最後の夜に
洸の特訓兼私のリハビリ兼お泊り会となったこの3日間も、気づいてみれば明日で最後。
洸のほうはだいぶ良くなったと思う。私のほうは……顔に水をつけられてもあまり怖くない程度にはなった。2年前に比べたら大きな進歩だ。
「はい。ゆっくり息吐いてー」
「ふっ、ふぅー……っあいたたたっ!?深月さん、無理!これ以上は無理です!」
「んっ。りょーかい。じゃ、ギリギリ痛くなさそうなこの状態でしばらく我慢して」
「は、はーい……」
両足を前にピンと伸ばし、長座体前屈のポーズ。コの字の姿勢で時折うめき声をあげる洸。足の指に両手が届くにはまだまだ遠い。
お風呂から出たばかりなので、後ろからぐっと背中を押す私の手のひらにはほのかな温かさが、鼻先には石鹸の香りが伝わってくる。洸の肩甲骨私の両手が当たっているので髪は岩にせき止められた川のようにぐにゃりと右側にうねっている。右腕で洸の髪の毛がさらさらと擦れてちょっとくすぐったい。
髪の毛が右側に持っていかれたことでうなじがくっきりと見えている。世の男性の中には女性のこの部分が色っぽくて好きという人がいるらしい。鳥羽さんいわくSランク美少女のそれをこうやって直視しているわけだけど、私にはその良さは理解できそうにない。だって、ただの肌だよ。それを言えば胸も尻もそうなんだけど。
それにしても今日も今日とてなんかいろいろあった。
といっても、そのいろいろは鳥羽さんとの遭遇によるものが9割を占めている。
隣のクラスで見た目ギャルっぽいけど、中身はオタクっぽい女の子。
私は嫌いじゃないけど、あのノリは苦手かな……。洸は最初こそ敵対心むき出しだったけど、あの話をされてからは態度もかなり軟化して、最後は連絡先も交換していた。
あの話とはもちろん、鳥羽さんの7つ歳の離れたお姉さんが洸の大好きな漫画の作者であること。
その漫画家さんの名前は『
そんな門外不出の大ネタを初対面の同級生に言っちゃうことの是非はまぁ家族なので問わないとして、話した理由が『洸がその漫画が好きでそんな洸と仲良くなりたいから』というのは少し変だ。
だったら、漫画の話題にになったとき、『流行りものを読む』なんてちょっと棘のあるような言い方なんてしないで、自分もその漫画が好きだといえば距離は縮められたはず。
それを言われてインパクトがすごかったのは確かだけど、家族の秘密をバラすことのリスクと釣り合うかと言われたら微妙な気がする。
「あのぉ……まだこの姿勢続けるんですか?」
「あっ、ごめん」
つい考え込んでしまっていた。洸の背後から退いて近くに置いてあったクッションの上に腰掛ける。
理由がどうであれ鳥羽さんが話しかけてくれたことは良かったことだし、明るすぎる性格は私たちとは違うけれど、それを押し付けてくる感じじゃないから仲良くするのも嫌ではない。私もちゃんと連絡先を交換している。
「あっ。鳥羽さんから『お姉ちゃんに久我崎さんのこと話したら、いつも熱い想いがこもったファンレターくれる子ね、って言ってたよ』だってさ」
「普通そういう報告をグループチャットでしますか……」
おっと、顔が赤くなってる。ちゃんと覚えてもらっていて嬉しいんだろうなぁ。
「それにしても、サインもらえるかもって言われたのに断るのはもったいなかったんじゃない?大好きなんでしょ」
洸の部屋に帰ってきた後、ちょいと探ったらアニメのブルーレイやイラスト集、キーホルダーなどのグッズ。漫画も通常のものと特典がついた限定版をそれぞれ購入していた。貯めこんだお年玉を惜しげもなく使ったらしい。連載前の読み切り版が収録された雑誌もなぜか複数冊買っていることから、漫画に疎い私でも大ファンであることはよくわかる。
「それはもちろん欲しいですよ。何回かプレゼントキャンペーンに応募しましたけど全部外れました。ネットオークションにあったものに手を出しそうになったこともあります」
「じゃあ、どうして?知り合いから頼んでもらうのは悪いことじゃないと思うよ」
「私は自分が決めたやり方で手に入れたいんです。鳥羽さんにお願いするのはそのやり方に含まれなかった。それだけです」
「たしかに、手に入れた!って実感は薄くなっちゃいそうだね」
「サインという結果を手に入れるほうが大切、という考え方もあります。むしろ、今回の場合はそちらの方が普通かもしれません。でも、私は周りくどくても、余計な手順だとしても、これだと思ったやり方で進みたい」
信念があるといえば聞こえはいいけど、それは不器用で、困難が多くて、報われないこともきっとある、他人から見れば実に面倒くさそうな生き方。
そんな小さいことにこだわらなくたっていいじゃないか。良い結果が手に入ればそれで満足できる。貫いてダメだったらどうするんだ。
私は自分の行動理念なんてそんなに深く考えたことはないから、洸の考え方は面倒くさい。
「私は好きだよ。洸の考え方」
でも、それはとても洸らしいと思う。
まだ出会って数か月。だいぶ気の知れた仲にはなれたつもりだけど、いまだに読めないところが多い。時々もったいぶったり隠したりする。
私はまだ洸のことをよく知らない。
この人はそんな考え方が合うような人だから。それで前に進んでいける人だから。それで自分の欲しいものを掴めそうな人だから。
私は素直に同意できた。それを貫いてほしいと思った。
「あっ、はい……」
「なに?そのすごく気の抜けた返事。こっちは良いと思ったから同意してあげたんだけど」
「面倒くさいとか言われると思ったので」
「それもすごくそう思った」
「ですよね。……というより、”してあげた”って、上から目線ですか」
「だって非効率だし面倒くさい。そんな考えのままだと夏休みの練習ハードなメニューで参っちゃうかもね」
「うえぇ……」
「だからさ。一緒に頑張ろう」
私と洸は目指している方向が同じだから。
だったら、一人より二人で進んだほうがいろいろと良い。
「……わかりました。せいぜい頑張らせていただきます」
「なんかさ。さっきからやけに捻くれてない?」
「元からですよ」
「うわ、自分で言っちゃったよ。痛いってそれ」
「それも自覚済みです」
急な不貞腐れっぷりもちょっとしつこくて、苦笑いもさすがに薄れてしまう。ふぅとひとつ溜息をして、拗ねた素振りで私から少し顔を反らしている洸をじっと見る。
クラスでは他の人と全然馴染まなくて、いつも一人でいる女の子。
でも、漫画は大好きで、好きすぎて拗らせているところもある。
クールそうに見えてよくムキになるし、人のことからかったり挑発したりする。
ここまでは藤堂さんや押切さん、今日出会った鳥羽さんも知っている。
でも、この子どもっぽく拗ねる顔も、不安な自分の手を握ってくれる優しさも、朝早く起きるのが苦手なことも、学校の中では私しか知らないんだろう。
だからどうしたって話なんだけど。
それをちょっと得意げに感じてしまう程度には、私は洸との友情を楽しんでいる。
「じゃあ、頑張るって言ったからには、頑張ってもらおうかな」
「これ以上、何をさせるつもりですか……」
「全部うまくいったらやってみたことがあってさ。そのために必要なこと」
私たちの第一歩のために、ね。
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