第18話 境を越えて



 二ツ龍物語18 境を越えて



 革靴が床を叩く音が止まる。

頭に血を登らせたまま歩き続けていたユーリ=ペルーンは

遅まきながら、自らに降りかかった異常に気が付いた。

館にここまで長い廊下は無かった筈だ──面頬を上げる。

ぺた、と側面の壁に掌で触れるとひんやりとした感覚が伝わって来た。

辺りを見回す。石造りの廊下は薄暗く、その終わりまで見通す事も出来ない。


「これは……」


 引き起こされた異常の原因など少年に理解できる筈もない。

或いは、ウーやエイブリーであれば何程か述べたかも知らぬ。

一方で、彼は思考を広げるよりも直観に従い、柄尻に手を伸ばした。


「おやおや、如何されましたか」


 声に振り返るや、ユーリは剣を抜きはらった。

鈍く光る刀身に、黒い山羊の頭が写り込む。

姿は違えど、少年はその声に聞き覚えがあった。


「矢張り、魔の類だったか……」

「失敬な。私、フェレストスにはきちんとした名がありますとも。

さて、こちらの用件は承知ですな?」


 正面に剣を構え、切っ先を向ける少年へおどけるように山羊の魔が言った。

見れば、その周囲で様々な頭の化け物共が忍び笑いを漏らしている。

男の胴体をしたものがいる。女のそれもある。

然して、その上に載っているのはどれもこれも人の頭ではない。


「知らん」


 化け物の類に用事を作った覚えは少年に無い。

愚問に続いて、悪魔がやれやれと肩を竦めて見せた。


「おや、見れば解ろう事でしょう?私共、貴方の兄上から委任を受けまして。

まぁ、通告する必要もないでしょうが、形は重要ですからな。それにしても──」


 少年は怪異を睨みつける。くすくすと笑いながら、山羊頭は言葉を区切る。

どうどう、と涎を垂らした犬頭の悪魔を撫でる。犬の唸り声。

蛙が歌い、虫共の頭がきちきちと。粘っこい悪意の音。

フェレストスは黒く長い山羊髭をしごき、目尻を歪めた。

幾つもの視線に食欲めいたものを感じ、ユーリは悪寒を覚える。


「矢張り、若い騎士というのは美味しそうですな。

腕は二つ、足も二つ、目玉も耳もまた二つ。台座の上の卵には必要ございませんから、

拝命して座って頂く前に、一つ我々がご馳走になりましょう。うむ」


 私は右腕、私は左手、目玉も良いし、骨も旨いと囁き声。

遠雷が轟く。篠突く雨音が壁を隔てて聞こえていた。

ユーリは剣を両手で担ぐように構えなおす。他にやれる事も無い。

そして首を落として死なぬなら、何れにせよここで少年の命は尽きる。


「化け物共が一匹、二匹。寄らば、さえずる頭を断ち落としてくれる」

「お望みならば遠慮なく!!」


 フェレストスの言に、頭通りの四つ足で犬頭悪魔が駆けだした。

それに続けと他の頭も走り出す。フェレストスだけが手を叩きながら悠然と迫って来る。

黒山羊の頭を視界の端に映しながら、少年は掲げた剣を目下の敵に叩きつけた。

帰って来たのは泥を切りつけたような奇妙な手応え。

凡そ尋常の生物を切り裂いたと思えない感覚にユーリは一瞬目を見開いた。


「ぐっ、何だこりゃッ!?」


 果たして。肉を切り分け、骨を潰す筈の一撃に、しかし悪魔の体は

泥の如くにぬめって滑り、受けた手傷に血を流しもしない。

ええい構うものかと更に力を込め押し込み、そっ首切り飛ばせば

人の胴体が落し物を探すように獣の頭へ駆けていく。

ユーリは奥歯を噛んで刃を返す。


 一頭、更に今一度振り下ろす剣でもう一頭。

しかし、騎士の体を女の体をした黒猫頭の悪魔が捕まえた。

首元に飛び掛かった猫の腕が首に絡まり、生暖かく甘ったるい吐息が吹きかかる。

彼女は艶やかに笑って囁きかけた。


「はぁい、騎士様。にゃあ。私と一緒に遊びましょ。おままごとはお嫌いかしら?」


 黒い猫がみゃあと鳴く。ざらざらとした舌が目前に迫るのを少年は見る。

