<1> 翠玉館

 海岸線に沿って栄える港町・カレルは、白い街並みが美しく、観光地としても有名である。港から続く緩やかな坂を昇り、小道に入ればそこはカレルの花街かがいだ。

 商店の並ぶ大通りから石畳を一本折れると宿場街。その、青緑の門の棟々のそばにひしめく赤の連なりが花街である。


 朱金にたぎり、夜風に歌い。妖しい熱に沸き返り──

 夜の街には、日の光の許でのざわめきにはない、独特なきらめきがある。花街のそのきらめきは、なにか、脈動する血を思わせる。赤い血潮が力強く脈打ち続ける、そうしたさまを思わせる。

 人間の息遣いが、ここにはあった。


 ほかのたなに遅れじと、次々に灯をともし始める花街にあって、すでに夜半のような賑わいを見せる店がある。

 街の奥、現在は上花街じょうかがいと呼ばれて親しまれている、花街のもともとの中心地、山寄りの場所に位置する古店。

 かの『翠玉館』である。


 この店は、屋号を<赤椿のねや>と言う。今や『翠玉館』の名で呼ばれ、世界のいたるところで知られていたが、そのわりには、取り立てて目立つでもなく、落ち着いた、いかにも古店らしい趣で、常に変わらぬ佇まいを持っていた。

 上花街では一般的な、枡形の造形である。そとは黄昏に沈む刻なのに、中庭の、四角に切り取られたような空は金色だ。区切られた空間のなかに、光が満ち、漂っている。柱や部屋に灯るあかりが庭を染めているのだ。


 朱塗りの門をくぐると、穏やかに流れる楽の音や、娼妓たちの嬌声が客を迎える。酒場を兼ねている広間からもれるほのあかりは、香水の練り込まれた香り蝋燭や香の煙と相まって、夕闇にむせるように甘い。

 館のそこかしこに、燭台や発光性の石による照明があるが、総じて部屋は薄暗い。緩い光は、まったりとあたりを包んで、広間の調度品のへりを、飴のようにてらてらと輝かせている。

 油の燃える匂いや、ひといきれ、敷物の深い血の色とで、熱気の感じられる館内は、暑苦しささえ感じるほど。館にいる者たちの情炎が、本当の火や熱となって籠もっているようでもあった。


 中庭に面した、背の低い衝立の置かれた広間では、まえ合わせの絹に、結び目を胸のしたに作る帯といった、独自の衣装に身を包んだ娼妓たちが酒や笑顔を振舞いながら、首尾よく相手を捕まえようと、艶めいた所作や目線で誘いをかけている。やがて、夜伽の相手が決まると、つぎつぎに広間から消えていく仕組みだ。

 ぼそぼそという客のつぶやき、笑い、硝子の杯のかち合う音が、広間の奥に座る楽師の紡ぐ調べをおぼろにしている。

 いつもと変わらぬ夜が更けていくのだった。



 肌が粟立つような感覚に、シュバリエはふと両目をあけた。

 汗で背なかが濡れている。

 否、背と言わず、体じゅうに薄く汗をかいている。

「──……」

 唇はなかば開いて、なにかを言いかけたようになっていた。

 視界に自分の手が見える。目の端には頰にかかる黒髪も。

 シュバリエは、ぼんやりと、うつ伏せのままで思考の糸に腕を伸ばす。が、刹那完全に目を覚まし、すぐに状況を理解した。

 

 夢。

 かれはそこに、自分の遠い過去を見ていたのである。

 忘れ得ぬ遠い記憶は、意味もなく今も繰り返し夢に蘇る。自分を忘れてくれるなと、死してなお、その姿をこの世に留める亡霊のように。

 伏せた睫毛のしたで、翠の色がうろんにきらめく。込みあげる感情は、かれの顔を歪ませた。


 苦痛でも苦悩でもない。それは皮肉な笑みだった。意図的に浮かべる笑みではなく、自分のうちから湧きあがる、あるがままの笑みだった。

 こうした笑み──剣呑な、だがどこか脆くも見える昏い笑顔も、かれの端正なかんばせに陰りを落とすものではない。むしろ華やかに笑うより、普段に浮かべる表情よりも、人間らしくかれを引き立てた。

