彼女の家で。

 久我崎さんの家へは高校から電車とバスを乗り継いで40~50分くらいの所にあった。乗り換えに時間がかかるから自転車通学にしたかったみたいだけど、両親から反対されたらしい。

 住宅街と商店街が溢れたごく普通の町。たまにテレビでも映されるくらい大きな商店街が家の近くにあるらしい。混むからあまり行きたくないとのこと。


 夕日が遠くのそこまで高くないビルの天辺に隠れはじめた頃、私は久我崎さんの家の門の前に着いた。


「すご……」


 開いた口がしばらく塞がらなかった。


「そうですか?」


 一歩前の位置から振り返り、私を見ている彼女の口角は三日月型に吊り上がっていた。隠しきれていない『ド』からはじまる小憎たらしい表情が、夕日に照らされて私の両目に貼りついた。


 庭付き一戸建て。

 久我崎さんの家を簡潔に表すならそれ……だけど、その庭が灯篭と立派な松の木が生えた庭園で、私の部屋より大きくて立派な錦鯉が泳ぐ池があるとなれば、話は別だ。

 そして、肝心の家の方はというと、実に立派なお屋敷。雑巾がけが大変そうな縁側が庭の前にすらぁっと伸びて、もう私の部屋何個分だろうと考えるのが面倒くさい。

 オープンな空間が大きいから周りから見えそうで大変と思うかもしれないけどれど、そこは安心。周りは瓦屋根のついた塀でぐるりと囲まれている。中学校の修学旅行で京都に行ったときにどこかのお寺がこんなだった気がする。


「こんなに広い家、そうそう見ないって」

「そんなことないですよ」

「いや、蔵が立っている家なんて、滅多に見ないから」


 庭園の反対側に存在感たっぷりに立ち並ぶ、これまた立派な二つの蔵をじっと見て、私は呆れとなぜか湧き出た悔しさを彼女にぶつけた。あの中にはきっと鑑定したら、歓声がどわっと湧きそうな骨董品とかが入っているに違いない。


「お手伝いさんは……いないよね?」

「えぇ。いないですね」


 ここまできたら、『おかえりなさいませ。お嬢様』と出迎えてくれる人がいてもおかしくないと思っていたけど、それはさすがに考えすぎのようだった。


「今日は。最近は週3回くらいで来てもらってるんです」

「あっ……そう。もしかして、メイドさん?あっ、和風な家だから侍女さん?」

「普通のおばさんです。それに、家事手伝いがいるなんてこと、今の世の中じゃ言うほど自慢できることでもないですよ」

「そうかなぁ……」


 これ以上はもう何を考えてもこちらが一方的に勝手な敗北感を味わうだけのような気がするので、おとなしく家の中に案内してもらうことにした。



―――――



 久我崎さんの部屋は想像以上にシンプルな雰囲気だった。女子高生の部屋にはいささか大きすぎるベッドと机とテレビ。参考書やハードカバーの小説ばかりの本棚。それと、部屋の隅に並んだ年季の入った小さな桐箪笥と鏡台。お父さんの書斎とおばあちゃんの寝室を足して2で割ったその部屋は、私のイメージした彼女とは違うものだった。


「あのタンスと鏡。かなり古そうだね」

「亡くなった祖母がずっと使っていたんです。なんでも、祖母が小さい頃から使っていたらしいんですよ。まさに年代物ですね」

「大切にしてるんだね」

「大好きですから」


 久我崎さんは鏡のほうを優しげな目で見つめている。そんな、それ以上何か言葉を紡ぐのが無粋だと思ってしまうほどに澄み切った表情を、私は鏡越しに見ていた。


 コンコン、とノックの音が部屋に響く。


「洸。開けるわよ」

「あっ、はーい」


 久我崎さんが我に返ったような返事をすると、コップとお菓子の乗ったお盆を持った久我崎さんのお母さんが部屋に入ってきた。たぶん平均的な高校生の親という年代の方だとは思うけど、それよりは若く見えた。上品な感じというか、久我崎さんのお母さんだという見た目だ。つまり、初めて見たら思わずため息が漏れてしまうくらい美人ということ。この母親にして、この子あり。


「はじめまして。朱鷺乃深月です」

「えっと、洸と同じ部活の子よね?いつも洸がお世話になってます」

「そんな。お世話だなんて……」


 本当は「手間のかかる子ですね」と言いたかったけど、後々が面倒なのでやめておいた。


「洸ったら、部活に入ってから毎日晴れ晴れした顔で帰ってくるもので……。きっと良いお友達に出会えたのね、って思っていたのよ。どうやら、本当だったみたい」

「ちょっと、お母さん。やめてってば……恥ずかしい」

「これ、お茶菓子とジュースね。あぁっ、でも、もうすぐ夕ご飯の時間よね。友達が来るっていうから用意しちゃったけど、余計だったかしら」

「いえっ、いただきます!私、一人暮らしなんで夕飯は適当に減らせばいいんで」

「そうなの!?高校生で一人暮らしだといろいろ大変でしょ。あっ!それなら、良かったら夕ご飯は一緒にどうかしら?一人分くらいは何とかなるし、帰りはお父さんに車で送っていってもらうから大丈夫よ。洸は学校の話全然してくれないから、お母さん聞いてみたいのよ」


