<4> 白椿
「あっ、シュバリエさま!」
童女は素早くこちらを向いた。
「おはようございます!」
「おはよう、クリーマ」
背伸びをしながら危なっかしい手つきで、卓のうえにある花瓶に花を生けている。
青い硝子の花瓶。黒い金具の脚がついている。
弟クーリエからの贈り物。
「わたしに仕事が入ると、おまえの休みまで潰れてしまう。すまないね」
主人の言葉に頭を振って、童女は顔を赤らめた。
真っ黒な、顎の線で切りそろえた髪が似合って愛らしい。
爪先立ち、丸い卓の隅っこに、ちょこんと両手を添えながら、花を一心に見つめている。子猫が前脚をかけて立ちあがり、じいとひとところを見つめるようだ。あどけない仕草に、知らずシュバリエの唇が緩む。
クリーマは、にっこりと屈託のない笑みを浮かべた。
「きょうは、シュバリエさまのお好きな真っ白のお花です。やっぱり、この花瓶には白いお花がいちばんきれいです」
暮れかけた空と、ひらめく星のような、鮮やかな色の対比。
「そうだね、綺麗だ」
寮の寝室より広く、片付いた部屋だ。調度品も、ゆったりと大きな寝椅子が一脚、卓一台、椅子二脚が、絨毯のうえを埋めるために置物のように並べられているだけだ。あとは、壁際に背の低い箪笥が二本、化粧品や簪などの小物を収めるものとして備えられているだけ。簡素である。
壁の垂れ幕や織物のほかに装飾がないのは、シュバリエが私物をほとんど持ち込まぬため。周囲のものにあまり執着をせぬためだ。現にこの部屋の環境は、明け渡されたときのまま、花瓶が増えたぐらいで変わっていない。
シュバリエは、金箔や陶磁器よりも、ひと束の花を好んだ。ここには窓がないせいか、静かなのはいいのだが、長いあいだ籠ると妙な圧迫感に疲れてしまうのだ。クリーマの運んでくれる花たちは、気だるい気分をやわらげてくれ、心をあたたかくしてくれる。疲れた体をほぐしてくれる。
かれがありがとうと言うと、童女は髪が踊るほど頭を振ってから、いいえという返事をした。
「わたしにできることは、これだけなんだもの。お掃除とお花だけなんだもの」
薄く紅を引いた小さな唇を尖らせると、ひらりと卓から駆け寄って、クリーマはシュバリエに抱きついた。
「おそとにいるだけなんだもの」
「……」
ぷく、と膨らましてみせる頬が、桃のよう。
彼女は、ふたりだけでいるときにだけ、こうして主人に甘える。
寂しいのだ。
シュバリエは身を屈め、抱き留めてやった。
幼い子供を雇い、または養い子として店に置き、稚児として奉公させる習慣は日常的に行われていることなのだが、それがその子供自身の意志で行われる例は、皆無に近い。
ぱちりとした明るい灰色の目が可愛らしいクリーマもまた、家庭の事情で奉公する身であったが、素直で従順な彼女は、この館では模範的な稚児になっていた。
娼妓の仕事の意味もよく知らず、化粧をし、着飾ることを喜んで、ここで働けるのが嬉しいとさえ言う。しかし、そんな彼女も、幼いうちに親許を離れ、知らぬ大人ばかりが出入りをするような環境にあっては、心もとなく、人恋しく思うのだろう。
「おはなしに、こういうものがあったよ」
主人の言葉に、童女は顔をあげた。
「わたしたちとおなじ世界の娘のお話。その美しい娘はね、人前に出るときにはいつも、白いお花を一輪持って現れる」
「白いお花?」
「そう。けれども、ひと月のうちに五日だけは、赤い花弁のお花を持つんだ」
「どうして?」
「それはね──」
童女のやわらかなおとがいに触れる。
さら、と毛先が手の甲を撫でた。薄明かりが髪のうえに流れる。
「彼女が、彼女であるというしるし」
微笑む主人を、童女は小首を傾げて見つめ返した。
純粋な心を、そのまま映している瞳。白粉なんかをはたいた肌など比較にならない、白く艶やかな、真珠のような肌。よくできた人形のように整ったかんばせ。
クリーマは、女将のお気に入りだ。つかず離れず、館の者にはあまり個人的な肩入れをすることのない女将が、常に気にかけるほど。この子はいい娘になると、自分の生んだ子のように言う。
引き取ってすぐに高嶺付きに振り分けたのは、将来を期待してのことだ。女将は、彼女を店の看板に──ゆくゆくは高嶺に、と考えている。接客の法、高級娼妓の立ち振る舞いを、幼いうちから直に学ばせる心づもりなのだ。
この子は、このままの瞳でいられるだろうか。
真摯な視線が、胸に真っ直ぐ突き刺さる。
「……シュバリエさま?」
「ああ、」
かれはそっと体を離した。
「なんでもないよ」
「……」
今度は童女が口籠る。
眉が寄せられ、表情を固くした。
問うように見つめ返すと、彼女はふいと目を伏せた。
たっぷりとした上絹の、浅黄色をした衣を纏ったクリーマは、それこそ人形のように表情を凍らせたままでいる。
