渦の中へ

 月曜の朝。7月になってもまだギリギリこの時間は過ごしやすい。でも、それも束の間で朝から茹だるような日々がどうせやってくるので今年も戦々恐々としている。

 頬を伝う汗が1秒前までいた場所に風に流され飛んでいく。どこかの木に止まっているセミたちが夏はここだとうるさく主張する。真横を流れる川に朝の陽ざしがキラキラと反射して、どんどん流れていくその光景は小さい頃家族でいったキャンプ場で見た流れ星みたいだ。

 耳に挿したイヤホンからは雑音と小さな息遣いが聞こえる。BGMにしては拍子抜けしてしまいそう。


「大丈夫ー?」

「まだ、平気です」

「ちゃんと水分摂りながら走るんだよ」

「わ、わかってまーす」


 サボり魔の片鱗を見せていた久我崎さんだったけど、ようやく昨日の朝からやる気を見せてくれた。それでも15分くらいはモーニングコールを鳴らし続けてようやくだったのは、この際水に流してあげることにした。

 私たちは片耳にイヤホンをつけて、時々調子を確認しながら走っている。お互い、家はだいぶ離れているので、私は家から20分くらい離れたところに流れている蘇戸川そとがわの河川敷を、久我崎さんは家の近くの緑道公園をそれぞれ走っている。


 当然喋ってる余裕はなくて、お互いにノイズを聞きながら走っている状況なんだけど、今一緒に頑張っている人がいるということだけで、不思議と気力が湧いてくる。久我崎さんもそうだったらいいな。


 結局、藤堂さんからの返事は何もなかった。電話もかけてみたけど、繋がらなかった。こうなったら学校で直接話をするしかない。


「はぁ、はぁ……」


 急にイヤホンから息を切らした久我崎さんの声が聞こえてきた。


「どうしたの?本当に大丈夫?」

「いーえっ!大変だけど、気持ちいいですね。朝、走るのって!」

「でしょ?いい汗かいてすっきりするよ」

「はぁ、ふぅ……。ちゃんと、すっきり……させたいですね」


 こっちの脳内の声もイヤホンに乗っかって届いてしまっているんじゃないか。そう思った。


「ラスト10分。ペース上げていくよ。あっ、学校に行く気力はしっかり残しておいてね」

「けんっ、とう……します……!」


 足を上げても、風を切っても、ゴールはまだ見えない。



―――――



 その日の放課後、私は1年6組に向かった。目的はもちろん藤堂さんと話すこと……なんだけど、


「いない……」

 

 廊下から教室を一通り見渡しても藤堂さんらしき人はいない。

 ちなみに、朝のホームルーム前も授業ごとの休憩時間も昼休みも来たけれどいなかった。これはもう避けられているといっても過言じゃない。


「あの人なら先週からこんな感じですよ」

「久我崎さん……」


 見兼ねた様子の久我崎さんが教室から出てきて教えてくれた。


「ここにいたって噂はされるし、教室の外からも珍獣みたいに見られるんですから、それは逃げたくもなりますよ」


 助けてあげないの?なんて言葉をかけるつもりなんてない。そうしたいのなら自分でやれって話だ。それに自分だってなんて言ったらいいかわからない。今この状況で藤堂さんを守ってあげる力は私にもきっとないし、その義理は久我崎さんにはない。


「それより、部活に行きませんか?」


 久我崎さんのそのごく普通の誘いが天使の声にも悪魔の囁きにも聞こえた。

 

 そう、聞こえてしまった。


「まだ、学校にいるかもしれないから探してくる」

「そうですか。部長には言っておくので大丈夫ですよ」

「ごめん。よろしく」



―――――



 まだ、放課後になってそんなに時間は経ってない。私は急ぎ足で学校の玄関へ向かった。1年6組のエリアをだいたい真ん中あたりの目星をつけて、そこから藤堂さんの下駄箱兼ミニロッカーを見つけ、『失礼します!』と心の中で叫んで開けた。

