<2> 黎明の星
夜明けを告げる鐘が響いている。
近ごろ、よく眠れない。
当然、部屋のあかりには覆いをかけているし、心身はすぎるほどの疲れを得ているのだが、いざ自分の床に入って寝ようとすると、思考は奇妙なほどに覚めており、一向に寝付けないのだ。
しかし、だからと言って、出勤時間まで起きていても別にしたいこともなかったし、仕事に差し支えては困るので、シュバリエは固く瞼を閉じていた。そのまま横になっていれば、普段なら気がつかぬ間に、うつらうつらと眠りの淵にたどり着けるはずだった。
館のすぐ裏に建てられている、体裁はいいがこじんまりとした寮が、住み込みで働く娼妓たちの生活の拠点になっている。
シュバリエもまた、館に入った当時から高嶺となった現在もここに住んでいる。大陸の四大至宝のひとりとして名を得た今では、自分の住まいの手配などは造作もないこと。なにも二間しかない部屋に留まっていることはないのだったが。
本来ならば、とっくに居を構えていいはずなのだ。誉高い高級娼妓が、新参者が住まう場所に、いつまでも身を置くことなどないのだ。が、かれはそれでも、この狭い部屋を動こうとは思わなかった。
仕事部屋よりよっぽど居心地がよく、落ち着ける。当然、よく眠れるのもここのはずだったのだが……
まともに睡眠を取れないうちに、とうとう根気が尽きる。シュバリエはため息をついて体を起こした。
(あの夢……)
仕方なく寝台から腰をあげ、木の窓を手のひらでそっと押し開けると、わずかな隙間から刺すような光が飛び込み、反射的に顔を背けた。
(眠れても、またあの夢だ)
かれは横を向いたまま、すぐに窓を閉めた。
壁に寄りかかり、こめかみを指で押さえる。
勝手に眠れないくせに、起きたら起きたでどうも頭がはっきりしない。寝不足であることを頭痛という形で体が抗議しているのだ。
半端な眠気を覚ますために軽く湯浴みをしようと、簡素な部屋着に腕を通し、そとに控える侍女に、湯殿の準備を頼んだ。よく眠れないのも朝の湯浴みも、もはや習慣と化している。
(夢までも……)
不眠は、続けて見ている夢のせいか。それとも、不眠がおなじ夢ばかりを見せるのか?
何度も考えるが、答えの出ない問いだった。
自室に戻って着替えたのち、かれは早々に館へと向かった。がたがたとしているうちに、時間はすぎていたようだ。寮の出入り口まで来ると、日は既に空の真上近くにまで昇っていた。
明るく、清涼な空気。まだ少し涼しく、やわらかな白い日の光。
砂糖菓子のように白く輝く、石造りの壁や敷石──
のどかな、心地のよいそとの風や景色は、かれの心を曇らせる。かれを、孤独にする。
シュバリエは、気分を入れ替えるように軽く吐息すると、いつものごとく、ひねった髪をさっとまとめた。飾り気のない格好は、丈の長い上着でごまかしている。
館は路地の向かい。目と鼻の先だ。寮である棟の出入り口と館の通用口には、用心のために、警備の者が控えているが、かれらは口を出すこともなく、また、女将やほかの娼妓からも、簡素な身なりを咎められたことはない。
客のまえでは当然身支度をしているし、昔からのことだから、もしかしたら、仲間も周囲の人間も呆れていて、文句をつけるのを諦めているのではないか、などと考えてみる。
そもそも、化粧も好きではない。
自分を飾る手段。
客に対する、娼妓としての礼儀。男娼も例外なく、多少の化粧をする。
仕事に臨むための顔を作る。
『男娼の自分』という仮面をつけるかのようだ。
警備の者に声をかけて、そとへ踏み出す。
砂上に取り残された廃墟のような、乾いた、もの寂しい空気に沈む棟々のうえを、海鳥がするりと飛んでいく。
頰を掠める影に、かれは視線をあげた。
その奥に、人がいた。
