紅茶を飲むとき

 星の見えないほど明るい月夜だった。

 僕は眠る前に飲む紅茶を用意していた。本当は医師から止められているが、その夜はとても綺麗な月夜だったから、丁寧に茶葉を蒸してアールグレイを待っていた。ずっと好きだったやわらかい曲を、何度も繰り返し流しては口ずさむ。どうしてクッキーを切らしていたのだろう。これも医師から止められていたからなのだが、チョコレートクッキーの食べたい夜だ。真ん丸な月が、クッキーになればいいのになんて思う。


 茶葉を引き上げ、匂いを確かめる。あぁ懐かしい。僕は日頃これだけ眠るのに、今日は眠れないだろう。色濃い夜になる。一杯目を一番濃く出し、濃厚なベルガモットの香りを楽しむ。ベッドが遠くで手招きしているが見えない。渋く感じる茶色い液体が、喉を通って空洞の中へ溜まっていく。あぁ幸せだ。機嫌よく指を振る。もう一口飲んで、今度は薄く出すためお湯を沸かし直す。もし医者に内緒で次の紅茶を買うならどうしようか。例えばフレーバーティー。アールグレイもそうなのだが、と一人で頷く。ベリー系がいいだろう。花畑でラズベリーにキスをするのだ。


 何度も飲み込み、最後の色の着いたお湯を飲んだ時に、事件は起きた。どうしたことか。月が落ちて来たのだ。電灯じゃない。空にあった月が、近くに落ちていた。僕は、夢を見始めたのだと思ったが、試しに表に出て、月の方へ近づいてみる。月はみるみる大きく、青白く光っていた。

「雲の海?」

 よくわからないが、近寄ってみると、テレビで聞いていたのと全く違って、つるりと真ん丸なままでいた。触ればひんやりとしたままだ。あぁ、紅茶のおかげだ。僕は、少しだけ、月を押してみた。月は軽く動き出す。ずずず、と音はするけれど、小学校の大玉転がしに近い。気分よく、コロコロと転がして、見晴らしのいい丘まで持ってきた。


 月が点滅し始める。信号を送っている。灯台みたいだ。僕は出涸らしでもいい、紅茶がもう一度飲みたくなった。僕が欲しいのは、やっぱり紅茶だった。月が空に戻るまで、半日かかった。僕は寒さに耐えかねて、家に戻り様子を見ていた。堪らずもういっぱい紅茶を飲むのだ。月はじっくり光っていた。落ちてきた分、空は暗くなり、春の星空が海のように広がっている。おうし座のスバルが綺麗に見える。お湯を飲みながら、僕はじっと月を見ていた。


 だんだんと、月が卵に見えてきた。明るくゆっくり光る丸いものが、なんのために落ちてきたのか、あまり回らない頭で考えてみたら、新たな月を生み出そうとしているのかもしれない。綺麗な月が、新たな月を産むなんて、なんて美しい出来事だ。窓から離れられない。今どれだけの人がこの月を見ているだろう。きっと明日には、だから紅茶を飲むなと怒られるだろうが、月夜なのだから仕方ない。結局月は生まなかった。


 何かを知らせる月に、僕はぼんやり獅子座生まれの友人を思い出す。彼女はこの月に似た、点滅するような美しさを持っている。そして、何かしら訴えかけるのだ。彼女の発信するものは、いつも綺麗に光っていた。天体では太陽だが、彼女は月がよく似合っていた。僕ははっと気づく。もしかしたら、どこかのおとぎ話のように、あの月を割れば彼女が出てくるのではないか。でもそんなことをしたら国際問題だ。月が天に昇ることさえ、どこか緊迫感があるというのに、割ったりしたら僕は二度と紅茶を飲めない。


 僕は獅子座の彼女が教えてくれた本を取り出す。推理小説だったが、どうもしっくりこない。点滅する月と同じように、読み取れはしなかった。

 青白い光はだんだんと弱くなってくる。新月に近づいているんだ、と勝手に思う。僕が一瞬欲しがった夜のために、月は努力をしてくれたのだと、3杯目の紅茶で乾杯する。

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