目玉をやすりがけにでもするつもりなのだろう。

勿論、少年には黙って悪魔に従う腹積もりなどさらさら無い。


「大嫌いだ!!」


両腕を女の胴に巻き付け、渾身の力を込めて後方へと投擲。

そこへ残っていた悪魔の群れが殺到する。ユーリは体を開いたまま相対した。

多勢に無勢。悪魔どもは少年を押し倒して手足を、体を押さえつける。

その様を満足げに眺めつつゆったりとした足取りで黒い山羊は歩み寄った。

最中に遠雷がまた聞こえた。顔を上げ、フェレストスが彼方を見る。


「ふむ、ご主人様も張り切っているらしい。さて、我々がお楽しみですな」

「フェレストス、この子の目玉を頂戴な。さっきはちょっと油断」

「何をするかッ!止めろ!!」

「ほーら、お姉ちゃんといいことしよう。ほらほら、奇麗でしょ」


 と、投げ飛ばされていた猫は甘えるようにユーリにのしかかる。

ばたばたとのたうち少年は暴れまわるが、腹の辺りに跨った猫は抵抗を楽しみつつ

鎧の上から上へ上へと舌を這わせ、顔をにじり寄せていく。

猫の顔が喜悦に歪み、少年はこうなれば顔面に噛みついてやろうと口を開きかける。

その時だ。ユーリは、暗い石の天井が轟音を立てて砕けるのを見た。


「ユーーーリィ!!」


 そして、彼は良く知ったその声を聴く。

人へと姿を変えながら暗闇をへし割って、天より下った龍が振り上げた手刀は紫電を纏う。

降り来た雷の如く、驚いて体を起こした猫の悪魔を脳天から股間まで真っ二つ。

黒焦げの断面を残した死骸を木っ端のように吹き散らし、

それから少年に集る四方の敵を腕で突き、腰から伸ばした尾でなぎ倒し、

勢いもそのままにぐるりと身をひるがえして、床を踏み砕くと龍は立ちはだかって叫んだ。


「この泥棒猫がッ!!悪魔ども、全員まとめて八つ裂きにしてくれる!!」


 怒り狂って牙を向いたウー=ヘトマンは鱗が鎧っていた。

一方でフェレストスは肩を竦めて溜息一つ。切り分けられた猫と、

それから龍とを数度見比べてから、呆れたように口を開いた。


「おやおや、淑女がはしたない。美しいかんばせが台無しですぞ」

「抜かせ、小悪魔。玩具に出来る頭ごと肉餅にしてやろう」

「はっは。望みとあらばお相手を──と言いたい所ですが。ご主人様がお出ましのようだ」

「しつこい女だ!!追ってきたか!!」


 フェレストスと悪魔どもはそのままの姿勢で真後ろの影に飛びずさる。

ユーリが見上げると、緋色を湛えた赤い顎が見えた。

不味いと思う暇も無く、白みを帯びた炎が視界に広がる。

遅延する知覚。少年は傍らに立つ少女が意を決したようにこちらに向くのを見た。


「ユーリ、頭を下げろッ!」


龍の娘が炎から庇う様にユーリに覆い被さる。

何事か呟く。一瞬閃光が少年の目を焼き、次には猫のように襟首を持ち上げられる。

そして、彼を引っ掴んだ龍が勢いよく空中へと昇りあがった。

浮遊感を覚えつつユーリが見上げると龍の顎、眼下には見事に崩れた館の一角。


 今や中空に駆け上ったウー=ヘトマンが唸りを上げる。

まとわりついていた瓦礫がぱらぱらと落ちる中、ユーリは叫ぶ。


「ウー、大丈夫だな!!」

「合点、と言いたい所だが──赤竜めのお出ましだ」

「あの女か」


 たてがみを掌と腕に絡ませるように引っ掴みながら、少年は彼方に深紅の姿を見た。

一方の龍は裸馬に跨るように背にへばり付く少年を確かめると、

高度はそのままに濁流の様にドラゴンへ奔る。


「やれるな、ユーリ」


 と、龍は振り向かないまま少年に問う。

速度を上げる。紫電という選択は取らない。龍は背の小虫に期待しているようだ。

にぃ、と少年は覚えた愉悦に口を吊り上げて叫び返し、尾を咬む名剣に片手を触れる。


「やれるとも、龍よ。ウー=ヘトマン!!」

「良く言った、我が友よ!!」


