第3話 来たりて去れり
二ツ龍物語 3話 来たりて去れり
瞬く間に市場が燃え落ちていく。
聞こえてくるのは逃げ回る人間の悲鳴と、焼け焦げた柱が崩れる音。
混乱を見下ろす怪物の笑うような咆哮が響き、翼が空を裂く。
逃げ惑う人々。偶々居合わせた冒険者や兵隊共も呆然とするばかりだ。
その中で。ユーリ=ペルーンが見上げた先に、一匹のドラゴンが羽ばたいていた。
赤黒い鱗をしたドラゴン。今しも燃え盛る炎と吹き上がる煙のように、
その二つの色が混じり合い、両翼から足先に至るまでその巨体を覆っている。
人間めいた手の親指には、黄金の輪がはめられ炎の照り返しに煌めいていた。
成程。確かにドラゴンは襲って来た。現実に。現実か、これが。
「……まさか」
何かの冗談だろう、と言う呟きを飲み込む。
先程のまじない師の戯言が真実だったとでもいうのだろうか。
だが、それよりも。ユーリは息を吐き、熱と煙の混じる空気を大きく吸い込む。
馬鹿な空想を振り払い、目を見開いて現実を捉えなおす。
どうする、とユーリは自問した。空中の相手にこちらから仕掛ける事は出来ない。
ドラゴンの鱗というものは鉄や鋼よりも強靭だ、と少年とて伝え聞いていた。
この場に於いてその真偽を判じようとするのは愚行であろう。
左右を素早く見る。弓だの弩を持つものすら居ない。
幾人か、逃げ惑う連中を助けようとしている者が居る。
ドラゴンは上空で旋回している。
──トカゲは撃ち落とせない。と、彼の内で冷たい言葉が結論付けた。
それから、彼は火焔に向かって駆けだした。
「こっちだ!バラバラに逃げろ!固まってると纏めて焼き払われるぞ!」
すれ違う連中に激を投げながら、尚も渦中へ走る。
自棄を起こした訳ではない。ドラゴンの炎と言えども、これは単なる火に違いない。
パニックを起こしているにも関わらず、死なず右往左往する人の群れを眺め、
危難は多くないと判断し、ユーリは人々の避難を助ける事に決めたのだ。
火の海を走る。ちりちりと赤い舌が肌を舐める。
構わず逃げろと叫びながら駆け続けた。
上空からは蜘蛛の子のように四方八方、人間共が散っていくのが良く見えるだろう。
瓦礫の崩れ落ちる音。火の粉が舞う。よたよたと中年の商人が逃げ去っていく姿が視界に映る。
さて。逃げ遅れは居ないか。周囲を見回していると、
冒険者の一隊が飛び込むようにやって来る。
女冒険者──エイブリー=ホワイトホースとその取り巻き連であった。
押っ取り刀に腰剣だけを引っ提げた平服姿で、頭から全身水浸しだ。
更に濡らした動物の皮を被り、まるで獲物を持ち帰る猟師のような恰好に見えなくもない。
「聞き覚えがあると思ったら──危ないでしょ坊ちゃん!」
「うるさい!僕の義務だ!そっちに怪我人は居ないか」
「それより早く、アンタも──!糞ッ、何でこんな所にドラゴンなんて」
「冒険者の癖にドアの外にドラゴンが居た位で喚くな!」
「何だとこのクソガキ!そんな糞仕事と解ってたら受けるか!」
喚くエイブリー、怒鳴り返すユーリ。ごぅ、という音。状況は待ってはくれない。
焼いた鉄のようなドラゴンの巨体が上空から真っ逆さまに落ちて来た。
落下の衝撃で炎と瓦礫を吹き飛ばし、大地を踏みしめると矮小な存在を睥睨する。
坩堝で沸く黄金色の目が、壮麗な鱗鎧のごとき面構えの中に納まっている。
「人の子か」
と、ドラゴンが割れ鐘のように轟く声で言った。
人語を解する龍を貴龍と言う。動物に等しく本能のままに生きる龍、卑龍と異なり、
