9-2

すると、突然今まで感じなかった背筋が凍るようなゾッとする気配を感じた。

少し首を動かし隣を見ると、おぞましい表情をしている人間がいる。

槌納だ。

だが、彼は普段のそれではない。

瞳の奥は、深淵の様に深く黒い。そして、加護を受けている人間とは思えない程に、彼が纏う気配は暗黒そのものだ。

ただ一点、陽をじっと見ている。

(いやいやいや、なんでこうなってるんだ⁈ しかも、こんな大地見たことないぞ……。まさかこいつに殺られるなんてこともあるのか⁈)

この怪物に何か対処しなければ、と考える陽だが間もなく百合川が口を開き、一旦、怪物の事は無視する。

「ウチとアンタが初めて会ったのは、ウチがいじめられてた所にアンタが助けに入ったところだよ。覚えてる?」

「……すまん。俺、そのころ色んな所でいじめっ子を懲らしめていたから、どの子か見当がつかん。小学生ながら武術を嗜んでいたから少しばかり強かったんだ。ガキの正義感ってやつだな」

「ウチだけじゃなかったんだ」と百合川が声を漏らすが、陽には聞こえなかった。

 それでも諦めない百合川は、なにか見つけたようで、

「アンタその頃金髪のギャルにハマってたでしょ? なんか、時々じっと見てる時があったし……それでウチもこんな感じにしたら見てくれると思って……」

 後半の方はぼそぼそとしていて聞き取れなかった。これだけは確信しているが、陽にはギャルが好きになった記憶はない。

「ん? 俺がギャルを……? いや、すまんがその経験はないのだが……」

 陽が口にした事に動揺を隠せない百合川。

 だが、それはほんの刹那の事で直ぐに笑顔を作る。

「まあ、そうだよね。昔の事だし直ぐには思い出せないよねー。ウチもちょっと気が早かったよ。それじゃあ……」

 と言った百合川は、学生一人一人に配布される透明な携帯端末を取り出し、

「取り敢えず連絡先交換しよ? ウチからは送らないから……。でも、何か思い出すことがあれば連絡くれないかな?」

 それならば。と陽も端末を出し交換する。

 作業が終了次第、百合川は直ぐに「ばいばーい」と気さくに別れの挨拶をして踵を返し、姿が見えなくなった。

 ちらりと振り返った百合川の顔はよく見えなかったのだが、その目じりには涙を浮かべていた様にも見えた。

(百合川には悪いことをしたかな……)

 罪悪感を覚える陽。そして考え込む。だが、早々にやるべきことを思い出す。

 槌納だ。この馬鹿をどうにかしなければならない。

 未だ、悪鬼羅刹のごとき表情を崩さない槌納に、

「……何があったか教えてくれるかな?」

 と、尋ねると、見るままに口角を引き上げ笑顔になる槌納。しかし、その目は笑っていない為におぞましい笑顔だ。

「やあやあ陽君。あの女の子はどんな関係なのかね?」

「会話をちゃんと聞いてくれ……。だから、俺はあの子を知らないと言ってるじゃないか」

「無関係な子があんな顔をするわけ無いだろう?」

 的を射た指摘に、うっ、と言葉に詰まる陽だが、どうやら本当に思い出せないようで、

「……だから思い出せな――」

「そんなことは良いんだ」

 更に寒気を感じる陽。槌納の発言に対して構える。

「俺はお前が童貞卒業していることを責めたいんじゃない。俺が一番聞きたいのは――」

 予想外の言葉に、陽は思わず硬直する。

(なんで、ここでその言葉が出るんだよ……)

 陽の思考など気にせず、話を進める槌納。

「確認だけど、俺らが一緒に上を目指し始めたのは、丁度小学生の後半だよな?」

「……まあ、そうだな」

 陽は、突然の質問に違和感を感じるも、渋々返答する。

「お前は俺が真面目に鍛練している時に、女遊びをしていたわけだ」

「は?」

 槌納の飛躍した理論に、陽は思わず声を上げてしまった。

「俺が、女気を振り切ってまで鍛練に励んでいたのに……お前と言うやつは……」

(たまにこいつが何を考えているか分かんない時があるんだよな)

 槌納の思考を推察するも、何も分からない陽。

「さっきも言ったが、お前が今童貞でないことは全然気にしていないんだ……全然……ぜんぜ……」

「いやどう見ても、気にしているだろ……」

 全く何もふっきれていない様子の槌納。思わず突っ込んでしまう。

 迷宮に入り込みそうになった所で、槌納は何とか自力で引き返す。

「そこじゃないんだよ。うん、そこじゃないんだ。つまりだな……小学生の時点であんなギャルと会っている。しかも、どうやらお前に夢中だ。つまり……ヤッたな?」

「――何でそこに行きつくんだよ!」

 女が絡むと、この馬鹿は普段の素晴らしい思考が出来なくなるようだ。

 今はどうなるかは分からないが、陽は今後大きな課題になりそうだと考える。

「あんま、口にすることではないと思うのだが……」

 決心した陽は、槌納をなんとか鎮めるために真実を伝える。

「俺もお前と同じだ……」

「どういうことだ?」

「だから……お前と同じく未経験だっての!」

 槌納に雷が落ちる。

 表情、雰囲気、オーラといった槌納の全てが一瞬にして変化し、

「なんだなんだ! 言ってくれればいいじゃんかよ! いやいや、信じてたよー。やっぱ相棒だな。こんな霧が晴れたことはないな! スッキリしたー」

(一緒にしないでほしい……。お前みたいなバカと違って、そんな欲にまみれてないんだよ!)

 内心、ムッ、とするが場を収めるために抑える。

「わだかまりも無くなったことだし、飯にしようぜ飯!」

 槌納がやたらと、肩を組もうとしてくるので取り敢えず無抵抗に従う。

 陽は、この数日間で知った。

(こじらせ童貞ってのはもう戻れないんだな……。仲間に危うく殺されかけるなんて最悪だよ。はあ、いつの間にこんな爆弾を抱えてしまっているなんて、辛いな……)

 今後を不安に感じる陽。だが、この一事で非常に前進したのは、間違いない。

 陽は携帯端末を取り出し、それを空に掲げ、その先を透かすように眺めた。

「さてさて……どうしたものか?」

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