裸のお付き合い

 立ち込める湯気。体の中がじっくりと温まっていく感覚。それと一緒に頭が少しだけぼーっとする。のぼせているんじゃなくてリラックスできているんだなっていう証拠。

 くの字に曲げた足の指先が時折こつんと何かにぶつかる。私のと同じ形状をした2本のそれを目線でたどっていくと途中で私よりも気持ちぷっくり膨らんで、2つが1つになったあたりで今度は目線を上げていく。そこには思わず見ってしまいそうになる滑らかな凹凸で形作られた美術品……は過大評価しすぎかな。


「なに人の体をエロい目で見てるんですか?」

「そんな目で見てないから!」

「目が完全に惚けてましたよ」

「それはお湯が熱くて……」

「あぁ……。温度下げますね。うちの家族はみんな熱いのが好みなもので」


 久我崎さんが上半身をぐるりと捻って壁の操作パネルのボタンを押す。髪は後頭部でまとめられていてうなじがはっきり見える。泳いでいるときもその部分は見えているんだけれど、こういう場面だと妙に色っぽく感じてしまう。

 なんて久我崎さんのツッコミを否定できない自分の思考でさらに顔が熱くなっていく。思春期男子か、私は。

 でも、仕方ないと言わせてほしい。モデル体型とまではいかなくてもここまで女性的な魅力を存分に発揮しているのだから。そう。これは尊敬の眼差し。自分に無いものを持っていれば誰しもそれに憧れる。

 視線を自分の真下に運んでしまいそうになったので必死に反抗する。銀色のシャワーノズルが平らなタイル張りの壁にこうべを垂れていた。


「一緒に入ること、てっきりあれこれ言い訳して断るものだと思ってました」

「たしかに歴然とした差を見せつけられる恐怖感はあったけど、嫌ってほどじゃなかったから」

「なんでわざわざ余計なこと言って自爆してるんですか。もしかして本当にのぼせてます?」

「そうかもね……」


 久我崎さんには私の過去のあれこれをほとんど洗いざらい話している。だから、私がこの場所に来ることに今でも不安を抱いていることを知っている。そのうえで一緒に入るという提案したのは私を試したのか、それとも……。


「大丈夫。普通そうに見えますよ」

「誰かと一緒ならこうやって会話して気を紛らわせられるからね」


 一人だとそれこそ余計なことを考えてしまって、下を向いたら頭の上にずんと重石が乗っかってお湯の中に引き込まれてしまいそうで、怖い。


「でも、水の中では一人です。隣で誰かが泳いでいてもそこであなたはひとりぼっちなんです。泳ぐことだけ考えていればいいんですけど。不思議ですよね。そういう時に限ってどうでもいいことが過るんです」

「わかるよ。そういうことたまにある」

「今、あなたは水の上にいます。それでも毎日を楽しむことはできます。でも、いつかは元の世界に戻らないといけない」

「戻るか……そんなこと言われても、ね」


 海の上にいるあの人に恋い焦がれた人魚姫は大切なものを失って地上へとやってきた。そして、彼女が望む形で再び海に戻ることはなかった。幸せな結末を迎えるものもあるけど、あの話はたしかそんな終わり方。

 私は望んで海の上にやってきたわけじゃない。でも、一度上がってしまったら簡単には戻れないんだ。


「いいですか。私はと言ったんです」


 目の前にほんのり赤く染まった細い人差し指が突き出される。


「朱鷺乃さんは進んでいます。でも、まだ歩みが全然足りません。あなたはこんなところでのんびりしていてはいけない。一刻も早く行かないといけない場所があるはずです」


 それは2年前まで目の前にあって、1年前にずっと遠くへ行ってしまった50m先の水平線を目指す青い舞台。


「朱鷺乃さんは戻れないんですか?」


 戻りたいかどうかじゃなくて、戻れるかどうか。久我崎さんは私に願望の有無を聞いているんじゃない。可能性の有無を聞いている。質問の内容が鬼だ。

 こっちだって好きでこうなっているわけじゃない。なんとかしたい。変わりたい。

 でも、怖い。

 なのに、出来るか出来ないかを聞いてくるなんて。もし、これで私が「戻れない」と答えたら、久我崎さんはなんて言うんだろう。そんな弱気な私に喝を入れてくれるのか。それでもなんとか立ち直らせようと勇気づけてくれるのか。無理やり手を引っ張ってくれるのか。


 ……きっと、そんなことはない。


 久我崎さんは「あっ、そうですか。わかりました」って言って、話をそのまま終わらせて、しばらくぼーっと湯につかった後、何事もなかったかのようにお風呂から出る。

 そこから先の未来が真っ白な湯気の中におぼろげに浮かぶ。

 大会が近くなって「教えるのに専念するね」と私はプールサイドから4人の泳ぐ姿を見下ろしている、そんな光景。

 みんながシャワーを浴びて水着から制服に着替えている間、一人外で待っている。お疲れって声をかけて先生にプールの鍵を返しに行く。汗で濡れた髪と念のため持ってきたけど今日も使わなかった水着が入った袋が小さく揺れる。校門で待っているみんなに合流して、香原先輩に「もっとタイム縮められるように頑張ってくださいね」と発破をかけて困らせつつ”明日も頑張ろう”なんて空気をつくって帰る。そんな未来。