 この、かれという人間をそっくり映し出したような笑顔がもっともかれらしく、人に向けて作ったどんな笑顔よりも美しく、また、その顔がいかに魅惑に満ち、どれほど扇情的かということを、かれ自身は知らない。


 シュバリエは、軽く息をつくように、かすかに鼻を鳴らした。

 おかしなことだ。

 何度夢見たところで、事実はなにも変わりはしない。

 知らず口許の笑みは消え、紅のわずかに残る唇は頑なに結ばれる。

 時は、記憶の輪郭を曖昧にしてゆく。もはや脳裏にあるものは、凪いでいる水面に浮かぶ像に似た、現実感のない、透けるような記憶の残像だった。しかし、像は搔き消えようとも、そのときの空気や、音や声、感触や感情は、いつまでもはっきりとした形を成して蘇り、かれに執念深く取り憑いていた。


 かれは、眠るためにではなく、再び目を閉じた。

 寒い。

 ふと自分を取り戻したかのように身震いをする。客を送り出したあと、いつものように寝台に倒れ込み、どうやらそのまま寝ていたようだ。

 思ったより汗をかいていたらしい。

 頻繁に見る夢は、必ず寒さを残していく。暗闇よりも暗い、息の詰まりそうな冷たさに縛られ、凍えて目を覚ますのだ。

 着替えがまだだから、それで余計に湿ったように──慰めのような、少しも慰めにならない、自分に対する弁解。言い聞かせ。

 実際の慰めはただひとつ。両目を開くことができたこと。そうすることが、黒い夢を打ち払う確実な手段だったから。

 救われた気分に、かれは安堵の吐息をついた。


 波打つ布のうえを撫でる手が、抜け落ちた簪を探りあてる。シュバリエはうつ伏せのまま腕を伸ばして、掴んだ簪を枕のうえに、投げるようにして置いた。

 体が軋む。

 これでも、わがままを聞いてもらえる立場になり、以前に比べれば格段に余裕ができたはずなのに。やはり人間というものは楽をしたがるものらしい。すぐに自分の立場に溺れて、さらにうえの贅沢を求める。

 かれはもう片方の腕も投げ出し、華奢な両足も爪先まで伸ばして、大きく伸びをした。限界まで節々を伸ばすと、どことは言わず、体のあちらこちらであがる軋めきと、滞っていた血が解放されたような感覚を覚えた。

 ぐったりと全身の緊張を解く。うつ伏せた体に、敷布のひんやりとした感触が心地いい。


 自分も楽しめばいい。

 以前、客として訪れたほかの館の娘が言った。

 確かにそうかもしれない。人付き合いの一環として楽しめれば、いつもこれほど疲れなくても済むのかもしれない。

 没頭できる時間はあまりに短い……


 かれは、寝そべったまま、自分の思考にくすりと笑った。

 十で店入りをしてから、もう十年以上になる。向くも向かぬも、とうの昔に、戻れないところまで来てしまっているのに。

「鳥はね……」

 つぶやきを切る。

 いつもの口癖。それを途中で飲んだシュバリエは、また吐息をつくと、視線だけを動かした。

 日は、まだ闇を溶かしていない。

 薄闇と静けさといった窓幕の気配が、眠り込んでからそれほど経っていないことを教えてくれる。


 あてがわれて長い、この部屋は、<赤椿の閨>いちばんの上部屋である。床には、くるぶしまでが沈みそうな葡萄色の厚い絨毯が敷かれ、座椅子と、それに合わせてあつらえられた背の低い卓が置かれている。

 寝台があるのは部屋のいちばん奥。赤い薄布の天蓋が幾重にも優美にひだをなし、踊り子のスカートのように裾を広げて、寝台の周囲を包んでいる。

 

 明けきらない夜の冷たさが、肌着を羽織るだけの肢体にしんしんと染み入る。

 敷布に頬ずりをしてから、かれはその感触にうしろ髪を引かれつつゆっくりと体を起こして座り、寝台の隅へと追いやられた枕のひとつに背なかを沈めた。

 体の力を抜きながら長々と息を吐き出し、その細い指で髪を掻きあげた。やわらかに波を描く黒い髪は、左頬のほくろを掠め、なめらかだが骨ばった肩でささめき、濡れたような艶を放って踊った。