人間以上の知性を持ち、程度の差はあれ一様に人知を超えた力を振るう。
荷物に収めた魔物生態辞典にある記述を瞬時に想起し、
事態を悟ったエイブリーは瞬時に蒼白となった。
知恵持つ禍(わざわい)だ。それが来た。
「どうしてお前らだけ逃げない」
嘲る様にドラゴンはそう言葉を続けた。
身構える冒険者たちの中で、ただ一人ユーリが睨み返した。
「お前の仕業だな」
「然り。然り。実に面白かった。村は焼くに限る」
「何故やった」
「娯楽じゃよ、娯楽。人は獣を狩る。龍は村を焼く。どちらも面白いからじゃ。
見れば解ろう。赤々とした火と崩れ落ちる音。焼ける臭い。全てが喜ばしい」
ドラゴンは笑う。笑い、目を細めてユーリに向かって首を下げ、顔を寄せる。
大気が熱気に揺らめき、硫黄の匂いが漂う。
眼下で喚く矮小な存在に興味を持ったのかもしれない。
「して、お前こそ何故妾の前に立つ。答えよ。逆らえば炎と死がお前を迎えるぞ。
妾は一つ問いに答えた。故に答えよ。お前は誰か。名を喋る栄誉をやろう」
「……まさか。強大なる奥方様。赤い鱗の君。
私はユーリ=ペルーン、この地を預かる者の弟に御座います」
ユーリは圧する言葉に一礼し答えつつも、慎重に言葉を探し、理屈を練っていた。
昔語りに曰く、龍と言うものは取り留めも無い話が好きであるらしい。
また、曖昧なお喋りで興が乗り、問いかけや理解をしたがる癖があるとも言う。
少年がそれを聞いたのは彼の提げた剣同様に古ぼけた世話係からだったが、
あてにもならぬ知識を頼らなければならない程追い詰められているのも事実だった。
息をする度、肺腑に焼けるような空気が流れ込んでくる。
少年は龍を前に余りに小さかった。しかし、義務は果たさなければならない。
彼は顧みる事を捨て、ドラゴンに向き合う事にした。
「宜しい。ユーリ君とやら。だが、随分とチンケな土地ではないか。
これでは狩れぬ。狩れぬは詰まらぬ。
けれど、皇都の近くは恐ろしい奥方達が守護しておる。
むぅ、あっという間にお仕舞いだ。何たる事よ。こそこそ暮らしなど真っ平ご免!」
ごろごろと鱗に包まれた喉奥が成る音。
ドラゴンの嘲笑に眦を引きつらせながら、ユーリは言葉を続けた。
「機会はまた訪れましょう」
「訪れる?おかしな事を言うユーリ君。
もうすっかり焼けてしまった。何も無い。皆、灰だ。
これ以上過ぎれば焼き過ぎたで目を付けられる。
面倒至極極まりなく、おまけに手下共も我儘だ」
食べ散らかしたご馳走を名残惜しむようにドラゴンは残念だ、と繰り返す。
ユーリは一瞬だけ冒険者たちが持つ濡れた毛皮を思い浮かべる。
愚かしい程興に乗せても、決定的な一打も炎を防ぐ盾もあるかどうか。
「何か面白い事は無いか」
「そうは申されましても。私は奥方の名も知りませぬ。何分武辺しか覚えもなく」
「ホ、名乗れと言うか。剛毅な子供よ」
「まさか、私など貴方様と比べれば」
「宜しい。殿方の誘いに乗るとしよう」
ドラゴンは上体を起こし、翼を大きく広げ、
その赤黒い鱗を炎で尚赤々と輝かせる。
堂々たる体躯を存分に誇示し、名乗った。
「妾の名はサロメ。火と鉄の匠として知るが良い」
やはり知らぬ名であった。けれども少年は慇懃を繕う。
傲岸に身を反らせていたドラゴンは満足げに鼻腔から炎交じりの煙を吹き出した。
「炎を纏い、黒金を操る御方、私は貴方の名前を始めて聞きました」
「そうであろう、そうであろう。妾はまだ若い。名を知らしめねばならん!