 龍にとって人は虫けらにも等しいが、その虫けらこそがドラゴンを打倒すのだという。

ユーリはこの期に及んで真偽を問う愚を犯しはしない。

軍馬の背よりも尚早く目に移る光景は瞬時に移り変わり、

しかしてその速度は段々と泥のように鈍く知覚され始める。

彼方のドラゴンは、トカゲめいた面を獰猛に歪ませ迎え撃とうと両翼を大きく広げていた。

貴龍にとって魔法は呼吸の如し。戦場においてもまた同じ。

敵方の脅威を認識し、遂になりふり構わず本気を出したか、迎え撃つ赤竜の被膜には模様。

模様模様、尚も多数。魔法など終ぞ知らぬ少年とて、輝く図式が神秘の業だと一目で解る。


 だが、遅い。

手綱から手を離し、応戦すべく鎌首をもたげかけた龍の背を駆け下り、

ついに間近に迫ったドラゴン向けて勢いそのまま少年は鱗を蹴って跳躍。

我が身を矢の如く放ちながらユーリ=ペルーンは叫ぶ。

龍滅の剣を抜き放って弓なりに身を反らした。狙うは明らかただ一つ。


「素っ首置いてけ、糞トカゲ!!」


 譬えて言えば、それは雀蜂の針の如くであったろう。

傍目には虫けらの哀れな刺だ。しかして、恐るべき利剣の輝きは光の矢の如く。

怒号と共に飛び掛かり、ドラゴンの顎と頬とを大きく深く切り裂き突き刺した。

半ばまで刀身が埋まった剣の柄にしがみ付きながら、紅い女の絶叫をユーリは聞く。

そして、自らの佩いたドラゴンスレイヤーが歓喜する器楽に触れた。

久方ぶりの得物に猛り狂い、古ぼけた剣は血の味に一転唸りを上げて赤竜を裂く。


「止めろ、その剣を止めろ!!妾を、妾を食らうつもりだろう!!」

「苦しんで死ね!!ペルーンの報いの太刀を受けよ!!」

「嫌だ、助けて!!ヴォロフ!!フェレストス!!誰か助けて!!」

「死ね!!侵略者!!」


怒号を上げ、ユーリは逆手に握った剣を更に深くねじ込もうと腕に力を入れる。

しかしそこまでだ。引き続いてやって来たウーが、半ばもぎ取るように

ユーリの体を剣諸共引き抜き、ドラゴンと空中で交差する。


「何をする!!」


 衝撃に目を回しながら、ユーリは頭上で笑う顎に抗議した。

今ならば殺せた、と抗議しかけて少年は生きて帰る事を忘れていた事に気づく。

その愚を笑い飛ばすように生命を掻っ攫って繋いだ龍が身をくねらせた。


「一度間合いを引くぞ、勇敢な子!!」

「トドメは!?」

「そうさな──」


 ウー=ヘトマンの言葉は途切れた。

それとほぼ同時に、ユーリはしがみ付いた龍の腕にさえ伝わる衝撃を感じた。

苦悶の叫び。龍の体に鋼鉄を延べた、杭の如き太矢が突き刺さったのだ。

歪んだ顔の龍が眼下を望むと、黒い矢を手に持つ鎧姿が一つ。

この我をこそ知れ、と魁夷なるその男は龍を睨み上げていた。


「鋼ノ味は如何かナ、神秘の龍ヨ。城壁崩しの杭ヲたっぷリ馳走しテやろウ」


 酷い訛りの声。崩れかかった石壁に攻城めの弩を手ずから据付け、

彼は背負った鉄杭をもう一本装填する。オークの戦鬼、オーソドクであった。

まずい、と身を翻す龍に向かい、鉄を纏った豚が狙いを定め、弦を巻き上げ、大弩を放つ。

空を割く鋼が一度、二度と放たれては恐るべき精度でウーの背を貫いた。


 あれは恐らく、城攻めで使われる代物であろう。

ユーリとて実物を目にするのは初めてだが、巨大な石壁をも砕く黒い矢玉だ。

仮に人間が身に受ければ、胴体が真っ二つに千切れて飛ぶに違いない。

その威力を証するように一発、二発と着弾する都度、血と鱗、肉片が衝撃に飛び散る。


「糞っ、たかが豚面と侮った。ウー!!」


 弩とも思えぬ恐るべき装填速度と精度に目を剥きながらユーリは呪いの言葉を吐く。

名を呼べど返事は無い。その代わりウー=ヘトマンは苦し気に体を捩り尚も飛び──

遂に力尽きる。がぐん、とユーリは大きな振動を感じた。

