遊牧民たちの羊

 大事なことは、見えづらい。

 単純に自分に従えば、自然と大事なことが見えるようになるというのに、それが出来ないでいる。

 できないでいる、と断言する方が、縛りになってしまうのだ。


 そんな頃に、遊牧民がやってきた。羊の耳を下げて、のそのそと独特の衣装で羊を連れてくる。

「今年もよろしくお願いします」

 羊の民は、頭をさげた。私は同じくお辞儀をする。草原にたった1件しかない家だ。羊は満足して草を頬張るだろう。遊牧民は、3人だった。私は体を癒せるよう、草の上に大きな布を引いて、食事を用意していた。

「ありがとうございます」

 頭をまた提げて、彼らはゆっくりお茶に手を伸ばす。

 風が吹いていた。羊がゆっくり動いていく。遊牧民は、ほうと息を吐いた。

「美味しいですね」

「そうなんですか?」

「どこもそうなのですが、ここは緑の味が一層濃い」

 感無量、といったふうだ。私はお茶を飲むが、茶積みして蒸しただけの葉が、そんなに美味しいのだろうか。

「あの、他の人のところはどうなんですか?」

 羊のように垂れた耳がぴくりと動く。

「他所を知りたいのですか?」

「私はここから離れたことがないので、どうなっているのか知りたいんです」

「なるほどぉ...」

 遊牧民はしばらく空を見ていたが、しばらくして立ち上がった。ゆったり、羊に近づいていく。懐から、1本の棒を取り出して、羊の毛に刺した。くるくると周りだし、羊の毛が棒に巻きついて行く。羊は、遊牧民の方を見ていたが、何も言わず、気づけばゴトンと角だけになっていた。真っ赤に光る、羊の角だ。遊牧民は、ふわふわとした羊の毛と、角を持っていくる。

「いつ見ても、面白い毛刈りの方法ですね」

 私が言うと、彼らは笑う。

「これを気に入らない種族もいます。羊の魂はどこへゆくのかと。体を奪う価値が、我々にあるのかと」

 遊牧民は、角を撫でる。この角に、命が詰まっていると知っている。

「さぁ、どうぞ」

「ありがとうございます」

 羊の毛を、千切る。滑らかな手触りで、とても幸福な気持ちになりながら、口へ運ぶと甘みが広がった。

「いつもおいしいですね」

「ワタのようだから、わたあめと呼ぶところもあるんですよ」

「羊なのに」

 笑えば、角が少し動いた。空気に含まれた水蒸気で、また羊に戻っていくのだ。ゆっくり毛玉ができ、足が生えてまた歩いていく。

「茶色いお茶もある」

「えっ」

「チャイという飲み物を作る地域もあります」

「ちゃ、ちゃい?」

 彼らはにっこりと微笑んだ。

「我々が行くところは、好きなところではありますが、必ず心が呼ぶ方へ行きます」

「は、はい」

「知っての通り、私たちは、わたあめのために羊を育てているのではなく、この羊毛で上質な眠りに入る寝具を作るために動いています」

「はい」

「この生き方を嫌がる人もいるでしょう。羊が苦手という人だっている。指を刺されたり、罵声を浴びることもあります」

 風が吹いた。羊が鳴いている。

「それでも、心地いいところにじっと住み着くことを望みません。私たちは、心の在処を求めているのを知っています。素直に、縛られずに、季節をめぐりたいのです」

 日に焼けすぎないよう、布をきちんと巻き付けた肌は、それでも赤茶色をしていた。

「貴方は、私たちのような生き方を望みますか」

「...私は、」

 大事なことは目に見えづらいものだ。私と彼らの違いは自由だ。身体ではなく、精神の自由。欲を満たす方法を、自分たちが望むことを、彼らは知っていた。私はまだ知らない。

「...とりあえず、クッキーを食べます」

「それがいい」

 彼らは笑った。

 羊飼いたちの、夏が始まる。

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