それぞれの理由

「ごめんね。こんな話しちゃって」


 一頻り話し続けた磯部先生は私たちの方を向いて申し訳なさそうに謝った。


「いや、私が強引に話させたようなものなんで……」

「もう、朱鷺乃さんがそんな申し訳なさそうな顔しないで。たしかにあの時は怖かったし辛かったけど、今は……ううん、あの時も悔しいっていう気持ちが強かったから」

「悔しい……?」

「そう。部長はあの頃辛かったんだと思うの。ケガをして最後の大会に出られなくなって。それでだんだんと私が気づかない間に変わっていってしまった。それに気づけなかったことが本当に悔しかった。気づいてあげたかった。なんとかしてあげたかった。私は卒業するまでずっと後悔して、そして、こうして先生になっちゃいましたというわけ」

「水泳部の顧問になったのも?」

「産休が明けて春に学校に戻ってきたら香原さんが訪ねてきてね。水泳部を復活させたいけどやってくれそうな顧問が見つからないから私になってほしい、って言われたの。もちろん私ももう一度水泳部をこの学校に作りたかったから、なんとか協力しようと思ったわ。前は他のいくつかの部活で副顧問をしていたから学年主任の藤尾先生に相談して、部員がちゃんと集まったら顧問になるということにしたの」

「香原先輩は部活が休部になった理由は知ってたんですか?」

「ちゃんとは聞いてないけど、私に顧問を頼みに来たっていうことは、たぶん知っているんじゃないかしら」


 私もそんな気がした。そういえば、香原先輩はなんで休部中の水泳部を復活させようとしたんだろう。うーん……。でも、聞いても素直に教えてくれるのかな。とりあえず、今は重要なことでもないし、いいか。


「じゃあ、あの書き込みのことは半分本当で半分嘘ってことですか?」

「そうなるわね。私が部長にちょっと乱暴されたというのが、をされたと勘違いされたのかも。それにしても、『私が原因』ってそれじゃあ私が部長と変なことしたみたいな捉え方になるわよね。はぁぁ……、今朝クラスの雰囲気がすこーし違っていたのはこれが原因だったのね」


 どうやら先生もちゃんと気づいていたんだ。さすがというか、意外というか。


「でも、10年前の小さな事件が今になって噂されちゃうなんてね。しかも、このタイミングに」


 そう。問題はそこにある。

 名前こそ伏せられているものの、この学校にいる教師の年齢から考えればあれが磯部先生のことを指しているのはわかってしまう。しかも、10年前とはいえ水泳部のイメージダウンに繋がりそうな内容の噂。

 最近話題になっているから便乗したのか。それとも悪意を持って投稿したのか。

 そして、誰がやったのか。


「先生までみんなから影口や変な噂話をされるなんて……嫌です……」


 顔を俯かせた押切さんは両手でスカートの裾を握りしめ、絞り出すように言った。

 いつも緩やかに垂れている目には力が籠っていて、じっと地面を睨んでいた。同時に、泣くことを堪えているようにも見えた。


「心配しないで、押切さん。先生は大丈夫よ。こんなちょこっと書かれたくらいならすぐにみんな忘れちゃうから。いつも通りにしていれば大丈夫!」


 先生が両手を胸の前に持ってきてガッツポーズをする。

 不安はもちろん残るけど、書き込み自体に先生の名前が書かれているわけでもないし、大事にもなっていないので今は静観するしかない。わざわざこっちから否定して火種を作るような真似はできない。


「みんなにテスト前にこんな話をしちゃって余計な心配かけちゃって本当にごめんなさい。でも、いずれどこかで知ってしまうかもしれない……ううん。水泳部を再開させたみんなにはちゃんと話すべきだと思ったの。藤堂さんにも今のことが落ち着いたらちゃんと話すつもり」