して、お前も随分若いのぅ」
「奥方から見ればそうでしょう。龍にとっては瞬き程度のものです」
「人の子など!妾からすれば皆子供!話が逸れた。何を話して居ったか。
そうじゃ、お前が妾を喜ばすと言う話だったか。
それとも何か献上するという話だったか」
ユーリは言葉を区切る。言葉を探りながら彼はドラゴンを観察していた。
諾々と要求を呑むのは愚。さりとて下手を打って激怒させるのも下の下。
一語が一期となるかも知れず、
冒険者たちなどは身じろぎも出来ず少年の背を見ている。
「しかし、何をなさりたいのか。偉大なるサロメ様」
「知れた事!龍としての本能を満足させるのよ。
ここいら一帯を焼き尽くし、人間共を追い散らし、その財宝を奪い、
主無き土地を我が猟場、我が下僕の為の荘園にしてくれるのさ。良い、実に良い。
手下共も満足して働きだすだろう!
何せ、我がねぐらは石くれと穢ればかりで飯が取れん」
「奥方であれば容易い事でしょう」
「ホ、言いおるわ。その目に隠した敵意などとうに捉えておるぞ。
そら、冒険者共も。こんな小僧に関わってどうするね。勇敢なる人間たちよ。
まさか妾に敵するとは言うまいね。風に流れの藁案山子どもなんぞ、
ちょいと一吹きすぐにでも火達磨となろうぞ。
龍の炎を侮るな。まして鉄を溶かし、細工する妾の火と硫黄を一等恐れよ」
好き勝手な理屈を自慢げに捏ね上げるドラゴンに、ユーリは剣の柄を弄った。
少年は金色の目から冒険者たちを遮る。彼は歩数を数えた。
「しかし、仰りようには過分に思われます。
ご覧の通りの荒れ果てよう、欲するものは既に無いですぞ」
「耕せる土があるではないか。妾のものじゃ」
「然し、奥方の腕では鋤も鍬も握れますまい」
「仕事など奴隷共にやらせれば良い。これは良い思案じゃ。或は──ふむ、ふむ。
お前を妾の代官にしても面白いかもしれんなぁ」
ず、とドラゴンは吐息が吹きかからん程近くに顔を寄せた。
目を細く、鼠を甚振る猫のようにユーリに囁き掛ける。
「お前にとっても悪い話ではないぞ。この貧しい土地を豊かに出来る。
火と鉄の匠にかかれば造作も無き事。好きなだけ与えてやろう。持ち切れぬ程な。
そう、兄から奪え、お前の望むもの全てを。
そうすれば妾の第一のしもべとしてやろう。
どうじゃ。世界を半分ことは言わぬが──今よりは善いと思わぬか?」
宜しい訳があるものか。ドラゴンの意図に少年は遂に我慢がならなくなった。
ユーリは腰の剣に手をやると一息に抜く。
どの道灰になるならば、一矢報いて滅びよう。
「断る!」
ドラゴンがすん、と鼻を鳴らす。その目は彼の手にした剣に注がれていた。
その好奇は一瞬で消沈し、顔を上げて再びユーリを見下ろした。
「何だ、詰まらぬ物を」
構わず、ユーリは半ば自棄っぱちに叫ぶ。
「剣よ!我が剣よ!名を謳われるならば、今こそ威力を示せ!」
冒険者どもが叫び、愚行を止める隙も無い。
地を馳せ、腰を沈めて構えた剣を下顎目掛けて突き上げた。
ドラゴンは首を振り上げ、その剣戟を避けた。
翼を一振り、脅威から逃れるように地を蹴って浮き上がる。
ぽたぽたと音。滴っているのはドラゴンの血。注ぐ土を赤黒く染めている。
見上げれば、すぱり一太刀が下顎を裂き、薄い色の肉が覗いている。
鋼にも勝る龍の鱗は、しかしユーリの古ぼけた剣にバターが如く切り裂かれていた。
「断るかよ。忌々しい小僧め。殺しの棘まで隠して」
ユーリを吐き捨てるような言葉が迎えた。
少年にはまさか、と言う思いが半分。もう半分は自暴自棄の続き、と言う具合。
冷静さを失い、空に向かって喚く少年は突然背を蹴られて振り返る。
すると、何処からか焼け残りの長板を引っ張り出し、
先程の濡れ革を張ったものを冒険者たちが地面に立てていた。
「早よ来い馬鹿!龍の口が燃えてるだろうが!」
エイブリー=ホワイトホースが叫ぶ。
我に返ったユーリはドラゴンに背を向けて長板の陰に身を隠した。
