ちゃんと向きあって
日曜日。時刻は13時にもうすぐ迫ろうというところ。
私はスポーツセンターのロビーは冷房が効きすぎていて半袖のTシャツ1枚だと肌寒い。この近所に住んでいるであろうおばさんたちの世間話とそこらへんを走り回る子どもたちに囲まれながら、自分を抱きしめるように両手でむき出しの腕をこすって温める。
「お待たせしました」
本日からはじまる定期イベントの立案者であり、主役でもあるその子はしっかりとおめかしをして、この場所に不釣り合いな恰好でやってきた。
「今日はこれから原宿でショッピングでもするの?」
「近所に住む友達の家に遊びにやってきた少年がよく言いますよ」
片やオフショルダーのブラウスに、丈の長いワイドパンツ。
片や無地の半袖Tシャツに、ハーフパンツ。
これで二人とも同じ高校一年生だというんだから不思議だ。きっと身長差も相まって、周りの人に「私たち大学生と中学生の姉妹なんです」って言ったら信じてもらえると思う。
でも、先週みんなでスポーツショップで買い物したときはもう少し抑えていたような……。少なくとも肩は出してなかった。改めて、久我崎さんが大人びたルックスであることを思い知らされる。
「なんか大人の女子って感じ」
「この前は一応部活の集まりってことでみなさんに出来るだけ合わせようとは思いましたけど、別にこれだって普通だと思いますよ?」
「それは久我崎さんみたいな人たちの基準で、でしょ。私みたいなタイプにはとても……」
「じゃあ、今度一緒に買いに行きます?」
「いやいや、パス。それに、この服で出たって恥ずかしくもないし、私なんていちいち見てくる人いないから、どんな格好でもいいって別に……」
そこまで言って、私はすっと目をそらした。
こっちをじっと見つめる久我崎さんの真剣な視線に耐えられなかったから。
「それよりもさ。そろそろ行こうよ。ここ冷房強すぎて、ちょっと冷えてきた」
「ええ、そうですね」
――――――
ばしゃばしゃばしゃ。
ビート板を持つ両手をぎゅっと握りしめる。ひんやりとも違う、生暖かくいとも異なる、外の空気とは隔離されたモノを吸い込んで吐き出す。5m先にいる彼女との距離を狭めないように、広げすぎないように、足を蹴る強さを微調整する。
ばしゃ、ばしゃ。
区民プールは当然多くの人が使っているので、1コースに1人なんて贅沢な使い方はできない。私たちが泳いでいるコースも私と久我崎さんを含めて4人いる。50~60代くらいのおじさんとおばさんが一人ずつ。体を
今日はまず、20~30分くらい連続的に泳いでから、私が久我崎さんの泳ぎを直接レクチャーするというメニューになっている。
すいー、すいー。
ずっとバタ足なのも飽きてきたので、かえる足に泳ぎを変える。平泳ぎの足のことだ。
今日は私はあまり泳がない。なぜなら、今私がちゃんと泳げるのは背泳ぎだけ。背泳ぎは前が見えないし、泳いでいると体が左右にぶれることもあるから、こういう公共の場所ではちょっと泳ぎづらい。手の動きが大きすぎるという理由でバタフライも当てはまる。
そもそもここには久我崎さんの上達を目標に来てるのだから。私は二の次だ。
―――――
ぱしゃん、ぱしゃん。
プールサイドの上から久我崎さんの泳ぎを眺める。ぱっと見たところは悪くないと思う。とても1か月前にプールの底でもがいていた人と同一人物には見えない。学校の授業で恥ずかくないようになりたい、という目標はまず達成されている。
「はぁ……はぁ……。どうです?私の泳ぎ」
「うん、良くなってきてる」
「……そうですか。もう一本行きます」
荒い息遣いを無理やり止めるように、大きく息を吸い込んで久我崎さんはまた泳ぎはじめた。右手と左手がプールにある大きなスポーツタイマーの針みたいにぐるぐるんと交互に半円を描く。規則的なその動きをずっと目で追い続ける。ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん……。
ばしゃんっ!
