夜空に向かって
「洸、お風呂空いたから入りなさーい」
「はーい!もうちょっとしたら入るからー」
夜もすっかり更けた頃、虫の鳴き声と家の外を通る車の音に混ざって聞こえたお母さんの声にいつも通り返事をする。明日から早朝ジョギングをはじめるのだったら、そろそろ寝ておくべきなのでしょう。だけど、これも日課なので早々止めるつもりはありません。
月だけが顔を覗かせる縁側で何かをするわけでもなく、ただこうして座っているだけ。おばあちゃんが生前、毎日のようにやっていたことです。
私が「何してるの?」と聞いても「何にもしてないよ」と答えていました。おばあちゃんは縁側で月を見上げてばかりいたので、かぐや姫の物語を読んだ私はある日、「どこかに行っちゃうの?」とおそるおそる尋ねました。「どこにも行かないよ」と答えたおばあちゃんの顔が寂しそうに見えたのは本を読んだ影響か、それとも自分の人生に少しの不安を覚えてしまったからなのか。おばあちゃんが亡くなった日、お墓の前でおじいちゃんが「お前には苦労ばかりかけてしまったなぁ」と嘆いていたことが何か関係していたのか。二人の人生のほんの一部しか知らない私はその答えを知ることはできません。
それでもこれだけはたぶんわかる気がします。おばあちゃんはここで自分の生き方を見つめていたのだと。だって、私が今そうしているのだから。
まだ15年しか生きていないので生き方を見つめるなんて大層なことはできませんが、これまでの自分のことを見つめなおすくらいはしてもいいでしょう。
では、ここで今日の自分をおさらいといきましょう。
……あ、あぶなかったぁー!
お母さんにせっちゃんのことを話されそうになった時は心臓が止まるかと思いました。もし、ここで私がせっちゃんと友達だったことが朱鷺乃さんにバレてしまったら、これから先がとてもやりづらくなってしまいます。
私の計画としては、夏が終わるまでにせっちゃんに見られても恥ずかしくないレベルの水泳選手になって、秋の大会に出場した私にせっちゃんが気づいて、劇的に再会!そこで、3人が互いに知り合いであることを判明して、私とせっちゃんが改めて友情関係を築き、再び親睦を深めていき良いタイミングを見計らって最後のアタックを……というシナリオになっているのですから。
朱鷺乃さんはこの前の大会でせっちゃんと会っているわけですから、変な気を使って私とせっちゃんを会わせようとされたら全部が水の泡です。それで、もしも私じゃなくて朱鷺乃さんとの再会に花を咲かせてしまわれたら、私が入る隙がなくなります。
そして、言ってしまえば今の朱鷺乃さんはだいぶ弱体化している状態。お節介焼きで水泳バカなせっちゃんのことだから、きっとあれこれ手助けしてあげたくなることでしょう。だから、今は朱鷺乃さんとせっちゃんとの接触も可能な限り避けないといけません。
大会の日に二人が出会ってしまったのは予想外でした。しかし、休日の練習を入れて私の練習に朱鷺乃さんを付き合わせることで、二人が私の知らぬところで会って仲良くなる可能性は下げました。ナイスプレー、私。まぁ、朝のジョギングもまた予想外でしたけど。うぅ……できるかなぁ……。
ただ、あのプールは練習場所には選べませんでした。
正直なところ、今日朱鷺乃さんを家に呼ぶのだってかなり悩んでようやく決心がついたくらいです。
この家でせっちゃんと遊んだ記憶を上書きされたくないなんて考えが頭をよぎりました。我ながら重いというか、人によっては気持ち悪い領域に片足を突っ込んでいることは自覚しています。それでも、誰にどう思われようともこの気持ちは変えたくないんです。
私はせっちゃんが好き。笹川瀬璃夜という女の子が大好きなんです。
きっとこの想いが報われる可能性は低いでしょう。それなら1パーセントずつ増やしていこう。届いて、響いて、受け入れてもらえるように。
都会の明かりのせいで無数に瞬いてるはずの星はろくに見えないのに、黄色く輝く月だけは今日も当たり前のように私たちを見下ろしている。真っ暗な空の上でばかみたいに目立っているけど、その輝きは眩しくなくて不思議とあたたかい。自分がこんなにも輝いているなんて月はきっと知らないのでしょう。
夜空にすっと手を伸ばす。まぁるい月はつかめなくて、果てまで広がる夜空はもっとつかめなくて。それでも私は向こう側へ行きたいんです。まっすぐ進んで月さえも越えて、瑠璃色に染まるあの夜空のむこうへ。
「……んん~~~っ!?」
あっ、ダメ。これはダメ。いくらなんでもさすがに恥ずかしい。
つい、あれこれ考えて自分の想いなんてものをつらつらと脳内に垂れ流してみたけど、なかなかこれは……イタイ……。間違っても外には漏れないようにしなくては。
あっ、そうだ。そろそろお風呂に入らないと!ついでに湯船の中でフォームの練習もしておきましょう。たしか手の形はこうして……こう持っていって……。
ぼーっとしてなんかいられない。惚けていてなんかいられない。今はただひたすらに泳ぐことを意識して。
なりたい私に、なるために。
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