波立つ水面

「ふぁぁ……」

「おはようございます。朱鷺乃さん」

「ん?あ、あぁ……おはよう」


 学校の玄関で大口を開けてあくびをしていたところで、押切さんと鉢合わせした。普段は目をあまり合わせてこないのに、こういう時はばっちりと視線が合ってしまう。


「昨日は夜更かしでもしたんですか?」

「いや、逆。今日は久しぶりに早起きしたんだ」


 6時起床で、と久我崎さんに連絡し、起こす私がピッタリに起きるのもどうかと思ったので、5時半に目覚ましアラームをセットしておいた。もちろん、私はアラームと同時に起きて、モーニングコールをいつでもできる態勢にしていましたよ。まさか1時間ずっとかけっぱなしになるとは思わなかったけど。

 そのうえ、第一声が「これでもいつもより30分早く起きたんですよ」ときたら、無言で通話を切りたくなるもんだ。実際、切った。


「早く起きるとそうなっちゃいますよね。私はだいぶ慣れました。最初のころはベッドから出るのが辛かったですけど」

「へぇ……押切さん、朝は早いの?」

「お店の開店準備の手伝いをしているんです。あとは朝食を作ったりとか」

「えらいなぁ。私、家の手伝いなんてほとんどしたことないよ」

「朱鷺乃さんは一人暮らしですよね?家事は大丈夫なんですか?」

「あ……うん……。人として生きていける程度には、ね」

「今度、なにかお手伝いしにいったほうが……いいですか?」

「ありがとう。気持ちだけで大丈夫だから」


 優しい顔に苦笑いを浮かべながら、ひとつひとつダメ出ししていく押切さんが思い浮かんでしまった。もし、ほかの人を呼ぶときは幸恵さんに手伝ってもらってからにしよう。


 というわけで、私は中程度のストレスに少しの惨めさを背負った状態で今日もスタートすることになった。

 また一層凶悪になった日差しが頭の上に容赦なく照りつける。そういえば、今日から7月になったんだっけ。じゃあ、暑くても仕方ない。そういうことにしておかないと諦めがつかないくらい日本の夏は殺人的だ。水泳部に入っていて良かったなぁ、と心底思う。


 時計の針は8時20分を指している。朝のホームルームは40分からで、今が生徒の登校ラッシュ。下駄箱のあたりはクラスメイトがちらほらと上履きに履き替えている。その間を縫うように進んで、自分も履き替えた。

 教室へ向かうために右を向くと、そこで私はようやく異変に気がついた。

 2階へ上がる階段横の壁に人だかりができていた。そこは全校生徒用の大きな掲示板で、学校行事や地域行事のお知らせ、部活勧誘のビラが貼ってある。この前の生徒会長選挙の結果も張り出してあったところだ。そんな場所に朝から人が集まっている。


 何か一目を引くようなものが貼られているんだろうけど、それが何かは他の生徒の背中が邪魔で私からは見えない。押切さんも気になったようで私の隣にやってきて、首を左右に動かしているけれど、どうやら同じ結果らしい。

 これは見るのは無理だと考え、もう諦めて教室へ向かおうと思ったとき、


「あの……、二人とも水泳部だよね?」


 私たちの前に立っていたクラスメイトの女の子に話しかけられた。その声に反応するかのように掲示板の前にいた人の群れに綻びができる。その女の子は「これ」と言って、綻びの先を指さした。カラフルな部活勧誘のビラの間に貼られていたのは一枚の写真と一行の文が書かれた一枚の紙。


 『1年6組、水泳部の藤堂華江が援交疑惑!?』

 という文字の下には、制服を着た女の子がスーツ姿の男性とラブホテルに入っていく写真。写真に写る女の子は少し見づらくはあるが、髪型や顔から判断するに藤堂さんに見える。少なくとも制服は同じなのだから名前の書かれた人物が怪しいと、ここにいるみんなが疑念を抱くには十分だった。

 つまらない週刊誌の記事みたいな張り紙に、ふつふつと腹の底が煮え立ってくるような感覚が沸いてくる。なんだこれ。こんなもの今すぐ剥がして粉々に破り捨ててしまいたい。


「あの子、不良っぽい雰囲気だったけど、本当にこんなことしてたんだ」

「停学処分になってテニス部を辞めさせられたってやつだろ?入学早々すごいことするよな」

「姉が優等生で生徒会長だから、それを妬んでグレたとか?」

「たまに見たけど、クラスでも一人でいること多いし、友達少なそうだもんね。そういうことやってそう」


 すでに私の周りでは適当な憶測が飛び交いはじめていた。この中には藤堂さんの知り合いでもなければ、話したことない人、1回や2回くらいしか見たことない人だっているはずだ。どこかで聞いた誰かの話と、ほかの人たちが思い浮かべたイメージで妄想された勝手な藤堂さんの姿が作り上げられていく。誰もかれもが藤堂さんを悪だと敵だと認識していく。周りの人たちに対しても苛立ちが募っていく。

 私は信じていないけれど、もしも藤堂さんがそういう事をしていたとして、春にそれを先生たちの下に曝したことは百歩譲って悪い行動じゃなかったとする。でも、これはひどすぎる。誰からも見えないように自分の正義を振りかざして、たくさんの人の目の前で相手を貶めるだなんて。じゃあ、もしこれが事実ではなかったら……?


 そこまできて何かが限界を迎えた。正直なところ目立つのは本当は嫌だけど、こんなものを見続けるくらいならそれくらい安いもんだ。

 私は「ごめん」と目の前の女の子たちに謝って、人混みをかきわけようとした……右手は誰かの手にぱしんと払われてしまった。そして、驚いた私の視線の先であの貼り紙は勢いよく破り取られた。


 あの写真より何百倍もかっこいい女の子の手によって。


「何か言いたいことがあるなら、直接言えば?」


 紙屑を両手でぐしゃぐしゃに丸めて、藤堂さんは誰かに向かって言ったわけではないその言葉だけを残して、誰も動けなくなってしまったその場なんて気にする様子も見せずに去っていった。


 止まってしまった時間が動き出して、生徒たちは気まずさに耐えきれず散り散りに自分たちの教室へと向かっていき、掲示板の前はいつも通りの人がただ過ぎ去っていく場所に戻った。


「あの……朱鷺乃さん。大丈夫、ですか?」

「う、うん。私は全然」


 隣にいた押切さんの困っているような声が聞こえて、私も落ち着きを取り戻す。


「すごい顔だったので……」

「えぇっ!?私、そんな変な顔してた?」

「いえ、変ではなかったんですけど……その、怖くて」

「あっ、あぁ……」

「あっ!えっと、その……変なこと言ってごめんなさい!怖いだなんて失礼ですよね」

「いやいや、誤らなくていいって!押切さんは何も変なこと言ってないよ。怖がらせたなら、ごめん」

「そ、そんな……!朱鷺乃さんこそ謝らないでください。友達のためにそこまで怒れるのは大切なことだと思います。私はそこまで真剣になれなくて……ただ、こんなことが書かれているのが不気味で、怖くなって、悲しくなって……私、情けないですね」

「そんなことないよ」


 押切さんはきっとこれを見て、藤堂さんが傷ついてしまうと思ったんだ。そして、自分のことのように感じていた。そんな感情を冷静に捉えられるのは大事なことだ。


「そう……ですかね。でも、藤堂さんのためにも、なんとかしてあげたい。そう思います」


 その次にするべき行動をちゃんと考えてあげられるから。

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