「わっ……!?」
顔面に水しぶきがかかる。気づいたら久我崎さんはゴールしていた。壁にかかった右腕と両肩が大きく何度も上下する。だいぶ疲れが溜まっているみたい。さすがにそろそろ休憩をしたほうが良さそうだ。
ぴぃーーーっ、とホイッスルの音が鳴り響いた。こういった公のプール施設では一定の時間ごとにプールの点検を行うために10分~20分の休憩時間を設けている。その間、利用者はベンチで休んだり、備え付けのジャグジーやサウナに入って、一休みする。
プールサイドに上がった久我崎さんが「ちょっとベンチで」と壁側のベンチへ向かったので、私もついていった。
久我崎さんはここに来てから1時間、ちゃんとした休憩もせずぶっ通しで泳ぎ続けていた。なんだか今日はやけにやる気があるなぁ、と私は感心していた。もしかしたら、次の目標を意識しているのかもしれない。”人前でも恥ずかしくない”の次のステップに。
「……真面目にやってます?」
だから、その氷のように冷たい言葉が私に向けられたものだったことが、しばらく理解できなかった。
「えっと……、もしかして、私のこと言ってる?」
「少なくとも私は珍しく超真面目にやってますよ」
その言葉からはいつもみたいな良い意味でのからかいや煽りみたいな、加減を知った軽さとユニークさは微塵もなくて、ただ単に私を責めるような皮肉さだけがあった。
「私だって真面目にやってるよ。久我崎さんの泳ぎが上達してほしいって気持ちはちゃんとあるし、それに今日は久我崎さんの練習がメインでしょ。だから、私は二の次でいいって……」
「真剣に私のこと、見てくれています?」
「えっ……?」
その訴えかけるような瞳につらりと髪の毛から水滴が垂れる。その水滴が何か意味を持った別の雫に見えた。
「私の泳ぎ、まだまだダメですよね?しばらく泳ぐと蹴る力は弱くなるし、腕だって着水の位置が全然手前になってます。呼吸したくて顔を上げる時間が長くなってリズムが崩れるし、体は沿ってストリームラインもできてない。こんなんじゃ水泳部の一員として実力不足も甚だしい。これが決してただの自己評価の低さじゃないのは朱鷺乃さんだってわかってますよね」
たしかに。久我崎さんは人前でも恥ずかしくない泳ぎになっている。ただし、それはあくまで最低限の話だ。運動が特別できるというわけでもなくて、それこそ文化部に入っているような人だったら今のままで十分だったと思う。
だけど、久我崎さん運動なら泳ぎ以外は十分にできている人で、今は水泳部の部員だ。そうなれば、周りの人は『これくらい出来るはず』という理想を勝手に掲げる。明確な指標のない個人の想像の中でが考えられた基準は厄介だ。その人や周囲の雰囲気、他人の意見、少ない情報でのイメージ、そんなもので判断させられてしまう。
たとえ、直接言われなくても薄々感じとってしまうものもあるし、自分で考えこでしまうこともある。すでにはじまったプールの授業で久我崎さんはどう思っているんだろう。
「それに、今日の朱鷺乃さんは全体的に良くないんですよ。会った時だってあっさり自分のこと卑下するし、今朝も私はジョギングすっぽかしたのにそのことを何も触れないし」
「ちょっと待った。そこは真面目かどうかと関係なくない?」
というより、4日連続で寝坊して予定飛ばしているそちらのほうが明らかに良くないと思う。
「とにかくっ!今日は注意力にかけるというか、やる気が低いというか、朱鷺乃さんからはそんな感じがします」
「それは……」
「もしかしなくても、アレが引っかかってますよね?」
「アレ、って?」
「返事がなかったことですよ」
一昨日、部活を休んだ藤堂さんが気になった私は水泳部のグループに「体調崩したの?大丈夫?」と藤堂さんに向けてメッセージを送った。押切さんや香原先輩も私に合わせてメッセージを送ってくれたけど、それから二日経った今も藤堂さんからの返事はない。
ただ、それだけのこと。
でも、何も返事がなかったことが気になってしまう。触れないほうがよかったんじゃないか、迷惑に思っていないだろうか、って。
「藤堂さんのこと、どうするべきか迷ってます?」
「うん……まぁ……」
すると、久我崎さんはこれ見よがしに大きくため息をついた。
「まだ何もしていないのに、そんなに悩んでどうするんですか。もう……」
「だって、誰にだって言いたくないこととか、知られたくないことってあるでしょ」
「あの、私からしたら、『それがどうした』って話ですよ」
「でも、大事なことだし……」
「今から園児でもわかる簡単なことを聞きますよ?」
びしっと伸ばしたしなやかな人差し指が私の鼻先に触れそうになる。私の肩はぴくりと震えて、気持ちも勝手に身構えてしまう。
「朱鷺乃さんは何がしたいんですか?」
「わ、私は……」
嫌なことが起きて、いろんな人から話を聞いて、あれこれ考えた。何をすればいいのか、何ができるのか。何をしたらいいのか、何をしないほうがいいのか。
そもそも、どうして何かしたいと思ったんだっけ。藤堂さんのが友達だから?同じ部員だから?かわいそうだと思ったから?あんなことした誰かが憎かったから?
合ってるけど……ううん。ちょっと違う。
「私を助けてくれた藤堂さんを助けたい。ううん。そんな大それたことじゃなくていい。何かしないと私の気が済まないんだ」
これは私の勝手な都合で、一方的な想い。それが良いほうに転ぶかなんてわからない。でも、そうだ。私、前に言ったじゃないか。「やって後悔したほうが良い」って。
「ごめん。私、たぶんビビってた」
「もうすでに事態は十分悪い方向に進んでいるんですから、これ以上何かあっても大して変わりないですよ。ここはもう好きなだけ首突っ込んでいけばいいんです。朱鷺乃さん一人で自爆覚悟で勝手に」
「ちょっと!その言い方は藤堂さんと私に対してひどくない?というより、久我崎さんはどうして藤堂さんにあたり厳しいの?」
「それは……性格が気に食わないんです」
「たしかに見た目はちょっと怖いし、口調もちょっと怖いけど、私は良い人だと思ってるよ?」
「……だから、気に食わないんですよ」
「それって、どういう……」
「なんでもないですっ!」
「はぁ……」
まぁ、二人とも気が強くて一匹狼っぽさもあるから馬が合わない、ってところかな。
またも久我崎さんの機嫌が斜めになってしまったけれど、おかげで私のほうはだいぶスッキリできた。
「ありがとう。なんか吹っ切れた。ちゃんと向き合うよ。藤堂さんも、自分も、水泳部……もちろん、久我崎さんも」
「ほんともう……手のかかるトレーナーですね」
あきれながらも、ふっと笑った久我崎さんの顔がどうにも嬉しくて、私もつられて笑ってしまう。
そこで、休憩時間終了のアナウンスが流れる。あちこちに散らばっていた人たちが各々が準備をして、またプールの中へと入っていく。
「よしっ!私も一発気合いれて泳ごうかな」
「その後はちゃんと指導よろしくお願いしますね?」
「もちろん。あと1時間、みっちり教え込んであげるからね」
「あの~……お手柔らかにお願いできます?」
そこからの1時間、私は久我崎さんへの感謝の気持ちと、ほんのわずかの鬱憤晴らしを込めて、それはそれは丁寧にじっくりとコーチをしてあげたのでした。
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