何とか姿勢は保ちながらも龍は見る見る内に高度を落としていく。

もう一度だけ少年は頭上を見上げ、歯を食いしばる龍の姿にままよ、と覚悟を決める。


 雨後の丘がもう目の前に近づいてくる。直後、轟音が響いた。



/



 薄っすらと雑草の生えた荒れ地に、龍と人間が転がっている。

墜落の軌跡で刻まれた溝の傍らに、大の字でユーリ=ペルーンは倒れていた、

鎖小手がぴくりと動く。短い呻き声。目覚めに飛び込んで来たのはうす暗い色をした雲だ。


「……糞ッ、何処だよここは。俺、生きてるんだろうな……」


 僅かな妄念を払うように頭を振りながらユーリは身を起こす。

気を失っていたらしい。尻を泥濘に浸しながら見上げた空は今尚薄明るかった。

全身が酷く痛むのを感じる。ドラゴンの返り血に染まった手足を眺め、頭と顔を摩った。

痛みはない。奇跡かはたまた龍の力か、どうやら五体満足で済んだらしい。

最も見た目は血と泥と木っ端に塗れて酷い有様──そこで我に返る。

今の今まで少年が背を預けていた物は龍の腹だった。


見上げれば。息を荒げながら、身を横たえたウー=ヘトマンがあった。

上下している胴体に安堵しかけた少年は、未だ突き刺さったままの鋼に口を引き結ぶ。


「ユーリ、ユーリや。すまん、不覚を取った」

「無事……なのか?」

「聞くが、延べ鉄を撃ち込まれて平気な生物が居るとでも」


 呆れたような顔で言うが、傷が痛むらしく龍は唸り声を上げる。

すまん、と頭を下げる少年にウーはゆっくりと首を持ち上げた。

それから忌々しげに体に突き刺さった矢を睨む。


「抜いてくれるか。手も顎も届かぬ」

「魔法じゃダメなのか?」

「このまま姿を変えれば鋼が我が身をばらばらに引き裂こうな」

「そうなのか……案外と不便なんだな。解った。解ったが、噛みついてくれるなよ」

「善処する……」


 鉄は嫌いだ、と力なく呟きつつ、ウーは少年に身をゆだねて横たわる。

たてがみを使ってよじ登ると、少年は一本、また一本と鉄の矢じりを

返り血まみれになりながら抜き取っていく。

血と汗が交じり合った生臭い匂いが立ち込める中、滴る汗を手の甲で拭う。

最後の一つを引き抜き終わるや、龍の身体は輝きと共に縮み、

ゆるゆる人の形を取り──しかし、手足や顔のそこかしこに鱗の残る不完全な姿であった。

服の再現も難しいらしく、纏っているのは長衣めいた布一枚でしかない。


 荒い呼吸を繰り返し、伏せたまま身動きしないウーの傍らで、

ユーリは気づかわしげに片膝をついてしゃがみ込んだ。


「背負え」


 立ち上がる余裕も無いらしく、ウーは脂汗を滲ませながら短く告げる。


「相分かった。背負えばいいんだな」

「そうだ。色々汚してしまうのが、申し訳ないが」

「そんな事!!大丈夫だって。戦をしてればこんな事しょっちゅうだ。

ウーだってそうじゃなかったのか」

「あったかも、知れんなぁ。でも昔の話」

「大丈夫。心配するな、きっと何とかなる。

でも無理するな。辛かったらじっとしてて」


 朦朧とした受け答えをする龍に少年は言う。

短い言葉を交わしつつ、ユーリは丘を下っていった。



/



瓦礫の山の上に呆然と立ち、ヴォロフ=ペルーンは状況を認識できずにいた。

折角大金をかけて作り上げた新たな屋敷の石組は砕け、天井は落ち、

崩落した壁の下には赤い血だまりがそこかしこに見えた。

何が起こったか。問うまでもない。が、男の脳は目の前の現実を受け入れる事に抵抗する。


「シャロム、シャロムは何処だ」


 名を呼びながら男は視線を彷徨わせる。ドラゴンの姿を認めて、ヴォロフは駆けた。

土砂を蹴り、瓦礫を何とか乗り越えると、シャロムが居た。


「シャロ……」


 男の呼びかけを咆哮が打ち消す。

シャロムと名乗った少女は、未だドラゴンの姿のまま狂乱していた。

