ふたつの約束
お母さんのせい(?)で変なご機嫌になってしまった久我崎さんもようやく落ち着いて、私たちはジュースとお菓子を適度に摘まみながら、今後の練習メニューや久我崎さんの特訓方法について話していた。……今日は夕飯抑えておこう。
「朝……朝からですか……」
「学校もあるし、まずはウォーキングでいいと思うよ。距離も短くていいし」
今、議題になっているのは日課のトレーニングのひとつとなる早朝のジョギング。学校がはじまってからは時間を取るのが難しいから、外での運動ができるのは登校前くらいしかない。私も最近は毎日やれてはいないけど、早く起きた朝は近くをぐるっとジョギングをしている。軽くだとそこまで鍛えられるってわけじゃないけど、汗をかいて体をしっかりほぐした状態で一日がスタートできるので、他のことにもやる気が出せるようになっていい。
「へぇ、朝起きるの苦手なタイプなんだ」
「うっ……!」
「図星か」
「つい、夜遅くまで起きてしまう傾向にありまして……」
「うーん、静かで涼しいから夜にジョギングするのもありだけど」
安全面を考えるとオススメはできない。
「そうだ。朱鷺乃さんが起こしてくれればいいんですよ」
「いや、目覚ましかければ済む話でしょ」
「いつも目覚まし時計とアラームを使ってるんですけど、効き目がないみたいで……」
「お母さんが起こしに来たりしないの?」
「これに関しては『いい加減ちゃんと起きれるようになりなさい』と言われていまして」
つまり、お母さんが匙を投げるくらい寝起きが悪いと。
「それ、私がモーニングコールかけたところでどうにもならないと思うんだけど」
「でも、他人がわざわざ起こそうとしていると考えたら、ちゃんと起きる気持ちになるんじゃないかと」
久我崎さんのお母さんがあまりにも不憫だ。
「とにかく、お願いします。私を助けると思って」
「うーん……まぁ、電話鳴らすだけだし、私は早起できるから何も問題ないんだけどさ」
「それじゃあ、OKということですね?」
「仕方ない。でも、早く起きられるようになってよ」
「善処します」
全く期待できそうにない回答をもらったところで、私はスマホで今の時間を確認する。突然やってきてあまり長居するのも迷惑し、そろそろ帰ったほうがよさそうかな。
そのことを言おうと久我崎さんのほうを向くと、彼女は顔を少し俯かせてどこか真剣な表情で考えこんでいた。
「あの……もう一つお願いがあるんですけど」
『いきなり働かせすぎじゃない?』なんて嫌味っぽく言ってやろうかと思ったけど、ガラリと変わった久我崎さんの様子を見たら、そんな言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。その表情には明らかな不安の色が浮かんでいたから。顔を何度か上げ下げして、言っていいかどうか迷っているように見えた。そして、そんな姿を見た後に茶化したり嫌がる素振りを見せたりするほど、生憎と私の性格は捻くれていない。
一体、私はどんな重要な頼み事をされるんだろうか。
「どんなこと?」
「学校が休みの日、プールで私に泳ぎを教えてほしいんです」
「……えっ?」
「ほらっ、私まだ全然うまくないですし、次の大会までに人前で泳いでも恥ずかしくないようにしないといけないじゃないですか。それに、朱鷺乃さんももっと練習したほうが自分のリハビリになると思いますし。たぶん、今のままだと二人にどんどん離されていっちゃいそうですし」
「あっ、いや、私としてはそれは全然構わないよ」
深刻そうに考え込んでいた頼み事がそんなことだったのに拍子抜けしてしまった。毎朝起こしてほしいという依頼と大差ないと思うのだけど、もしかして、休日を使わせてしまうことに悩んでいたのかな。いやいや、まさか。私に休日遊びに出かける友達がいないことくらい察しているはず……。なんか自分で言ってて空しい。
「そうですか。じゃあ、早速次の日曜日に」
「いいよ。場所はどこにしようか?」
もう一度、スマホに手を伸ばして今度は近くの公営プールを調べる。ちょうど久我崎さんの家の近くにプールがあった。私の家の近くには無いし、久我崎さん家なら時間は少しかかるけど自宅から自転車でも行ける範囲なので提案しようとしたら、私より先に久我崎さんがスマホを画面をこちらに差し出してきた。
