ブラウン管テレビ

 とても狭い部屋だった。

 四畳半の中に壁を覆う衣装棚と、カラーボックスに日常雑貨が散乱し、年代物の分厚いブラウン管テレビがあるだけで、中に入れば身動きが取れない。部屋の中央に紫座布団があったが、テレビの方に向けて尻のあたりが凹み、擦り切れていて長年愛用されてきたのだと感傷に浸ってしまう。


 部屋の住民は夜逃げしたらしい。しばらく姿を見ていないと、ちらほら声が上がってきて、大家が警察と鍵を開けたところ、遺体はないものの置き去りにされた部屋があった。小さく運営していた店が退店し、借金を抱えて自堕落になっていったと噂のある男だったから、周辺住民は夜逃げか刺されたかと好き勝手な噂を流し、警察は身元と捜索を形上始め、大家はこの部屋をどう片付けるかと頭を抱えた。


 男が消えた日から、締め切っていたはずの部屋なのに空気に淀みがない。

 例えば数週間でも家を空ける旅行に行ったとしたら、帰ると埃のような衰退を感じさせる空気を感じるだろう。この部屋は1ヶ月は放置されていたが、そういった淀みがまるでなかった。数時間前まで誰かがいたと言ってもおかしくないほど、瞬間が凍ったような潔癖ささえあった。いつでも生活を再開できる準備が整った、ひどく不可思議な部屋だった。


 私がこの部屋に足を踏み入れたのは他でもない、この部屋を真っ新にする業者だからだ。すべてのものを運び出し、床の手入れや壁紙の張替えが必要ならば小業者に願い出る仕事をしている。

 私はためらった。ところどころ痛みは来ているものの、これまでの空き部屋とは明らかに違うこの部屋を、触っていいのかわからなくなったのだ。下手をすれば例の男が毎晩帰ってきているのかもしれないとさえ思う。

 どうしようかと立ちすくんでいると、後ろで大家がどれくらいかかるかと聞いてきた。私は妥当な数字を答え、中を物色することになった。


 特別高価なものはないようだ。古ぼけた服が何十組かと爪切り、歯ブラシ、汚れたグラスとをすべてゴミ袋へ詰めていく。この中に入らなければならないのかと、それぞれが寂しそうな目で伺うが、仕事のスイッチが入った今、無心で片付けを済ませていく。薄っぺらくなった座布団も、袋へ押し込んだ。タンスの運び出しは翌日2人ほど連れて来るしかない。袋に詰め込んだものはすべて、男一人だけのもので家族の匂いはなかった。


 問題はブラウン管だ。薄型液晶の時代に、よく生き残っていたものだと感心する。売れるものではないだろうが動くのかと確認のために、コンセントを刺した。

 仕事という建前だが、幼い頃に使っていたものがあるという好奇心も強い。奇跡的に、電源が入った。大家はまだこの部屋に電気を流しているのだろうか。

 ぶおん、という起動音と共に一瞬フラッシュがあり、じわじわと画面が映し出されてくる。形容しがたい独特な電波の懐かしさに、思わずおぉ、と声が出てしまった。


 おそるおそるチャンネルボタンを押す。反応はなく灰色の画面があるばかりだ。少し三原色がちらついている。地デジに対応していないらしい。それはそうだ、そんなもの知るはずのない時代に出来たものなのだから当たり前だ。

 画面の下に長方形に穴が空いている。ビデオが入るらしい。懐かしい!と覗き込んでしまう。幸い、ブラウン管の横にビデオテープがいくつか積んであった。背のところに白い紙テープを貼り、手書きマジックで題名が書いてある。

 洋画や邦画の名が連なっていて、男は映画好きであったことがよくわかる。クラシック映画が特に多い。試しに何か見てみたくなり、どれにするかじっくり選ぶ。と、聞きなれない題名があった。


『サファイア』


 ほかのテープには自身の知っている有名どころしかない。はてと首を傾げた。私が知らないだけで、サファイヤという名作が存在しているのか。

 自分の無知さと興味深さから、サファイアを手に取りテープの状況を確かめる。左側にテープすべてが巻き上がっていて、頭から見れるようだ。カビが生えている様子もない。私はテレビのビデオ投入口に息を吹きかけた。なんとなく、用心のためだ。


 テープを入れ、手書きの背をぐいっと押した。テープはゆっくりと中に飲まれていく。テレビ画面にゴシック文字で読み込み中と出てくる。文字の荒さに胸がなった。ジジ、とか、ガチャガチャ、とかひとしきり音がして、じっと数秒無音になったあと、再生記号が出て灰色が消えた。


 目の前に、カットされたサファイヤの宝石が映った。世にいうダイヤモンドカットされた、真っ青な石が画面いっぱいに写っている。私は唖然とした。時々画面が歪むものの、瞬きがいっぱいに広がっている。

 画面はゆっくりと角度を変えながらサファイヤの表情を魅せていく。音は一切入っていない。ちらちらと角度の具合で光り方が変わるが、どこか大人しく、けれど華やかであり、伏せ目のまばたきを繰り返すような、上品な石だ。

 私は宝石には疎いが、こんなにも美しい石を見たのは初めてだった。時間が経つのを忘れ、サファイヤの映像を見惚れていた。


 二十分経過したあたりだろうか、突然画面が固まった。一時停止というわけでない、砂嵐に近く画面が乱れサファイヤに赤と緑の縦線が大きく入り、サファイヤ自体も横にずれたのだ。思わず叫んでしまった。必死にボタンを押して、巻き戻し、早送りとテープの状況が変えようとする。

 ウンウン唸りながらテープ自体が動いているのはわかるが、画面は乱れたままだ。私は絶望した。先程まで美しかった宝石が、擦れ剥げ落ち全く動かない。私は画面に取り残されたサファイヤを救うことが出来ない。


 しばらく格闘していたが、テレビに変化が起きた。映像画面が、少しずつ小さくなっていく。

「だめだめだめ」

 私は取り出しボタンを押す。反応はない。惨めな姿のサファイヤがゆっくりと小さく、遠くなっていく。

「だめだめだめだって」

 小さな光はその後プツンと音を立てて、フラッシュと共に真っ暗になった。

 電源はもう入らない。ビデオ投入口を見るけれど、サファイヤという文字が見えるだけで、引っ張り出せそうにもない。


 私は、とんでもないことをやらかしてしまった。テレビの寿命だったのかもしれない。ビデオがもうダメだったのかもしれない。けれどこの瞬間は、ここに住んでいた男が迎えるべきものだった。私は一瞬で青い宝石に心奪われ、一瞬で失望した。私が触ってはいけなかったのだ。


 しばらく呆然と動けなくなったが、不良品となった古臭いブラウン管の撤去と、もうこの時代に必要ないビデオテープは、廃棄となった。


 捨てられたブラウン管と、その中のテープがどうなるかは、私は知らないままでいたかった。

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