尾を振り乱し、頭を振る都度、崩れかけた石造りの瓦礫にぶつかり、

屋敷はますます崩壊の度を進めていく。

だが、男の目はのたうち回って苦しむドラゴンだけを見ていた。

知らず、歩み寄ろうとした男の肩を大きな手が引き留めた。


「危なイゾ、領主殿。フェレストス、居ルのだろウ?」

「おやおや。オーソドク殿にはお見通し、戦士のカンという奴ですかね」


 振り向きもせず言い放ったオークに、ひょこりと山羊頭が顔を出して答える。

フェレストスは地面に落ちていた自らの人頭を拾い上げると、

帽子か何かのようにそれで土埃や汚れを払い、ひょいと首から上に付け直した。

具合を確かめるかのように首や肩をほぐしつつ、細面の男は自らの主に顔を向けた。


「それにしても、龍滅の呪いとは──おお、怖い怖い」

「お前ナラ知ってルと思っタ。説明しテ差し上ゲよ。どの道、焼き潰サねばなるまイが……」

「全く、面倒な事!!」


 フェレストスは呪いについて語りだす。

曰く、大昔に人が龍の類を滅ぼす為に作った武器の一つ。

最も、鱗を裂き、肉を切る鋭い刃先だけではドラゴンは滅ぼせぬ。

その真価は、例えるなら魔法で練られた毒であり、龍に深く突き刺し、

血と肉に刻まれた文字模様を読ませる事で発動するのだという。

淡々と述べ立てると、フェレストスは細面を歪めて続ける。


「魔法の毒ですな。例えば力の流れを狂わせて自らに自らを焼かせる呪いの火。

或いは、その命を啜り取り食らう毒虫の針。作り手の性悪さにもよりますが、

いずれにしても逃れようと思うのならば──」


 遂に倒れ伏し、硫黄の匂いの息を垂れ流しながら、ドラゴンは眼前を眺めまわす。

そして、自ら手傷に触れる。フェレストスが頷き、オークに目配せした。


「毒が回る前に傷口諸共抉り取り、焼いて塞ぐより他にありません」


 ドラゴンは己の爪で顎の傷を大きく抉る。湿ったような呻き声。

血が飛沫き、少し離れたヴォロフの顔にまでも赤い雫を付けた。

鉄を、とフェレストスが告げるとオーソドクは頷く。


「ご主人様、痛みますが宜しいな」


 返事の代わりに、うつ伏せたままのドラゴンが呻きともつかぬ唸り声を上げた。

続いて、オーソドクが石炭を燃やした篝火に、鉄の棒を幾本もくべる。

フェレストスの指示に従って、はや人間の形に立ち戻った悪魔どもが

忙しく包帯だの、石炭だのを集め始め、また邸内の救助に動き始めていた。


 ヴォロフ=ペルーンは慌ただしく動き始めた周囲の中で、

ただ一人真っ直ぐシャロムという名のドラゴンを見据えていた。

血反吐に服を汚すとしても一向構わない、と踏み出し、荒い息を吐く顎へ歩み寄る。

ドラゴンが弱弱しく腕を伸ばすと、その爪を男は握った。

固く、鋭く、曲刀のように歪曲したそれが掌を裂くのにも構わず、腕に力を籠める。


「決めた。逆徒は滅ぼす」


 男の顔はいっそ穏やかですらあった。

シャロムは目を細め、決意したヴォロフを見据えている。


「よいな、シャロム」


 ヴォロフは群臣へ振り返る。シャロムの返事は待たない。

もしも否というのであれば、晒した背を裂くが良かろう。

決意を確かめながら、男は己の過ちを悟っていた。

何れはこうなる筈だったのだ。情に絆され、認める事が出来なかっただけで。

ならば、正さねばならぬ。


「フェレストス、そういう事だ。

今日の内に領内へ触れを出す。シャロムの手当ては他のものに任せよ」

「承知いたしました」

「ユーリ=ペルーンの討伐だ。オーソドクは兵を集めよ。

奴らが依って立つ土地諸共地上から消し去ってやらねばならん」

「了解しタ、腕が鳴る」


 男は彼方の敵を憎々し気に睨み上げる。

その傍らで、嬉しそうに細面の男は笑っていた。



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