雨粒に牡丹。崩壊する塔。

「塔だね」

 老婆は、私にそう言った。私は、緊張で背を伸ばしたまま、はぁ、と頷いた。


 確かに、紫の布の上に、塔のカードが、正位置に置いてあった。中央に塔、カップの7、運命の輪の逆位置が並んでいる。

 何となく、知っていた。これはあまり良くないカードだ。


「妄想してて、破綻して、回り出すのかね。でも、停滞して動きにくい」


 老婆はそう言って、カードを片付け始める。私は別に、慰めの言葉はいらなかったが、あまりにもはっきりと言われたぶん、はぁ、としか言えなかった。


 喫茶店の片隅に立ち寄る人は、常連ばかりらしい。世間話がほとんどだが、私のようにタロット占いをしてもらう人も、時々いるようだ。


 老婆はウィスキーグラスを傾けた。丸い氷が、コロンと動く。

「まぁ、そんなとこかね」

「ありがとう、ございます」

 私は2枚札を置いて、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。

 塔が、脳裏に焼き付いている。


 ***


「会いたいんだけど」

 私は電話越しの声に、頷いた。夜の八時に、いつもの場所だ。ポストの前で、腕を組んで曇り空を見上げる。

 ふらりと彼はやってくる。何事もないように、2人で歩き出して、ふらりと道にそれた。


 噛みつかれて、声を上げる。

 彼との行為は、捕食に近かった。憂さ晴らし、とまでは行かないが、私の全てを食い尽くす感覚に近い。私はひたすらに、彼にあるもの全てを渡す。指はおそらく、彼に食べられていた。


 彼は、タバコを吸った後に、ウィスキーを飲んだ。私は塔のカードを思いだす。私は黙っていた。りんごの皮を、ピーラーで剥いているような気持ちだった。

 彼は私を呼ぶだけだ。ふらりと消えた後に、私も服を着る。


 別に、電話を取らなくてもいいのに、と私に言う。けれど、何度も答え続けたら、是が普通になっていた。そんなものか、と委ねてみていた。満足とも、不満ともない。

 明日、はありえないのだが、またかかってきたら、私は彼に答えるだろう。


 ***


 バベルの塔。

 私はじっくりとカードを見つめる。雷に打たれて、崩壊する塔は、破滅を表していた。指に力が入る。

 私はコーヒーを飲む。どう足掻いても、塔からは逃れられない。いやでも、このままならば、いやけれど。


 離れ難い、のだ。別に固執しているわけではないが、無くせと言われて、できることでもない。

 喉元に食いつかれて、息も絶え絶えの鹿でいい。私は彼に食べられていて、満足なのだ。


 私は、そっと立ち上がり、塔に背を向けた。


 ***


 喫茶店の窓の外に、牡丹の花が、見事に咲いていた。雨に打たれた花弁は、キラキラと輝いている。

「素敵な牡丹ですね」

「恥じらいだよ」

 老婆は言う。私は、少し背筋が凍った。


 誰しも、何らかの形で、経験するのではないか。そう思いながら、暮らしてきた。それでいいと、思うようになって、どれくらい経っただろう。


 カランと、ドアの音がする。何となく見れば、傘を畳む身なりの綺麗な男性だった。一瞬目が合う。狐のような、目をしていた。

 パラパラと牡丹に水滴が落ちている。


 私にとっては、有意義な時間だ。身に降りかかるものがなければ、ただただコマ遊びのような、贅沢な時間だった。ぬるま湯から、あがる必要を感じなかった。


 男性はにっこりと微笑む。

 どくりと心臓がなった。どうしたのかと、挙動不審になる。彼は微笑んで言った。

「素敵な、牡丹ですね」


 私は真っ赤になっていた。

 ただ、共感しただけなのに、心臓が鳴り止まない。

 どうしたものか。私は、不意にゼロ距離になった気分に陥いる。


 食い尽くされない。ただ、存在に触るだけで、共感だけで成り立つ。そんな気がしたのだ。輪郭をなぞっていくだけで、笑える気がした。


 そして、気づく。

 彼の薬指には、指輪が嵌っていた。

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