娼館のシュバリエ
双星たかはる
序章 翠眼の美姫
湯殿は、朝霧に沈むように静かであった。ほの白く、ぼんやりと霞がかって、冷たいまでに静かだ。絶えず流れ出る湯が、石造りの壁に、柱に、せせらぎに似た音を響かせている。
ふう、とかれは覚えず吐息をこぼした。
頰が早くも火照りだし、肌がちりちりし始める。目覚ましにちょうどよい加減が嬉しい。湯は熱めで、たちまち頭がはっきりとした。
かれはもうひとつ軽く息をつき、澄んだ湯の底、両足をのびのびと投げ出して、こうべをゆっくりめぐらせた。
もう慣れてはいるのだが、やたらとかしずかれるのは嫌だった。だから、自分の湯殿には最低限の侍女しか置かないようにしている。現に、静まり返った湯殿には、侍女はただひとり、ぽつりと控えるだけだった。
侍女は、袖の短い衣のうえに、それだけでも普段着として使えそうな、上下つなぎの、清潔感のある白い前掛けをつけている。
脱ぎ捨てられた衣をしまうといった作業をぴたりと止めたまま、彼女は、かれの姿をじっと見ていた。
見覚えのない顔である。ふわふわの淡い栗毛に、鮮やかな碧眼が映えている。その、はつらつとした色味に反し、おとなしげな印象のする顔立ちだ。
体の線がまだ固く、少女の色が抜けきれていない感。美人と言えるが、可愛いという言葉のほうが合いそうな。
ゆるゆると腰をあげる。
無関心を装いながら、かれは湯浴みを続けた。
石鹸をよく手のひらで泡立てて、丁寧に体を洗う。髪は、香りのいい専用の練り石けんで洗い、そのあとに、植物由来の油を少しずつなじませる。
そろそろ、切ったほうがいいかもしれない。
うしろで結うことが多いので、たいていこうした湯浴みのときに、髪が伸びたと気づくのだ。濡らすと、肩や胸に貼りついて、余計にそれが際立った。
鏡のなか、ほかでもない、自分の翠の瞳が、ひたとこちらを向いている。黒い髪は痩せた胸を包み隠すように艶やかに波打っている。
かれの白い肢体には、膨らみや、まるみの醸す甘やかさは無論ない。だが、男をはっきりと匂わせるような色もなかった。どちらにも転じ得るような危うさが素肌を支配している。
なにか、いよいよ綻び始めるといった花の蕾のような、予感を称える美しさと不可思議な際どさが、はちきれそうに、その肢体に満ちていた。
侍女は、変わらぬ位置に、亡霊のように立っている。
かれは、髪の余分な油をすすぐと、再び浴槽に体を沈めた。なみなみとたゆたいながら光る湯が、清水のように浴槽の縁を流れ出てゆく。
今、この場において──館において、湯炊きや湯浴み場の仕事にあたることは、客の相手をすることよりも簡単といえば簡単で、単純なことのはずだった。何故ならば、一般の屋敷で雇われる者とおなじ仕事をこなすだけでいいからだ。
しかし、幸か不幸か。
経験の浅いままかれにあたったらしいこの侍女は、定例どおりの伺いをたてたきり、ほぼ何もできずに立ち尽くしていた。
娘の碧い眼差しは、確かにかれに向けられている。が、かれが近づいていっても、まるでかれのなかに幻でも見るかのように、はっきり焦点を結ばない。
かれは、浴槽からあがったままの体で腕を伸ばした。
おもむろに娘の肩口にからませ、抱き寄せる。
かれの、上気したなめらかな肌がはじいている水玉が、娘の襟許や衣を濡らす。
「うぶなんだ……可愛いね」
鋭く息を飲みくだす音。
侍女はわれに返り、自分の置かれた状況に愕然となり、同時に呆然とした。
「きみのようないい子には、
紅潮しきった相手の耳に触れるほどに唇を寄せてささやいた。
「けれど。裸に動じてしまっては、仕事はできないよ……」
腕のなかで微動だにしない侍女に、かれは体を密着させた。今にも途切れそうに震える呼吸と、心のうちを語る鼓動が、重ねる胸に伝わってくる。
髪を襟足から撫であげる。
「それと、この髪」
やわらかなそれは、汗で根許が湿っていた。
「いけないな。布で覆うのを忘れてる」
かれは、恋人にするような優しさをもって、娘の髪と首に接吻をした。
(考えてごらん?)
(それはすぐに判ること)
(この仕事に就くのなら……)
腕をほどき、自分でローブを羽織ると、娘をそのままにして、かれは湯殿を出ていった。
背後から物音が追いかける。
娘がくずおれた音だった。
かれは淡々と歩みを進める。すでにその脳裏に娘はいない。唇を固く結んで、頭の隅にこびりついて離れぬ言葉を、ただ反芻していた。
何度となく言われてきたこと。
ひとたび体を合わせれば、たちまちに誰もが情欲に狂う。その爪縁で魅惑的な凄艶で魅惑的なさまに取り殺される。
シュバリエは、交わることで相手の精気を吸っている。奪った精気を自分の命として生きる魔性だ──
今日も仕事だ。
シュバリエは、居間へと急いだ。
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