう。
「少し、疲れた。横になる」
「……どうなっておる」
盛り上がった布団の山から小さく声がかかる。
男はすぐには応えず、軽く目尻を指で押さえる。
そうしていると布団の中からシャロムが顔を出した。
まるで小娘のような所作をぼんやりと視界の端に捉えつつ、ヴォロフは息を吐く。
癇癪を起した妹か何かの世話をしているような気分だ。
目の前に居るのは人に化けたドラゴンである。
筈なのだが、男にとっては別段どうでも良い事実であった。
余りにも人に似すぎているせいかもしれない。
「今の所はどうにかなっている。休憩中だ」
言葉も選ばず、脱力したままヴォロフは答える。
「妾はどうすればいいのじゃ」
「どう、とは?」
すぐさま不安げな問いかけ。
意図するところを酌みかねたヴォロフに、シャロムは口を尖らせた。
「質問に対して質問で返すのは止めよ。どうすればいい」
「俺がどうしたいか、という事なら言える」
「なら、それでもいい」
「戦だ。戦って勝つ。それから、シャロムの本拠を迎え入れたい」
「妾が欲しいと言うのか。剛毅な事よ」
「そうだ。君が欲しい」
あっさりと男は断言した。
「……こんな顔の雌でもか?」
起き上がり、ドラゴンは男を見下ろしつつ屈みこむ。
それから、顎を隠す赤い髪を手で持ち上げ、見せつけるように男に示した。
無理やり抉って焼き潰し、爛れた傷跡が白磁のような肌を大きく損なっていた。
思わず息を飲み、それからヴォロフは上体を起こしてシャロムと向き合う。
「人がドラゴンに惚れたんだ。傷ぐらいが何だ」
「寿命も違う。好みも違う。優しくもないぞ」
「それでもだ。龍の類と付き合えないならそもそもペルーンだって滅んでいたろう。
君を迎える事でこの土地は生まれ変わる。より寛容で豊かに」
「夢のある話じゃな」
「そうさ、夢だ。今、現実に手が掛かっている理想だ。
知ってるか?元々皇国には人間以外の種族だって大勢居る。
人間どものケチなど知ったことか。領主が所領を富まして何が悪い」
ヴォロフはシャロムの頬を撫でた。
夢を語りながらも、彼の目は今、目の前の少女を捉えている。
「俺が死んだらペルーンを好きにすればいい。忘れ形見ぐらいにはなる」
「縁起でもない。だが、我らにとっていい土地にはしよう。……じゃがの」
シャロムは醜い傷跡を指先で撫でる。
わなわなと腕が震え、ついに堰を切って喉元から怒りが迸った。
「あの小僧と女は殺す。絶対に許せぬ!!あんな物を妾に向けて!!」
シャロムは癇癪を破裂させ、娘のようにぽろぽろ涙を流しながら叫び続ける。
曰く、尾噛刀の恐ろしさ。自ら肉を千切らねばあのまま死んでいたという恐怖。
布団を握りしめ、肩を震わせながら続く言葉にヴォロフは黙って耳を傾ける。
「大丈夫だ。勝てる。君の部下は強いんだろう」
「……勿論じゃ。寄せ集め風情など敵ではない。そうじゃ、妾も行くぞ。
勝たねばならんのじゃろう。いや、絶対に勝つ。持てる力は全て開け放たねば」
「良いのか?」
「いけない訳でもあるのか。妾は共に行くぞ。今度こそ喉笛を食い千切ってやる」
まさか置いていくつもりか、とシャロムは男の顔を見上げてくる。
ヴォロフは得心する。多くの物を失う一方、その果てに得た物もあったらしい。
安心した、と男は笑みを浮かべた。会心の笑みであった。
「失礼仕ル」
「オーソドクか。シャロム、大丈夫だな?」
はっきりと頷く少女の応えを受けて、ヴォロフは軍の長に向き合った。
どこか嬉し気も見えるオークは目を細めると、ヴォロフに対して一礼する。
「ご友人殿。イや、主殿とお呼ビすべきか?」
「主でいい。準備は出来ているな?」
「無論。覚悟ハ決まリノようだナ」
「執務の滞りが心配だが、仕方あるまいさ。