次の瞬間。板に空いた隙間から火が噴き出る程の勢いで炎の息が降りかかる。
赤いというよりもまるで夕日の様に橙色を帯び、
白すら混じった猛火が瞬く間に皮の水気を吹き飛ばし、焼き焦がした。
恐怖に引きつった女冒険者が少年を睨みつけているだが、
どちらにせよ結末は同じであったろう。
ユーリは状況を受け入れるや奇妙な満足感に襲われ、手足を脱力させる。
一方で、冒険者たち、殊にエイブリーは
ぎしぎし音を立てて龍の吐息に軋む急造の盾を支えつつ、
あらんかぎりの罵詈雑言をユーリに向かって投げつけていた。
めき、と嫌な音。盾が拉げかけたのだろう。不意に圧力が止まる。
熱風に喉を焼かれせき込む少年の横で、
遂に盾が燃え始めてぱちぱちと音を立てていた。
それから、轟音が一度きり響き、太陽を背にしたドラゴンが飛び去って行く。
「逃げた……のか?」
焦げかけた黒い顔で空を見上げ、ユーリは呟いた。
見る間に黒い影は小さくなり、やがて彼方へと飛び去る。
その様子を呆然と見届け、そのまま少年は力尽きその場に倒れ伏した。
/
会議は踊る。されど進まず。
紙を読み上げる都度、顔を青くする老従僕にヴォロフ=ペルーンは
どうにか平静を取り繕っていた。
彼まで取り乱してはこの場を治める者すら不在となる。それだけが支えであった。
把握された被害を記し、状況を纏める。
領内の富の源であった市場が文字通り灰燼と帰した。
焼け残りから必至に物資を漁り、使えるものを纏めている有様だ。
幸いにして、ユーリの活躍もあり死人はゼロ。
だが、商人はおろか、人足だの冒険者、傭兵の類すら命惜しさに姿を消しつつある。
当然ながら市に並んでいた食料だの、武具だの雑貨だのはほぼ焼失している。
税金がどうだの、経済がどうだのと言う状態では既に無い。
文字通りの壊滅的な被害であった。
再建するにも当のドラゴンは滅んだ訳ではなく、何時来襲するかも知れない。
一太刀浴びせたというのであるから既に目を付けられた、と考えるべきだろう。
本来であれば、ユーリからも話を聞きたい所ではあるが、
火傷を負って伏したまま目を覚ましていない。
──成程、読み上げる方が青くなると言うものだ。
物資も無ければ兵士もおらず、領民共さえ土地を見捨てて逃げかねない。
領主は天を仰いで息を吐いた。全く、災厄であるとしか言いようがない。
「諸君らの意見を伺いたい。──と、言ってもお解りだろうが」
聞くまでも無い。まるで葬儀の様に消沈した室内に沈黙が垂れ込めている。
その中で、ユーリと轡を並べた老人の騎士が不愉快そうな面持ちで口を開く。
「何だ、ヴォロフ。その気の抜けたような」
彼は腕を組み、身体を逸らせて領主を睨んだ。
「卿、何かご意見が?」
「無論、ある。何だこの様は、たかが龍に襲われた位で大袈裟な。
大戦の頃は茶飯事だったのだぞ」
「ですが、今は事情が違います」
ヴォロフはその言葉を冷やかに迎える。
「気合と根性が足りぬと言っている。領民をもっと絞れば──」
「確かに仰る通り。民にも出来る限りの事はさせましょう」
「うむ、それで良い。それに、ドラゴンが出たのだろう?愈々以て面白いじゃないか」
そう言うと老人は滔々と武勲の自慢を始め、如何にドラゴンが取るに足らないか、
また討ち取ればどれ程の手柄になるかを論じ始めた。
ヴォロフはそれを聞き流しながら、ややあって口を挟む。
「ええ……確かに。ただ」
「ただ?」
「残念ながら戦うにも兵がありません。そこで卿には急使として都に向かって頂きたく」
ただの流民、賊徒であれば兎も角、
ドラゴンと事を構えるとなれば軍を借りる事も出来よう。
幾ら余裕が無いと言っても、
皇国の宮廷も降って湧いた災害を捨て置くほど馬鹿ではない。
ヴォロフはそう願望混じりに判断していた。領主は眉間に皺を寄せながら思案する。
──もし、通れば良い。しかし、見捨てられたら?