「朱鷺乃さん?」

「……きる」

「声、小さいですよ」

「……私はできるっ!戻ってみせる!ていうかこのままなんて無理!!嫌だ。変わりたい。なんとかしたい。泳ぎたい!全力で泳ぎたい!みんなと一緒に泳ぎたい!!」


 だって、大好きなんだ。

 小さい頃からずっと泳いでたんだ。

 仲良しの友達がいなくたって辛くないくらい楽しかったんだ。


 あの日に失った。

 だけど、取り戻せるきっかけが見つかった。

 そして、取り戻すチャンスが今やってきた。


「だから協力してよ。私だっていろいろ協力してあげているんだから。それくらい、いいでしょ?」

「仕方ないですねぇ……」


 私を久我崎さんはしたり顔だ。わかってる。これは久我崎さんに誘導させられたんだ。自分の意思で言わせるために。


「そんな勢いよく立ち上がってまで宣言されたら断りづらいですし。あっ、見えてますよ。全部」

「んなっ……!?」


 そこでようやく全裸なのは当然として、自分がどの部分も隠さずに堂々と直立していることを認識した。避難訓練で警報がなって咄嗟に机の下に身を隠すように、私は瞬時に小さい体をさらに小さくして浴槽の中へと戻った。ざばんと入浴剤で黄緑に染まったお湯が波打って淵の外へ飛び出していった。


「恥ずかしくて死にたい……」

「何を今さら。お互い人に言えなくて隠したいところを見せあった仲じゃないですか」

「だいたい合ってるけど、その言い回しはやめてよ」

「ということは、そういう仲だと認めているわけですね?」

「まぁ……そうといえばそうだけど」

「私はそうだと思ってますよ」

「あぁ、もう……」


 調子が狂う。余計なことをしてしまう。なんか私らしくない。

 自分の知らない自分が出てきてしまう。

 だけど、いやな気分じゃない。


 友達なんて別にいなくてもいい。

 でも、友達がいるというのはやっぱりいいものだった。



―――――



「じゃあ、早速最初の特訓といきましょうか」

「特訓って、これ?」


 私だけ湯舟から上がっていて、目の前にはお湯が入った洗面器。

 私が水に潜れるようになる練習の第一歩。


「小さいころやりませんでした?水に顔をつける練習として」

「たしかにあったけど」

「さぁ、やってみましょう。10秒間顔をつけるだけ」

「あぁ……うん……」

「……もしかして、ビビってます?」

「…………」

「もしもーし?」

「……ちょっとだけ」

「予想はしていましたが、だいぶ重症ですね。まぁ、水の中で気を失うレベルだから当然ですか」


 ぱっと水を顔につけるくらいなら今は問題ない。でも10秒なんて長さは久しぶりだ。


「3秒にします?」

「いや、10秒で大丈夫!」


 洗面器の縁に両手をつける。小さな湖の中でいくつもの波紋が小刻みに生まれては消えていく。


「手、震えてますよ。今日はやめておきます?」

「……大丈夫」


 心臓がばくばくと音を立ててうるさい。お湯に写る私の顔はだいぶ険しそう。

 ここで止めたら、せっかく固めた決心がまた揺らいでしまう。


 そのとき、手の甲に何かが当たる。さっき私を指さした誰かさんの人差し指。


「右手を離して。手のひらをこっちに向けてください」


 言われるがままに洗面器をぎゅっと握った右手のひらを上に向ける。

 そこに私より気持ち大きい左手が覆いかぶさって五本の指が私の指をぎゅっと握った。


「少しは落ち着きました?」

「弱くてごめんね」

「いいですよ。弱いうちにたくさん恩を売っておきますから」


 それは、また私が強くなれるって信じてくれているってことだよね?


 私はぱしゃんと顔だけ洗面器の上に覆いかぶさった。

 考えたくないのに、あれこれと真っ暗な頭の中にいやな思い出が湧き出てくる。ただ顔をお湯につけるだけのことなのに。たった10秒息を我慢するだけなのに。怖くて、苦しくて、不安になって、辛くなる。

 気を抜いてしまえばスイッチが入ってしまいそうで、そうなったらまた混乱してしまう。見えない力がどこからか力を込めていて、私はそれに全力で抵抗する。

 息は吐きださずにぴたりと止める。今は力を抜いちゃいけない。


 じゅーう、で聞こえていた声が止んで、右手が軽く引っ張られた感じがした。

 私は顔を上げて、それと同時に開放された右手も使って顔の水滴を払い落とす。


「よくできました」


 ”よくできた”なんて過大評価だと思ったけど、かけられたその言葉はむず痒いくらいあたたかかった。

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