「ここはどうですか?」
久我崎さんが示したのは私とは別の場所だった。高校の隣駅から少し歩いたところにあるプールで、ここだとお互いの家からだいたい同じくらい時間がかかる。間をとって、という場所としてはぴったりだ。久我崎さん家に近いこっちでも良いと言うべきか迷ったけど、遠慮されてしまいそうだし、こちらも断る理由がなかった。
「うん。私はそこで大丈夫」
「では、日曜は13時にプールの前で」
「わかった。あっ、今日はそろそろ帰るね」
「その方がいいと思います。もう少ししたら父も帰ってきて、母がまた夕食を誘ってくると思うので」
それは困る。私に家族団らんの場を盛り上げられるようなトーク力なんて皆無だし、そもそも学校の話をたずねられても部活以外で久我崎さんと接点がない。一体、何を話せばいいのやら。
そそくさと帰る準備をして、キッチンのテーブルに夕食を並べているお母さんに挨拶を済ませたところで、帰ってきた久我崎さんのお父さんとすれ違った。
「おかえり、お父さん。今日は本当に早かったんだね」
「予定していたお客さんとの食事会がキャンセルになったからね。他の予定も入らなかったから、部下に『月に一度くらいは早く帰ってください』と追い出されたよ。おや?こちらの子は?」
「私の友達。朱鷺乃さん」
「こんばんは。朱鷺乃深月です」
久我崎さんのお父さんは、「ふむ。彼女が」と品定めするように私を見た後、「良かったら、これからも洸と仲良くしてもらえるかい?」と爽やかな笑顔を振りまいた。娘さんは私のことをどうお父さんに説明しているのか聞いてみたい。
よくよく見れば、お父さんもかなりかっこいいではないか。少なくとも40代はいっていると思うけど、そのにこやかな顔にはおじさんにありがちな脂っぽさや目立ったシワとかは全くない。それに、今は優しそうに笑っているけど、目や口のラインがはっきりとしていて、精悍さもある。仕事が出来そうな人という印象も持てる。
「久我崎さんのお母さんも綺麗でびっくりしたけど、お父さんもすごいね。バリバリ仕事できて、社長とかやってそうな雰囲気なんだけど」
お父さんが奥のほうへと行ったことを確認して、念のため声を潜めてたずねる。
「今はそれなりに大きな運輸会社の重役で、次期社長候補って言われてますね」
「あぁ……やっぱり。そんなオーラが十分出てる」
「でも、祖父の後を継ごうとしているだけですけどね」
「社長の家系なの!?道理で家も豪華なわけだ……」
「ここは母の実家ですね。祖父を含め母の家系は昔この町で議員をしていたので」
それはもう本物のお嬢様じゃないか。
二重にかかったフィルターを通して見る久我崎さんのご令嬢ステータス(たった今命名)は全パラメータで最大値をたたき出していた。
私が本日2回目の開いた口が塞がらない状態になっていると、
「洸お嬢様と呼んでもらっても構いませんよ」
張り倒したくなるよな自慢げな顔でそう言った。自分で言って恥ずかしくならないものなのか。久我崎さんは優秀なメンタルをお持ちのようだ。
「はいはい。スタミナゼロで性格歪んでる洸お嬢様。ぜひともまた平々凡々なこの私めを家にお招きくださいな」
「ええ。また来てください」
「えっ……あぁ、うん。機会があったら」
だけど、皮肉たっぷりの言葉に対する返答は軽く受け流すようなあっさりとしたもので。それはこっちも予想していたんだけれども、その表情が流れの止まった水面みたいに穏やかだったもんで、次の言葉を言い淀んでしまった。だって、久我崎さんが嬉しそうに見えてしまったもんだから。うーん……さすがにそれは私の思い違いか。
じゃあ、と手を振って。だんだんと離れていく玄関の明かりと久我崎さんの姿。風に揺れる草木の音が妙に心をざわつかせる。門をくぐって敷地の外に出ると、目の前の道路を走る車がライトがまぶしく光らせて横切った。
肺の中で溜め込んだ空気を私が出せる限りの低い声と一緒に吐き出す。今日は取得する情報量が多すぎた。過剰に摂取した分はここで少し捨てておこう。
久しぶりに友達の家に行ってちょっとワクワクしてしまったなんて小さい子どもみたいな赤面必至の気持ちがあったら、今日は寝るのに時間がかかってしまいそうだから。
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