 こちらが反応する間もなく、まくしたてるよう話すお母さん。若干強引に話を進めようとするところもお母さん譲りなのかもしれない。


「いや、大丈夫です!そこまで迷惑はかけられないので」

「そう。普通いきなり人の家の食事に誘われたら驚くでしょ。それに朱鷺乃さんの気持ちや都合もあるんだからさ。勝手に決めようとしないの!」


 私以上に焦っている雰囲気の久我崎さんが強い口調で止めようとする。

 ありがたいけど、どの口がそれを言いますかねぇ。


「そう……。じゃあ、また今度改めてお誘いさせてね。あぁっ!そうしたら、部活の子みんな呼んで夕食会なんてどうかしら?なんだったら、お泊り会でも大丈夫よ。ほら、この家ちょっとした民宿くらいの大きさはあるから。お布団もね。お客様用にいくつもあるのよ。定期的に日干ししないといけなくて困るよね、ホント」

「お母さん!勝手に話し進めないで。……って、そうだ!お母さんに話したいことがあるんだった。朱鷺乃さん、見せてもらってもいい?」

「あっ、うん。ちょっと待ってて」


 今日の本題を思い出した私はカバンから一冊のノートを取り出した。色褪せはじめた表紙をめくると、鉛筆でずらりと書かれた料理のレシピ。ところどころに小さなシミがあるのはご愛敬。私がこれを見ながら作っていた時につけってしまったやつだ。

 水泳部に入ってから、練習メニューや特訓方法が書かれたノートと一緒に毎日カバンの中に入れっぱなしにしていた。どちらも水泳を始めたころからの愛用品だ。


「これは?」

「私、小さい頃から水泳をやっていて、その時からずっと使っているレシピ表です。体重を抑える時とか、体力をつけたい時とかは練習メニューだけじゃなくて、食べ物も気を付けていたので。カロリーや栄養素は大切ですから」


 お母さんはノートを手に取って、ぱらぱらとめくる。


「すごい。こんなに……」

「うちのお母さんがいろいろと調べて、作ってくれたんです」

「子ども思いの素晴らしいお母さんね。それに、あなたも」


 なんだか自分のお母さんに褒められたみたいな気分だった。うれしくて、ちょっと恥ずかしくて。なんだか温かい。


「それじゃあ、私はこれを我が子のために振舞えばいいのね。任せて!」


 お母さんその意図をすぐさま察してくれた。

 事前に、久我崎さんから「母は頼まなくてもやってくれる」とは聞いていたからそこまで驚きはしないけど、想像以上に乗り気のようだ。

 「早速、今日から作っちゃおうかしら」と意気込むお母さんに、「今日はもう作ったんでしょ!」とツッコミを入れる久我崎さん。その呆れた顔を見て、吹き出しそうになるのを堪えた。いつも余裕ありげに振舞っている人が慌てる姿というのは、なかなか見ごたえがあった。


「それにしても、洸がまた友達を呼んでくれるようになって嬉しいわ。あっ、そういえば、小学校の時のあの子も水泳やっていた子よね?名前はえーっと……なんて子だったかしら?洸、あの子とも仲が良くて……」

「お母さん!昔話はいいから。用事はそれだけなんだから、もう出て行って!」

「なによー。つれないわねぇ。っと、あらあら」


 久我崎さんはいきなりお母さんを押し出して、部屋からシャットアウトさせてしまった。小さい頃はいじめられていたし、その頃の話を思い出すのが嫌だったのかな。

 水泳をやっていた子か……。そういえば、私の家に来た時に言っていたっけ。「彼女みたいに笑いたい」って、たしか久我崎さんが泳げるようになりたい理由の子。きっと、その子のことなのかな。

 バタンと扉を閉めた久我崎さんは振り返って、私の顔をしばらく睨みつけていた。よほど恥ずかしかったんだと思って、「昔話って人にされると恥ずかしくなるよね」とフォローをしておいてあげた。だけど、それでもまだ睨んでくる彼女と無言の時間が続くこと約十秒。なにか私はまずいことでも言ったのだろうか。返す最適な言葉がさっぱりわからず、私も黙り続ける。


「はぁ……。すみません。うちの母、あんな感じで」

「ううん。うちのお母さんも似てるとこあるから。そういえば、家族に対しては丁寧語でしゃべらないんだね」

「これは私なりのキャラ作りなんです。『あなたたちとは軽口を叩きあうほど仲良くなるつもりはないんで』っていうメッセージを込めてました」

「なんで過去形?」

「そういう意味だけじゃないのかもって、少し前に気づいたんですよ」

「へぇ、どんな意味?」

「いつか、教えてあげます」

「またそれ?ま、いいや。言うほど気になってもないし」

「気にしてないフリをしても、そんな簡単に口は滑らせませんから」

「ふむ。手ごわいね」


 ようやくいつものように会話をはじめてくれた久我崎さんは、机の上に置いてあったお母さんが持ってきてくれたジュースに口をつけた。また、顔色を伺うようにこっちの方をちらちらと見てくる。


「ところで、私の顔に何かついてる?」

「……いえ。なんにも」


 どうやら、今日の久我崎さんはずっと調子が変らしい。

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