 シュバリエは、今や押しも押されぬ高級娼妓だ。この界隈はおろか、さまざまなところでその名が知られるようになっていた。しかし、当のかれは実に無頓着であり、人がなんと褒めそやそうとさして興味も湧かず、高嶺こうりょうと呼ばれる立場になっても、それこそ『高嶺の花』を気取る気などは微塵も持ち合わせていなかった。

 かれには、自分がなぜ有名になったのかも判らなかった。いつだか、館の女将に尋ねたら、面白いことを言うと笑われた。あとで思えば、娼家にあって、こんなことを問う自体、しかも、それが高級娼妓の言葉とあっては、既にして滑稽な話であった。


 この業界は、いろいろ難しいのさ。女将は言う。

 お客も娼妓も、あたしらをとやかく言うも人だから、と言うのだ。

『人だから』

 花街は人間そのものなんだと思うよ。

 あるべきではないとされるが、かといい、根絶もなされない。この曖昧さは、確かに人間の本音と建前がせめぎ合うさまに似ている。



(わたしは、仕事をするだけだ)

 枕から体を起こす。立ちあがる動作の途中、寝台の横に脱ぎ捨てていた上着を拾い、肌着に羽織る。

 前合わせ、長袖の、裾を長く引く上着。たっぷりとした紺青の地に、極彩色の糸で豪奢な刺繍が施されている。いつも身につけている高級娼妓の厚い衣が、仕事のあとは重く感じる。

 かれは、衝立の脇から寝間を出た。


 と、そとの小部屋の隅に、稚児の小さな姿を見つけた。

 座布団を、まるで枕か人形のように抱きながら、綺麗な衣を着たままで、壁にもたれ、すうすうと寝息を立てている。

 可哀想に、と思う。幼い身には、深夜にわたる勤めはつらかろう。

 しかも、やっと六つになるというこの女児は、館に来てからまだ半年だった。

 彼女はシュバリエ付の稚児で、かれが仕事の際、こうしていつもこの小部屋に控えているのだ。


 シュバリエは身を屈め、真っ直ぐな黒髪の頭にそうっと触れた。

 幼い子供を館で養う習慣は昔から存在している。稚児たちは、客の取れる歳になるまで、ある程度の地位を得た娼妓のしたにつき、見習いを兼ねて小間使いとして働くのである。


「クリーマ」

 シュバリエは、ささやくように呼びかけた。

 彼女はいつも、主人が寝間を出るまで待っていた。

 今日のは、先刻の客でしまいだ。客が帰れば、主人と同様、稚児の仕事も一応の完了をみる。客取りのあと、主人であるシュバリエが特に用事を命じなければ、彼女は自室に引き取れるのである。

 そう、彼女はもう勤めを終えているのだ。

 構わず先に休むようにと言うのだが──


 クリーマは、仕事に疲れたシュバリエがしばし眠り込んでしまっても、いつも健気に待っていた。この言いつけだけは守らず、頑として、自室にさがる気はないようだった。

 大きな瞳の、可愛らしい子。明るく、しっかりとしたもの言いの。

 あどけなく、儚げな寝顔。まだ世間のしがらみをいくらも知らず、生きていくための厳しさも、人間である以上避けられない不条理も知らず。

 きっと、混入物もひびもない、まっさらな水晶の結晶を胸に隠してる。その結晶は溶けだして、かすかに開いた薄紅を引く唇や、幼な子らしいふっくらとした頰や、閉じた睫毛の先に灯ってる……


 小さな肩をやさしく揺する。続いて、手の甲でやわらかな頰を軽く叩いた。心地よさげに夢を漂う彼女を引き戻すのにはためらわれたが。

「クリーマ。部屋でお休み。体を悪くしてしまう」

 童女を起こしながら、シュバリエは自らも改めて疲れを覚えた。湯浴みをして早く休んだほうがいいだろう。

 一日がようやく終わる。


 広間から流れる楽の音も止んでひさしく、館には静寂のとばりが降りている。

 薄闇に浮かび、たゆたうのは安らかな寝息。あるいは、その波から顔を出す、未だ愛を語りきれない者たちの、ささやかに熱い吐息ばかりだ。

 娼家には、昼も夜もない。だが、昇る陽の光と引き換えに、ひととき、朱金のあかりが落とされる。そのころ侍女は、一日でいちばん慌ただしいときを迎える。娼妓たちの次の仕事に差し支えのないように、部屋を整えてまわるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る