おなじ並びの扉のまえで、若い男がこちらを見ていた。視線が合うや、汚れた前掛けのまだ修行中という感の若い料理夫は、両手に持った大きな袋を、落とした。
ぽかんと口を開けたままの青年の亜麻色の髪、そしてシュバリエの髪が、風に吹かれ、わずかにそよぐ。
と、金縁の戸口から、もうひとり男が現れた。先輩というところか。かれは、惚けている仲間を訝り、視線をよこした。
「……」
翠玉の瞳。闇色の髪。
視線を解けなくなるほどの──
「シュバリエだ!」
「シュ、シュバ──」
調子のはずれた声が爆ぜた。後続の呻きは呂律が危うい。
シュバリエは、立ち尽くしているかれらを残し、赤い縁取りのある扉のなかへと入っていった。
翠玉の光が一瞬曇る。明るさの急な変化に、目が戸惑ったのである。
館のなかは薄暗い。こうこうと明るい部屋よりも、少し暗いぐらいのほうがゆったりくつろげ、落ち着けるもの。いわゆる雰囲気づくりのために、光量を調節しているのだ。
通用口を入ってすぐのところに、娼妓たちの休憩室と、女将の部屋がある。
娼妓たちは、めいめいに店に出てくる。特別な予約のないときは、早出と遅出を順繰りに消化していく。
館が本格的に動き出すのは落日のころからなのだが、女将は、朝から深夜まで、娼妓たちの管理や客への対応に追われる。それもあり、女将は休館日以外のほとんどを、館内の居室ですごしている。
シュバリエは、ためらうことなく女将の居室の扉を叩いた。挨拶を兼ね、仕事の確認をするためである。
「おはようございます。シュバリエ、参りました」
控えめな声で、かれは言った。
間を空けず、部屋のなかで物音がし、扉がゆっくりと開けられた。
「おはよう、シュバリエ」
肉付きのいい、人当たりのよさそうな顔をした中年の女性が挨拶を返す。歳のころは、シュバリエの親というところ。
黒に見える褐色の髪に、細めだが生き生きとした光を宿す灰色の瞳。若い時分は、この店の主人の娘でありながら、高嶺を務めたそうである。
シュバリエは会釈をし、穏やかに笑んだ。
女将はぎゅっと眉根を寄せた。
「寝てないのかい?」
「いいえ?」
「そう……」
「今日のお客様は、中央のかたと、南のかたが宵越しでしたね」
「よろしく頼むよ」
女将はシュバリエの言葉に頷いた。
その顔に、いつもの朗らかさがないように、かれには思われた。返された言葉を信じきっていないのだと思った。
このところ女将は、顔色が悪いと言っては頻繁に体の調子を聞いてくる。
心配なのはわたしの体か、それとも仕事か──ついそう考えてしまっては、子供みたいだと苦笑する。
ふと、女将は口許を引き締めた。
「なにか……」
「ああ、」
綺麗に整えた眉をしかめる。
「ちょうどよかったよ。あんたのところにいこうとしていたとこなんだ」
「──不手際が、」
「いいや。文句じゃない。あんたはよくやってるよ。相手を見て判らない?」
「……」
「世間様の話を聞いてごらんよ。それともあれかい、『どうして有名になるのか』なんて、まだそんなことを言うのかい? あんたは」
女将の言葉に、翠眼の美姫は苦笑いをした。
「いえね、あしたのことなんだ」
「……はい」
「急な予約が入ってね。悪いんだけど、かさねておくれ」
「ええ。判りました」
シュバリエは一も二もなく承諾をした。
わがままの利く客だ。館にとり、大切な相手に違いない。女将が客に折れるのは、それなりに理由があって、どうしても断りきれぬときだけだ。
拒む理由もなかった。
「あんた、」
ぽつりと言いかける。
「あんたは──」
「……」
「せっかくの休みを、すまないね。仕事続きだろう」
いいえ、とかれは答える。大丈夫ですから、と。
表情により、黒に見える瞳が見つめてくるが、そのまま、しばし黙ってしまう。
「……女将?」
「──ああ」
女将は、ぱっとわずかに頰を赤らめた。