或は、送られてくる兵や救援が取るに足らぬものであったら?
望みはか細い糸のようなものだ。ともあれ、今は──彼の思考を老人の声が遮った。
「ならば金だ。貧相な身なりで奏上する訳にもいかぬ」
「衣装ならばお貸ししましょう。卿は書状を渡して頂ければ良い」
「む」
「……残念ながら、余裕がありませんので」
「全く。ペルーンの土地も衰えたものだな。
まぁ、お前の臣ではないが従ってやる。感謝しろ」
「ええ、有難く。では、ご出立されよ」
不機嫌そうに吐き捨て、老騎士は席を離れた。
それを見送る主人に、一人の老僕が囁きかける。
「……宜しかったので?」
「まぁ、厄介払いさ。ユーリか、私か、
それとも諸君らの誰かが改めて行く事になろうな。
あれも餓鬼の使い位は出来るだろう。兎も角、忙しくなるぞ」
命じた事位はすると信じたい所ではあるが、その確証も無い。
改めてヴォロフは家令や召使たちを見回す。不安げな視線が集まっていた。
「そう嘆くな。どれ程状況が悪くとも出来る事はあるさ。
このペルーンに付き合ってくれる諸君らの信義は裏切れぬ。
ともあれ、被害を纏め、整理し、状況を立て直さないとならん。
仕事は終わらんよ、諸君らも自分の仕事をし給え。
嘆くのは墓場に入ってからにしようじゃないか」
目を通した束を机に置くと、
ヴォロフ=ペルーンは立ち上がり家令や家の役人共に命令を下す。
ドラゴンについての情報把握、領民の慰撫、
食料や物資分配の計算、商人たちや近隣の領主達への伝達等々。
全容すら把握できない程に仕事は山積しているが、先ずは──
「さて、諸君。ご了解頂けたのであれば、私は市に向かう。実際の状況が見たい。
皆は私が居ない間に細かい仕事を進めておいてくれ。
陛下や役人共に説明せねばならんからな」
/
閑散とした酒場にヴォロフ=ペルーンは鼻白んだ。
つい、数日前までは諸々の胡乱な人間でごった返していた店内は
一転して客の姿も殆ど無い。
所在無げにしろめのマグを磨いていた店主は突然の来客に驚いたようだった。
ドラゴンの襲来から、僅か一日。
館を出て領主自ら駆けずり回って、解った事と言えば人間の逃げ足の速さ位だ。
つい先日まではこの店は冒険者共の拠点であり、
娼婦だの乞食だの冒険者、傭兵だので
すし詰めになっていたものだが、蜘蛛の子を散らすように消え去っている。
怪我人の数も多く、教会や臨時の小屋──幌をかけただけの──に収容している。
農夫は勿論、老人や女子供まで引っ張り出しての大騒ぎだ。
彼等とて野良仕事がある。
口にはしないまでも早々に不満が鬱積するのは目に見えている。
どこから手を付けたものか。
人命第一と言いたい所だが──思案がまるで纏まらない。
ヴォロフはビールの一杯でも引っ掛けてやろうかと投げやりに考える。
と、彼にも見覚えのある冒険者の一団が店の一角に陣取っているのに気付いた。
エイブリー=ホワイトホースとその一党であった。
「おや、閣下。こんな所でお会いできるとは奇遇ですね」
「そう畏まらなくて良い。……正直、俺も疲れていてね。よっと」
ヴォロフは空いていた席にかけた。
やけ酒に赤くなった冒険者共の中で、素面のエイブリーが彼を迎える。
「ハハ、心中お察しします」
「お前たちは逃げんのだな」
「ま、契約ですので。募兵からやり直しですわ。全く忌々しい」
自棄っぱち、という風情で遂にエールを飲み干し、
エイブリーは苦々しく顔を歪める。
「大体、逃げられるものならアタシだって逃げたいですよ。
ドラゴンですよ?それも言葉を喋る。
