かわいそうなゲッカビジン

 安達カオルが、一番不得手な標本作りは、ホルマリン漬けだった。

 高校時代から、安達は標本作りの頭角を表し、理科教師にも重宝され、様々な標本を作ってきた。剥製から骨格標本まで、幅が広い。だが、理科室に多く並ぶホルマリン漬けだけは、気が進まなかった。

 封をしていても立ち上がる匂い、吊るされていたとしても、力なくふやけている物体。そこにあるのは、おそらく正しい形の標本なのだけれど、安達は好きにはなれなかった。


 休み時間さえあれば、標本作りに徹した安達は、ミス標本と呼ばれていた。安達自身、それを素直に受け止めることは出来た。安達の青春は、標本でできており、セーラー服の肩には、いつも何かしらの形跡が残っていた。植物の葉であったり、封入標本の粉であったり、様々な形跡だ。


 おかげで友達もいない。彼女の友達は、標本対象なのだから。

 彼女はその後、昆虫専門の標本屋になる。彼女の運命であり、間違えのない道だ。彼女の未来は、幸福で溢れている。


 ホルマリン漬けの話にしよう。

 彼女が一番下手くそだったのは、蛇のホルマリン漬けだった。針金に首を引っ掛け、ゆっくり液体につけていく。目と目が合う。まだこの液体に浸かりたくない、と蛇は訴える。私もそうだけど、君にはこの道しかないんだ、と安達は答える。そしてゆっくり頭まで浸って、厳重に封をした時の、蛇の情けない顔を見れば、あぁ私はこの生き物を、もう一度死へ落としたのだ、と悲しみにくれた。不得手中の不得手だ。安達が行う標本作りは、死んだものを生き返らせるような、標本作りなのだから。


 その晩、ゲッカビジンが咲いた。白い蕾は、今か今かと開くタイミングを図っていたが、とうとう開き切った。月はなかったが、真っ白な艶のある、瑞々しい花びらは、本物の美人であった。安達は飽くことなく、花を眺め続けた。そしていかに美しい標本にして見せるか、構想を練っていた。

 ドライフラワーはゲッカビジンを殺す。封入標本が美しく映えるだろうが、残念ながらこの大輪を入れるほどの材料がない。嫌な予感が過ぎる。花は煌々と咲き続けている。安達はひたすら悩んだ。


 次の日、安達は手袋と、手頃な封入瓶を用意していた。摘んだゲッカビジンは、死に急いでいる。時間との戦いだ。安達はホルマリン漬けを始めた。

 花に、ホルマリン漬けは似合わない。まず花の香りが死んでしまう。安達はコーティングに、ヘアスプレーをかける。艶は死にかけていた。ゆっくり封入瓶へ、ゲッカビジンを置いた。彼女の戸惑いを強く感じたが、エゴでも安達はこの花を残しておきたかった。


 ホルマリンをゆっくり流し込む。花が踊る。その度に手を止め、花の形を整える。手が荒れることも気にせず、かわいそうなゲッカビジンのために、気泡を払い除け、少しでも長生きしてもらうために、ホルマリンを流し込む。


 かくして、ゲッカビジンのホルマリン漬けが完成した。

 安達は崩れ落ちた。かつて、これほど残酷な標本を、作ったことがなかったのだ。萎れることはないにしても、あの花の美しさを、ホルマリンという状態で残してしまったのが悔しかった。もっと美しく、香り高く、天下の花として咲き誇る道があったのではないか。それでも、花びらの先は日光にあたり、きらりと光ってみせた。


 この標本を、学校には提出しなかった。日に日に色あせて、緑色に近づいてくるホルマリンとゲッカビジンを手元に置いて、度々観察を行う。1枚ずつ、花びらを数え、ホルマリンを吸い込んだ白さが、失われているのを確かめる。私はもう、ホルマリン漬けはしない、と安達は強く思った。

 それが、安達の1歩だった。

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