 先生はベンチから立ち上がると順番に私たちの前に立って両手を握った。その手と穏やかな笑顔は優しくて、力強く感じた。

 磯部先生はとても大人で、そして、私たちの先生だった。



―――――



 そのあと、私たちは下校して、押切さんとは鶴門の駅で別れた。

 家と逆方向の電車に乗って驚かれたので、そういえばと思い私が洸の家に泊まっていることを話すと、押切さんはさらに驚いたあとに「いいなぁ……」と言葉を漏らした。

 押切さんもそういう友達っぽいことをしたいクチだと察した私は「今度はみんなで合宿かな?」と隣の洸にそれとなく提案したら、「押切さんは良いですけど、他二人はNGなのでやるなら深月さんの家にしてください」と断られた。

 いや、私の家、5人とか絶対無理だからね?



―――――


 

 その夜。洸の部屋にて。

 ベッドの上でうつ伏せになった洸は左手だけをベッドからはみ出させて、クロールの手のかき方を何度も繰り返している。うん。かなり良くなってきた。今日もみっちり練習したけど、それにもだいぶついてこれるようになっている。その兆候は前から少しずつ見られてきたけど、なんというか泊まりに来てからは気合が入っている感じ。

 洸が藤堂さんに勝負を挑んだ真意はいまだにわからない。

 十中八九、藤堂さんに部活を辞めさせないってことだとは思うけど、それにしてはやり方がなんかまどろっこしい気がする。


「ねぇ。ちょっと寒くない?」

「そうですか?私はこれくらいがちょうどいいんですけど」


 エアコンの温度が低くて少し肌寒い。上に羽織れるものも持ってきてない。


「せめて寝るときもう一枚上にかけたいんだけど、何かない?」

「それだったら、そこの壁の収納の中にありますよ」


 私は洸に示された壁側の引き戸に手をかける。


「あっ、入っているのはそっちじゃなくて右側のほうで……」

「ん……?これ……」


 床から天井くらいの高さまである押し入れみたいな収納スペースを大量の漫画本がびっしりと埋め尽くしていた。二百は軽く超えている。よく見ると漫画の置かれた棚は可動式になっていて、奥に手前と同じ数の本が並んでいた。つまり倍の四百だ。圧巻の一言に尽きる。


「なにこれ。本屋でもやるの?」

「さすがにそれは言い過ぎですよ。これくらい普通です」

「私、漫画は全然読んだことないから基準はわからないけどさ……」


 正直、こういうのは興味なさそうだと思ってた。


「意外でした?」

「まぁ、意外といえば意外かな」

「純粋に好きなもありますけど、いじめられて友達がいなくて、自分に自信がない引きこもりにはこうやって漫画の中の憧れの世界に没頭したくなるもんなんです」

「そこはさすがに一括りにするのはどうかと思うけど、なんか気持ちはわかる気がする」


 私も小さいころはお母さんに読んでもらった絵本の登場人物に憧れて、実際になってみたいと夢見たこともあった。幼稚園の演劇でシンデレラをやりたくて、でもじゃんけんに負けて出来なかったときは家でベソかいてたっけ。

 ……と、そこであることを思った。


「藤堂さんに勝負を挑んだのって漫画の影響だったりする……?」

「うぐっ……」


 もしやと思ったけど、当たりか。


「ちょっと面白そうかなと思って軽く挑発したら見事に乗ってくれたので、私としてはうれしさと戸惑いが半々でしたね」

「だいぶ喧嘩売ってたと思うけど。まぁ、いいんじゃない。私も二人にはぴったりなやり方な気がしてきた」


 そういえば、似たようにそういうのの影響を受けてそうな人がいたなぁ、とたまにやり取りしているあの子を思い出す。たしか今度の休みが関東大会だ。きっと必要ないと思うけど、一言くらいは応援してあげようか。


「ちなみに読みます?人気作からマイナーどこまでいろいろありますよ」

「やめとく。というかテスト前に勧めてくるな」


 それに、今はまだやらなきゃいけないことがたくさんあるから。

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