そこいらの冒険者(かずあわせ)風情に何が出来ると。
それこそ正規軍の出番でしょうに」
「もう急使は送った。が、返事に何時までかかるやら。
──で、その龍は逃げただけだろう?」
「ええ、ユーリ君のおかげでね。ただの気紛れな気もしますけど」
「弟の活躍は聞いたよ。ああ、済まないが俺にも飲み物を。酒以外で」
店主が野草を煎じた茶を運んでくる。
「粗末なものですが」
「型式など構わんよ。──しかし、本当に厄介な事になった」
「予想はしていましたが、閣下。いえ、ヴォロフさん。
そらひでー事になってるでしょ」
「今年の冬は乗り切れん。どう見ても無理だ。餓死者が大勢出るだろうな。
陛下には嘆願をしているが……」
「わぁ、素直ですこと」
「口先を飾っても現実は変わらんさ。お前とてどうにもならないのは同じだろうに。
まぁ、付き合ってくれる分には有り難い。が、不気味でもある。
色恋沙汰か何かかね」
エイブリーがからから笑う。それから彼女は髪をかき上げると目を細めた。
「閣下が冗談を仰るとは。ま、そういう冒険者も居ますけどね」
女冒険者はしなを作って見せると微笑む。
が、それを迎えたヴォロフは全くの真顔であった。
「言っておくが半分本気だぞ。目的の為なら手段は選ばん。選ぶ余裕もない。
その程度の対価で使える手勢が得られるなら、安いものだ」
「ははは……まぁ、まぁ。随分煮詰まっておられるのは解りました」
「ドラゴンだぞ。弱り目に祟り目だよ。ユーリの奴は寝込んだままだし……」
と、その時だ。酒場のドアが開き、見知らぬ人物が入って来る。
フードを取った下から現れたのは、男の胸程しかない背丈の少女だった。
顎の辺りに瑕があるが、場末の酒場には似つかわしくない整った顔立ちをしている。
「ほぅ。そなたがこの土地の主か」
「如何にも。残念ながら取り込み中故、ろくに持て成しも出来ん」
ヴォロフは店主に目をやった。彼は首を振る。どうやら見覚えが無いらしい。
彼とて同じだ。見れば随分と上等らしい赤と黒の糸で織られた服を纏い、
親指に金無垢の指輪をはめている。
まるで火の様に赤い髪を腰まで伸ばし、何やら無暗矢鱈と自信ありげだ。
物語の中から迷い出て来たのかも知れなかったが、
この土地でロマンはとうに品切れである。
年齢は十代前半と言った所だろうか。
聞き耳を立てていた子供が大人の会話に交じりたくなったのだろう。
この娘は旅芸人か何かだろうか。逃げ遅れて逸れたのかもしれないな、と
ヴォロフは疲れた頭で考えた。
「それで……お嬢ちゃん、迷子かい?この辺りじゃ見ない子だけど」
「ム、妾を子供扱いするか。……まぁ、良い。それは些細な事じゃ。
今日の所はお主の面を見に来ただけじゃからの。うむ、中々良い。こちらにしよう」
「失礼な子だな……」
「子供の言う事ですよ、大人げない」とエイブリーが興味無げに言う。
笑顔を取り繕うと、知人の子供をあやす様に身を屈めて
ヴォルフは少女に目を合わせた。
「それで。お嬢ちゃん、お名前なんて言うんだい?おじさんに教えておくれ」
「妾か。そうじゃの。シャロムとでも呼ぶが良い。この地に平和を齎してくれよう」
「ははは。それは頼もしい」
「ふん。今は笑っているが良いさ。後で笑えなくしてやる」
屈むヴォロフと身体を逸らすシャロム。
ぐりぐりと綺麗な赤毛を撫でてやってから、
領主は少女の為に店主に料理を注文した。
next.
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