なにかを言いあぐねている様子。
「なにかあったの」
心配になったシュバリエがそっと顔を覗き込むと、童女はようやく言葉を発した。
「おねがいです、シュバリエさま。お食事をしてください。ちゃんと召しあがってください!」
「女将に?」
違うと首を振る。
「シュバリエさまは、わたしがお仕えしてから、もうずっとずっと、ちゃんとしたお食事をしていません」
その、双眸のひたむきさ。透けるような白い面で、童女は必死に訴えた。
愕然としたシュバリエは、彼女を安心させようと、膝をつき、目線をおなじ高さに合わせた。
童女の顔は、恐怖の色さえ浮かべている。
やがて、みるみる涙を溜めたかと思うと、泣き出してしまった。
しゃくりあげながら、クリーマが来たからだ、クリーマが嫌いなんだと言う。
「それは違うよ、クリーマ。ずっと心配をしてくれていたの?」
シュバリエは、童女をぎゅっと胸に抱き寄せた。大丈夫だよと頭を撫でてやると、ますます泣き出すのだった。
今まで押し込めていたものが、一気に出たに違いなかった。
「おまえが嫌なんて、ただのいちども思わない」
シュバリエは言い聞かせて、泣きじゃくる童女を気の済むまで泣かせてあげ、落ち着いてきたころを見計らって、抱きあげた。
「ごめんね。大丈夫だよ。ありがとう」
「──」
涙でいっぱいの顔が愛おしく、翠眼の美姫は破顔する。
「大丈夫。だから、もうそんな顔をしない。いつもの、わたしのクリーマに戻って」
かれは童女の額に、母親の接吻をした。
「さあ。お客様がお見えになるまえに、おまえも食事を済ませておしまい。用意は、早めに。紅を引き直すのを忘れずに」
「はい。シュバリエさま」
「お見えになったら、すぐに通して」
「はい!」
クリーマは、小さな拳で涙を拭うと、使命感に瞳を輝かせ、勢いよく頷く。
「おいき」
「はい!」
絨毯におろし、もういちど接吻をすると、彼女は可憐なさまでお辞儀をして見せ、シュバリエの控え室をあとにした。彼女は女将のもとで暮らしているのだ。
シュバリエは、卓に歩み寄り、弟にもらった花瓶を眺めた。花瓶は酒杯に使えそうなほどに小ぶりな物だが、かれはとても気に入っていた。
クリーマの言う通り、この花瓶には白い花がよく映えた。口いっぱいに生けられている花が、こぼれ落ちそうに咲き誇る。
遠い空のしたで寄宿生活をしている年の離れた弟、クーリエを、シュバリエはいつも心に思っていた。こうした仕事の空き時間や、眠りに落ちるまえのひとときに、いつも。
弟には、できるだけ早いうちにそとの世界との接点を作りたかったし、将来の道は自分で決めさせたかったので、西の大陸行きが決まったときには、本当に嬉しく思った。
ただ、遠い。
工舎の在る西のゼピュロスまでは、ここ、東のエウロスから、海路で数日費やさねばならず、当然、住み込みという形をとることになり、帰郷も年に数回と限られる。
弟を遠く思うとき、シュバリエは、応援こそしているものの、自分もクリーマとおなじように、肉親と離れて寂しいのだろうかと考えた。
決して、ひとりではないのに。
甘い香り。
重く、まとわりついてくるような芳香……
改めて気づくと、部屋は香を焚いたように、花の香りで満ちていた。
咲き誇る、薔薇に似た香りの白い花。
花はあふれ出るような勢いで、ひだのある花弁を幾重にも広げている。花瓶の青は、花弁にうずもれている。
深い深い、海より青い、空の色。
空は絆だ。
誰もが、ただひとつの空を見ている。
どこであろうと、色が違えど、みな、おなじひとつの空を見ている。
繋がっている。
冷たい花瓶を手に取り抱くと、つんと、ひときわ強く花が香った。
苦々しい思いに、シュバリエはひとり歯噛みをした。
あれほど一心に可愛がっていたクーリエまでも、何故に置いていったのか。
(父さま、変なことを言わないで!)
それは、あまりに突然のこと。
あたたかな、いいお天気になりそうな日で。まさに青天の霹靂で。
嘘じゃない、と父が言う。
(どうして? どういうことなの?)
少年のシュバリエは、駄々っ子のように言い募る。そんなことはあり得ない。あるはずがない。
(母さまはどうしたの?)
(クーリエを置いてどこにいったの?)
(クーリエが可哀想だよ!)
そうだね、という言葉とともに、大きな手が頭に置かれる。
『おまえも寂しいだろう、シュバリエ』
寂しい笑みで父が言う。
甘い香りが満ちている。
絡みついてくるような。白い白い薔薇に似た。
すぎた日々の残り香のよう。
花は、かの日とおなじ匂いがした。
強い香りに、目眩さえする……
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