 ロッカーの下のほうにちょこんと置いてあったのは学校指定の上履き。慌てて私も真っ黒なローファーに履き替えて、運動部の子たちの合間を抜けて、校門までやってきた。

 目の前を右から左にすーっと一台の自転車が通り抜けていく。それが前に私が荷台に乗った自転車だと気づいて左を向くと、ポニーテールが少しなびいて視界から消えていった。

 ……さぼるな。このやろー。

 新たなサボり魔の誕生に抱えたくなる頭をぐっと上げようとして、校門の外から校舎に入ってくる人たちの話し声が聞こえた。


「はぁ……もうパシリなんて最悪ぅー」

「明らかにやつあたりだもんね」

「しかも、わかりやすいくらいに」

「そりゃ藤堂が来たら先輩たちも不機嫌になるって」

「なんかさ。ちょっとキレてなかった?先輩たち離れて話してたからよく聞こえなかったけど」

「ん-、あの子元々怖そうじゃない?」

「たしかに。それにしてもさー。これ以上うちらに迷惑かけるなって話だよねー」

「ホント。理沙もかわいそう。慣れない先輩とダブルス組まされるなんて」

「今年は都大会止まりだったけど、それでもよくやってたよね」


 スポーツショップで藤堂さんと平井さんの一悶着があったとき、平井さんと一緒にいた子たちだ。

 どうやら藤堂さんがテニス部の先輩に何か言いに行ったらしい。

 なんのために?

 きっと、自分一人でこの事態を解決しようと思ったんだ。

 だったら、私だって。

 何か、動かないと。



―――――



 校舎から道路を挟んだ向かい側の敷地に学校用のテニスコートがある。コートは2つあって、部活のときは男子と女子で1つずつ使っている。私の身長の数倍もあるフェンスの向こう側でテニス部の子たちが試合形式の練習をしていた。

 さて、ここまで来てはみたものの……どうしよう。

 きっと藤堂さんが話に行った先輩たちが、空が言っていた藤堂さんと同じ中学だった先輩二人なんだと思うけど、私はその二人の顔も名前も知らない。


「ねぇ、何か用なの?」


 テニス部の女の子に話しかけられた。そりゃここでうろついていたらそうなるよね。


「あっ、えっと、2年生の……その……さっき、藤堂さんと話していた先輩の人たちを……」

「もしかして、水泳部の人?」

「はい……そう、です」


 女の子はコートで練習している人たちのほうを振り向いた後、誰もこっちを見ていないのを確認してから、フェンス近くに顔を寄せた。


「……何を話したいか知らないけど、今は絶対やめたほうがいいよ。だから、早く帰って」


 周りに聞こえないように、小さい声でそう助言した。

 でも、テニス部だということしかわからない以上、部活が休みになる明日からは会いづらくなる。話をするなら今しかない。


「どうしても今話したくて……!」


「そこで何してるの?あれ、あなた……」

「あっ、この前の水泳部の人だ」


 私が意を決して言うのと同時に、さっき校門前ですれ違った二人が戻ってきた。 


「そこ!何しゃべってんの?……ん、1年生?なに、あんたたちの友達?」

「あっ、先輩……」


 私たちの会話に気づいた一人の先輩がやってきた。その途端、ほかの3人が気まずい顔をする。ということは……。


「水泳部の1年、朱鷺乃です」


 私がそう言うと、先輩はこっちを軽く睨んだ後、反対方向に振り向いて、「ちょっと抜けるからー」とほかの部員たちに声をかけた。


「この子とちょっと話してくるから、あんたらは練習に戻って。買ってきた飲み物はベンチに置いといて」


 3人がはいと頷いてコートのほうへと戻っていく。

 

「みんな練習してるから、こっちで話そっか」

「はい……」


 機嫌が悪い言われていたはずの先輩は優しそうな表情で私を校舎側のほうへと案内した。

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