無理をしているようにも見えるのだ。このような場所には、そぐわないとさえ。しかし、それにしては、カレル開拓以来ずっと娼館を続けてきた家に育つ女の目から見ても、この青年はひどく蠱惑的だった。
内から滲み出るようななにかを持っていると、思えてならぬ。
美しいだけでは高級娼妓は務まらない。
綺麗なだけでは──
「不思議な子だね。あんたは」
「……」
「いつも、無理言ってすまないね」
構いませんよ、と首を振る。
穏やかな線を描く目尻の翠玉の瞳に、くっと形よく釣りあがる眉が、かれのかんばせに品格のある知的な表情を提供している。
「ぜひに、というお客様のお名指しですから」
「……そうかね。判った。でも、無理だけはしないようにしておくれ。今だって、まだあんたの部屋にいてもいいんだ。先方が見えるのは四ノ刻なんだよ」
「いいえ、自分の部屋にいても──」
やりたいこともないですし。
そう言いかけて、やめた。
かれの思考をどのように受け止めたのかは定かではなかったが、女将は、そうかね、と繰り返した。繰り返して、かれの手を掴んだ。
「こう言うのもなんだけどね。あんたたちは、文字通り、体が資本なんだよ」
あたたかな声音に、シュバリエは覚えず頰を緩めた。
「……あたしは、あんたを子供んときから知ってる。まぁ、あんたとおなじに、歳のいかないうちから店にあがる子はいる。稚児も幾人かいるけどね」
目が、更に細くなる。
「あんたが可愛いんだよ。売れっ子になったからというんじゃなくね。赤ん坊だった弟を抱えながら、よくやってきたよ。今じゃ勉強にも出して。立派なもんさ」
シュバリエはふたたび首を振った。
「あの子は、元気にしてるかい」
女将は、微妙な笑みを浮かべると、握っていた手を離した。
「大きくなったね」
「ええ。来月には十二です」
「このまえの帰郷のあとも、すぐに手紙が来たね」
「元気にやっているようです。ああ見えてもまめな子なので、いろいろなことを書いてきます。西での生活は楽しいと、いつも言っています」
女将は、にこやかに何度も頷いた。
「クリーマは、あんたからもらった名前をたいそう気に入りの様子だね。あんたがだいじにしてる弟の名前から作ったものだからってね。あの子も、あんたたち兄弟みたいに、まっすぐに育ってほしいもんさね。まだまだ子供だから手がかかるだろうけど、あったかい目で面倒を見てやっておくれよ」
「ええ。とても頭のよい、素直な子ですよ。しっかりしていて芯の強そうなところなどは、弟に似ているような気がします。名前のせいでしょうか」
稚児の健気な姿を思い、シュバリエが微笑むと、つられてか、女将もおなじように笑った。
かれの腕を、ぽんとはたく。
「具合が悪かったり、ひどいことをされたりしたら、すぐにあたしに言うんだよ。でき得る限りの手は打つ。さぁ、おいき」
「はい。失礼いたします」
頭をさげ、かれは女将の居室をあとにした。
少し間を空けてから、扉の閉まる音が聞こえた。
似て非なる日々の、繰り返し。
かさねの、繰り返し。
でも、逐一、振り出しに戻るのではない。
天輪は、今も留まらず、水は流れを止めない。
時間は絶えず流れすぎ、すぎた時間が、おなじ姿でふたたびめぐりくることはない。この世において、自分という存在が自分のほかにはないのとおなじだ。似たような者があっても、『わたし』でないのとおなじこと。
川に、いつもと変わらぬ流れがあっても、ゆく水は、常に違う流れだ。
似て非なる流れの、繰り返し。
今のわたしは、今しかいない。
新しい繰り返しの、始まり。
決しておなじではないのなら、きっとなにかは違うのだろう。
シュバリエは、控え室へと足を進めながら、そう心のなかで考えた。
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