<3> 昼の月

 寝入っても、おなじ夢を見て目を覚ます。

 依然として眠りの深淵を見失ったままのシュバリエは、今日も早々と寝台を出、目覚ましの湯浴みをし、客取りの時間までだいぶ間があるにも関わらず、着替えや休憩をするための、館内の自室へと向かう。


 マクロイ

 ふと思い出した名を、声にせず口に出してみる。

 有名になると、客取りも予約制になってくる。館の手前もあり、女将もシュバリエ自身も常連客のわがままは極力聞くようにしていたが、通常は、客に前もって予約を入れてもらい、その順番に従ってもらうことになっていた。

 シュバリエほどの娼妓になると、有名税とでも言おうか、わずかな時間であっても、床を共にするには相当な金額が必要であり、従って、常連客は高貴な立場の者を中心にとした金持ちばかりだった。

 おおかた、この男も金にものを言わせたのだろう。


「マクロイ」

 言葉にして繰り返す。

 女将によれば、男は事業で成功して、ひと財産手に入れたのだということだ。

 三十半ばの、南の豪商。

 女将は新しい客だと言っていたが、この名前には妙に馴染みがあった。何度も耳にしているような気がして仕方がなかった。

 

(マクロイ・シェラナン……シェラナン?)

 ああ、と思い当たる。客の話に聞いていた。シェラナンとは近年人気の新しい繊維の名前だ。植物から取れるこの繊維は、衣類に使うと絹のような光沢を持ち、肌触りはなめらかだが風通しがよく、清涼感のある香りがして、それが受けているのだ。成長が早く、育った木は色艶のいい家具になる。

 

 シュバリエは、ぐるぐると相手の名前を考えながら、女将の居室の前に立っていた。

 応答のない扉を、もういちど叩く。

 今日は、しょっぱなから珍しいこと続きだ。いつもならいるはずの時間に女将は部屋を空けていて、自分は自分で客に執着していた。

 本来ならば、しばらくぶりに丸一日、文字通り自由の身だったのを、女将の頼みで急遽店入りしたのだった。マクロイ・シェラナンは、このたび取ることになった客の名である。


 まあいい。急ぎの用事があるわけではないので、また改めればいい。

 定例の挨拶をしようと思ったのだが出直すことにし、自分の控え室に足を進める。


 蝋燭の火ではなく、降り注ぐ日に照らされて明るい、中庭に面した柱廊へ出る。混み合う夕暮れとは違う活気が館じゅうを包んでいた。娼妓たちのものだけではなく、女中たちの話し声や、あちらこちらを行き交う足音。そして酒場を兼ねた広間の脇の小さな厨房からは、料理夫たちが仕込みをしている音が聞こえた。

 

 活気、とは言っても、使用人たちのものは、最小限に抑えられたささやかなものである。かれらには、なるべく客に気を遣わせることのないような、手際よい迅速な仕事が義務付けられているからだ。


 シュバリエは、四角く囲む造りの柱廊の一角に立ち止まり、中庭を見やった。目線の先、館の奥には、自分の部屋がある。仕事の際には、廊下を一周練り歩いて客の許へ行き、客と共に部屋へと入る。

 晒し者だな、と思った。行きて動く看板だ。

 もともと、館の華である高級娼妓の披露、誇示が目的でできた仕組みなのだろうが。


 回廊のちょうど向かいに、女中の姿がふたつある。床を磨いているようだ。どちらもほんの小娘である。多めに見ても、十代半ばだ。

 シュバリエは、湯殿での秘めごとを思い返した。震えていた可愛い娘。ただ腕に抱かれることさえ、きっといちども経験がなく。

 そこからふと、自分と同じ日に店入りをした少女へと思考が飛んだ。母親に連れられてきた、同い年の痩せた少女だ。


 初めて店へあがった日。彼女はシュバリエよりも先に指名を受けた。

 ゆっくり立ちあがった少女は、横にいたかれを見た。

 自分を床の相手に選んだ男と共に、あてがわれた部屋に向かうとき、彼女は、シュバリエに視線を投げたのだ。虚ろな瞳を。縋るような短い光を。

 

 その後、少女を見たのは、ひと月ほどもすぎたころだった。

 生きながら、彼女はまるで死んでいた。

 大きな瞳は光を失い、ただの空虚な穴のよう。頰はごっそりとそげ、愛らしかった顔は見る影もない。痩せさらばえ、幽鬼のようになり果てていた。館を出て行くのだと、すぐに判った。


