雨雲から抜けたくて

 放課後の図書室。

 6月の忘れ物を届けるみたいに朝から絶え間なく降り続ける雨が窓にあたってぱちぱちと音をたてる。授業中や休み時間の教室では気づかないような小さな音も、本を捲る音とシャープペンシルの芯でノートを擦る音、それと時折聞こえるひそひそ声で構成された図書室だと、そんな小さな雨音だって立派なBGMになる。


「ここの解き方は合ってますか……?」

「そうそう。それで大丈夫」

「こういう風にするともう少しやりやすくなりますよ」

「あっ、そうですね……!」


 そのひそひそ声を担当しているのが私たち。6人座りの机で横に並ぶように3人。押切さんを真ん中にして両脇には私と久我崎さん。

 昨日新城高校に行く用事が入ってしまったためにやりそびれてしまった勉強会をやろうと、放課後すぐに押切さんに提案して、ついでにもう一人の戦力も呼び出した。この後の予定を考えるとそのほうが都合も良かったので。


 一応、藤堂さんも個人宛に『図書室でみんなと勉強会してる』と送ったけれど、『私はいい』とだけ返事があった。

 今まで既読スルーを続けていた藤堂さんが返事をするようになったのは押切さんが今朝廊下で藤堂さんと鉢合わせできたからだ。

 藤堂さんが部活を辞めるかもしれない話は昨日の夜、ここにいる二人にも伝えていた。久我崎さんのあの決闘宣言もきっとそれが原因だろう。

 そして、押切さんのほうも必死に説得しようとしたけれど、早々に向こうから「もう決めたことだから」と話を打ち切られてしまったらしい。それでも休み時間に私たちのグループにも部活を休んだことへの謝罪と部活を辞めるという報告をするという多少の変化が表れた。とはいえ、”こっちの話を聞くつもりはない”という意思表示と取れてしまうので喜ばしくはない。


 今日の昼休みにこの勉強会を急遽提案した理由は、昼休みに押切さんからの口から「藤堂さんを説得できなかった」という話が零れたからなのもある。押切さんは全く悪くないのにだいぶ気にしているようだったから。


「ところでさ。藤堂さんのことだけど、私たちに任せてもらえないかな?」

「朱鷺乃さんたちに、ですか?」

「うん。うまくいくって保証はできないけど、可能性はあると思う」


 今のところ押切さんの隣で素知らぬ顔をしているこの子にその可能性を丸投げしているわけだけど。


「そんな……。わざわざ私に許可を取るようなことなんかしなくて大丈夫ですよ。二人のこと、信じてますから」

「はは……。面と向かって言われると恥ずかしいなぁ。でも、ありがとう。もうちょっと粘ってみるね」

「はいっ……。お願いします。あのっ、久我崎さんもよろしくお願いします!」

「えっ?あっ、ええ……まぁ……それなりに」


 迫るような押切さんのお願いに、久我崎さんはやたらと歯切れの悪い返事をした。

 私に対しては余裕ぶって答えていたのにこの反応の差は何なのだろうか。

 押切さんとしてはこの返事でも満足できたようで勉強会が始まった時よりは表情に明るさが増したように見えた。


「というわけで、押切さんは勉強のほうを頑張ろう。気持ちよく夏休みは迎えるためにも」

「そうですね……。私、数学が特に苦手で中間テストも赤点もなんとか切り抜けられたレベルなので、すみませんがこっちもよろしくお願いします……」


 ちなみに、成績の悪い生徒には絵に描いたような夏休みの補習が待っている。夏休みになったら練習三昧になると思うのでその地獄は是が非でも避けたい。

 私は「うんっ」と勇気づけようと胸元で小さくガッツポーズをした。



―――――



 それから1時間くらい勉強をしてから押切さんはお店の手伝いがあるということで一足早く帰ることになった。普段の平日は部活で手伝えないから、とのことだけど、テスト前こそお店の手伝いはやめておいたほうが良いのでは……と言いたくてもそこまで彼女のことに口を出すのは無粋なのでやめておいた。話を聞いた限り今回の不安要素は数学だけだし大丈夫かな。


 ということで、図書室には私と久我崎さんが残されるかたちになった。今度は久我崎さんの特訓に付き合わないといけないので準備をするためにも「私たちもそろそろ帰る?」とたずねると、「忘れ物をしたので教室に来てもらえますか」と提案された。私が行く必要があるのかと思ったけど、とりあえずついていくことにした。


 テスト前ということもあって放課後の教室にほかの人の姿はない。ほとんど同じ内装なはずなのにほかのクラスに入るとまるで別物の世界に迷い込んでしまったみたいで居心地が悪い気分に駆られる。


「朱鷺乃さん。ちょっとこっち」


 入口で突っ立っている私に久我崎さんがひょいひょいと手招きする。

 何度か覗いていたからわかる。久我崎さんが今いる位置は藤堂さんの座席だ。

 私が近づいてくると久我崎さんは視線を机に向けた。

 グレーで統一されているはず机の表面はところどころ薄い黒で汚れていた。その跡がマジックを擦って消そうとした跡だとすぐに察した。私も小学校のころ一度、仲が悪くなったクラスメイトにやられたことがあったから。

 さらに、机の端に不自然に紙テープが張られていた。それを捲ると机の表面に浅い傷がいくつもできていた。その線の集合体は3文字の誰もが嫌いな言葉になって刻まれていた。


「ここまでされて平穏でいられる人は、自分を必死に押し殺しているか、諦めているかのどちらかですね。そして後者だったら……」


 説得するのは難しい。一人で耐えていける人ならなおさら。でも、人は決して強くない。どんなに強そうな見た目や雰囲気の人だとしても。


「終業式がデッドラインだね」


 その言葉に対する久我崎さんの返事はなかった。

 相変わらず久我崎さんがなんで勝負こんなことを切り出したのかの真意はわからない。まぁ、素直に止められない彼女なりの訴え方ということにしておこう。うん、たぶんそれで合ってる。久我崎さんメンドクサイ人だから。


 そのあと、久我崎さんは自分の机の中から教科書を1冊取り出していた。どうやら忘れ物は本当だったらしい。



―――――



 それから、久我崎さんとはいつも通り駅のホームで別れて、準備ができたら久我崎さん家に集合することになった。


 自宅に戻って私服に着替える。家にある人様のお宅に上がっても”ダサくない、幼く見えない服”を脳みそフル回転で選んでからそのほか必要な服と物を大きめのボストンバッグに詰めていく。

 忘れ物が無いか何度かチェックしたり、ガスの元栓を閉め忘れたことに気づいたり、慌ただしくあちこち部屋を駆け回って準備を進める。だって、提案されたのは今朝なんだから。これは仕方ない。


 それにしても……。

 あぁ……。これは私、ワクワクしてるな。

 高校生にもなって、しかもこんな状況で、というところなんだけど、体の奥底でゴムボールみたいに軽快に弾む音が聞こえてくる気がする。


 身支度を終えて、靴を履いて、最後に部屋の鍵をかける。

 暮らし始めてまだ3か月だけど、1週間も家を離れるとなると寂しさはある。


 帰ってくるときは晴れやかな気持ちで戻ってこよう。


 外に出たらもう雨はやんでいて、薄雲の間からぼんやりとしたオレンジ色がこっちを覗きこんでいた。

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