ユーリを排除し、兵権さえ確立すれば民共に多少強引な手も打てる。それからだ」
「仰セの通リに。主殿さエ宜しけれバすぐにでも」
オークの返事に顎を摩り、少々試案するとヴォロフは自らの赤い外套を脱ぎ、
オーソドクの肩にかけた。それから、領主は豚面の戦士に告げる。
「軍の指揮はお前が担え。私は後詰を担当する。残念だが、戦は不得手でな」
「……具体的ニ何ガ出来ルかヲ教エテ頂きたイ。
指揮ヲ、と言うならバそこが明確デなけれバ」
「この戦で兵を全て預ける。勿論、私とシャロムについても」
間髪入れずに告げたヴォロフにオーソドクは顎を撫でさすった。
ニヤリ、とわざとらしく口を吊り上げて笑みの形を作ると、
手刀の形を作りトン、とごく軽く領主の首を叩く。
「主殿ノ寝首を掻クやも知れんぞ」
「私を殺した所でユーリと雌雄を決さねばならんのは変わるまい。
今、価値があるのは私の首ではないのだよ。無駄に手数を増やしたいなら好きにせよ」
「今後モ主力ニ我が一族ヲ用いるなラ、受けよウ」
冷然と告げたヴォロフに、オーソドクは畏まってそう返答した。
/
一夜明け、暁と共にヴォロフは布告を表明した。
途端に慌ただしくなる邸内を兵士や小間使いたちが駆けずり回る。
それを尻目に自室からヴォロフは珍しくも武装して現れた。
赤いサーコートに黒い鉄の全身甲冑。オークの鍛冶職人渾身の作である。
鱗籠手の親指には何時かの金無垢の指輪が輝いている。
用向きは既に伝達してある。段取り通りに引き出されてきた自らの騎馬に跨ると、
既に隊伍を組んで準備を終えた兵卒の前まで進み、止まった。
「諸君。知っての事とは思うが、戦だ」
山羊めいた変わり兜の面頬を上げた領主の前には二種類の兵が控えている。
一つは輝く装甲に身を固めたオーク達。今一つは雑多な装備の冒険者や傭兵共。
短い演説を終えたヴォロフの後に、一際大きな馬に跨ったオーソドクが姿を現す。
彼に向き直るや、領主は音声を張り上げた。
「諸君ら全ての命運は、この男が預かる。彼の命令は私の命令と思い、厳守せよ」
今更問う者はいない。僅かな留守役を残して、斥候の先導の下に軍団は道を進む。
堂々たる装備の軍勢であった。鎧は勿論、槍兵も居る。弩を携えた連中もいる。
その前列には雇い入れた兵が露払いに進む。
何事かと目をむく土民どもには振り返りもしない。
浅い川を越え、膝程も草の生えた野原に出るや、彼方に一塊の集団があった。
きらきらと日差しに煌めく武具。風に揺れる見覚えのある軍旗。
敵方も此方に気づいたらしく、慌ただしく陣容を整え始める姿が見える。
彼らの掲げる銀色の龍が描かれた旗に、それまで黙っていたシャロムが身を乗り出した。
「居るぞ。見よ。憎い憎い旗印の下にあの小僧が居る」
目を凝らすと、一人の騎士が地面に剣を突き立ている姿があった。
記憶の通りのサーコートと兜。父祖伝来の古めかしい鎧兜に身を包んだ若武者だ。
面頬を下ろして表情は伺い知れぬが間違おう筈もない。
不意に長蛇のような龍が天より真っ直ぐ下り、傍らに控えて鎌首をもたげた。
ウー=ヘトマンであった。ならば、かの騎士こそはユーリ=ペルーンである。
そして、ドラゴンを従えた領主は、龍を従えた騎士を睨み据えた。
彼方煌めく銀の旗。此方輝く鋼の武装。赤いドラゴン長き龍。
揃いの武装と多様な兵馬。民草と外来者。土と鉄。
古い鎧に新しき鎧。馬に跨る黒鉄の全身鎧と、下馬して佇む一人の騎士。
軍を統べるは兄と弟。進歩と慣習。つまりは、二つの世を負うた二つの龍。
相容れる事など絶えて無く、かくて二ツ龍は対峙した。
Next.
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