 無残に壊れてしまった少女。

 平然と仕事をする娼妓。

 そのなかにいる自分──

 シュバリエは、彼女をひっそり見送った。母親に支えられて去ってゆく背なかを、いつまでも。


(やめたくとも、あの子は)

(そして……)

 病んだ心を抱えて家に帰っても、穏やかに暮らせる保証は、多分ない。少女は家計を助けるために、稼ぎのいい娼家に出されたのだから。

 自由。それは、恐ろしく緩慢な拘束。ときに見えない糸となる。いかなる規則や制限よりも厳しい呪縛に姿を変える。

 働き手が自分の意思で仕事を選択するという、このごくあたりまえに思える権利は、必ずしもすべての者に与えられ、思うままに行使できるものではないのだ。

 

 合法的な経営を行う娼家であっても、理想と現実から生じる誤差に、どこかやりきれない、うらぶれたような空気を拭いきれない。娼家の、背徳的、刹那的な雰囲気は、こうして更に引き立てられる。世の人々の、固定観念という作用があったとしてもだ。


 視界に人影が映り込む。

 床を磨く少女たちのうしろに、ようやく仕事を終えたらしい娼妓が歩いてきたのだ。

 一夜をすごした客に腕を絡ませながら、しきりになにかを言っている。客のほうも微笑みながら話をしていた。


 衣の重ね具合、『かさね』で娼妓たちの位が判る。

 遠巻きになのではっきりとは見えないが、彼女は、薄紫の地に朱金や赤の模様をあしらった上着のしたに、朱と黄色、白を身につけているようだ。

 彼女は中堅。新参娼妓の襲は、通常多くて三枚だ。人気を得、上客をたくさん取れるようになるにつれ、着込む枚数が増える。シュバリエのような、館に何人もいない高級娼妓に至っては、着膨れせんばかりの絹を重ねて、そのうえに、丈の長い豪奢な上着を羽織る。


 よく見かける娘であった。まだ若いせいか、いささか印象が子供っぽいが、襲の示す通り、既にして客の評判がよい。あと二年もすれば、化粧や着物に頼り、固定客に頼り、安穏としている古参娼妓を脅かす存在になるだろう。

 自分に自信を持った者の物腰や、実際の器量を含めて考えるなら、中の上というところで、あるいは、ほかの店に引き抜かれることもあるかもしれない。


(郷に入っては郷に従え、か)

 昔ながらの決まり文句が、シュバリエの脳裏をよぎる。

 と、娘は唐突に歩みを止め、自分を見ているかれに向け、優雅に腰を落として挨拶をした。

 連れの男は、呆然としている。

 

 床を磨く女中たちも、高嶺に気づくと、敬意を込め、深々と頭をさげた。

 シュバリエは、軽く頷いてそれに応えた。

 彼女たちはどんな思いで働いているのだろうかと、ふたたび、そんなことが頭をもたげた。仕方がないと諦めているのか。それとも。

(わたしは十二で店にあがった……)



「!」

 不意に肩を叩かれ、息を飲む。

「どうしたね? こんなところで」

「……いえ……」

 女将であった。

 相手の様子に、驚かすつもりじゃなかったんだよ、と言う。

「さきほど伺ったのですが……」

「ああ、悪かったね」


 気遣わしげに目を細める。

「疲れは、残っていないかい?」

「ええ」

「シェラナン様は、初めてのお客様だから粗相のないようにね。まあ、あんたなら心配はないけどさ。なに、大丈夫さ。いつものように、かさねておくれ」

「はい」

「クリーマがお待ちかねだよ。だけど、あんなに掃除ばかりして、どうするのかねぇ。早く控え室へやに行っておやり。構ってほしいんだよ」

 女将はそう言って微笑むと、自分の居室へと戻っていった。

 シュバリエは、こうべを垂れて見送った。



 繰り返し湧き出し、ぐるぐると脳裏をまわり始める思考のうしお。

 かれは、もがくようにして自分の部屋の戸口に手をついた。

 深みにはまり込んでも、底はない。


 かれの控え室には、仕事部屋と同様、入ったところに玄関の役目をする小部屋がある。部屋のなかが丸見えにならないように、との配慮だ。衝立の脇を通り、狭い小部屋をつきあたり、居室へと入る。


 しかし、なぜまた──

 壊れてしまった少女を思ったわけを自問した。

(……ああ)

 答えはすぐに見つかった。

 湯殿の娘の髪が、よく似た色合いだったのだ。

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