追加契約
図書準備室で用事を済ませた私がプールにやってくると、他のみんながいつも通り泳いでいた。ぐるっと見渡したけど、今日は副会長は来ていない。それと、香原先輩も。
「すみません。遅れました」
プールサイドのベンチで泳ぐみんなを見ている磯辺先生に自分が来たことを伝えると、先生はぼーっとしていたのか、それとも泳ぐみんなを見ていたのか、ちょっとだけ驚いた後、笑って手をひらひらと横に振る。
「もう、律儀に謝らなくていいの。それに、遅れるって押切さんから聞いていたから。適度にゆるーくしてくれていたほうが、先生としても気楽なの。あっ、でも、はじまったら気を緩めすぎないこと。水の事故は油断が大敵なんだからね」
「はい、わかりました。ところで、香原先輩は?」
6コースあるプールは一つ空きに埋まっている。一人だけ身長が飛び抜けている籐堂さんはすぐわかったし、久我崎さんはバテてコースの端にもたれかかっているから、誰が足りないのかはすぐにわかった。
「今日は新城高校に行って、それからアルバイトがあるから部長はお休み」
「新城高校。たしか夏休みの学校対抗戦の……」
「そう。六校戦のね」
「六校戦?」
「その大会の通称よ。この周辺の6つの都立高校が集まるから六校戦。本当はもうちょっと長い大会名なんだけどね。今日はその大会にウチも出ますよーって挨拶に行ってるの。部長と生徒会長の二人で」
「籐堂先輩も?先生はいかないんですか?」
「む……、私が生徒に任せているみたいな言い方ね。違うのよ。この大会は基本的に各校の生徒主導で運営する大会だから、顧問はどうしても必要なところ以外は関与しないようにしているの。本来はわざわざ挨拶なんて行かないんだけど、ほら、ウチは今年再開したわけだから、それでね」
だから、改めて挨拶に、ということか。生徒主導だけど学校の看板も背負っているので生徒会長も一緒に、なんだろう。そういう役回りは面倒だなぁ……と思い、自分が次の部長になんて間違っても指名されないことを切に願った。
「でも、先輩も大変ですよね。練習に部長の仕事にアルバイトまで」
「えぇ……。週5でやってるらしいから、私も心配なのよ」
「そんなにバイト入れてるんですか!?なにか家庭的な事情で?」
「きっとそうだと思うけど、こっちが聞いても『大丈夫』で押し通されるから……。申し訳ないけど朱鷺乃さんたちも気にしてくれると助かるわ」
「はい。それはもちろん……」
いろいろと状況を飲み込んだところで、軽く準備運動をしてから久我崎さんの隣のコースに入る。プールに入ることには抵抗はほとんどなくなったけど、顔をつけるのは躊躇ってしまう。水面に映る固い自分の顔が波に揺らされてぐにゃりと歪む。
「少しは体力ついてきた?」
嫌な気分を払うために隣で息を整えている久我崎さんに声をかける。はぁはぁ、から、ふぅ……へと息遣いが変わり、少し落ち着きを取り戻した久我崎さんは、「まだまだ……ですね」と下を向いて答えた。
「久我崎さん、運動は十分してると思うから、食べる量増やすとかは?栄養つけないと体力もつかないよ」
「私の小学生の頃の話を聞いていて、それを勧めるとは……鬼ですね」
「少しくらい増やしたって変わらないよ。私も最近よく食べるけど全然つかないし」
「何事も人それぞれというのがあるんです。私が体型維持するのにこれまでどれだけ苦労したと思ってるんですか……」
「ごめん。でも、もう少し体力つけないとこの先つらいと思う」
夏休みになれば練習時間が増える。当然泳ぐ時間も増える。大会に出て自分の納得がいくような成績を出す、もっといえばその上の大会に出ることを目標とするなら、これくらいの練習でへばっているわけにはいかない。
まぁ、それは久我崎さんもわかっていると思う。だけど、その人の性格や考え方、これまでの人生によって折り合いがつかないことだってある。私が水に潜るのを躊躇うように、久我崎さんもたくさん食べるということを躊躇っている。人によっては「たかがそんな」って話かもしれないけど、当の本人には一朝一夕悩んだくらいじゃ解決なんてできない。
「そうですね……。じゃあ、私のコーチになってくださいよ。いえ、それはもうなっているので、この場合はトレーナーといったほうがいいですかね」
「……あのさ。どうしてそうなるの?」
「ほら、すでに教えてくれているわけですから、少しプラスアルファになるくらいいいじゃないですか」
図々しいことこの上ない。ちょっと下手に出ると調子乗る人いるよね。
「だいたい、それだと久我崎さんばかりもらってばかりで私が損してない?」
「それなら、私も教えましょうか。流行と他人受けを狙った服のコーデ、学校で先生に怒られない程度でかわいくなれるナチュラルメイクの仕方、うまく盛り上がれる友達との会話テクニック、気になる男子の落とし方などなど」
「あー、そういうのは間に合ってるんで。もう少し私に合ったのでひとつ」
「注文が多いですね」
ふむ……と右手を口に当てて、熟考しているような仕草をする。
「それでは、こういうのはどうでしょう。『一つだけなんでも言うことを聞く』というのは」
「漫画の読みすぎみたいなこと言うね」
「ふふっ。そうかもしれません」
「それにしても、ずいぶんと大きく出たね。いいの?とんでもない命令をするかもしれないよ」
「ぜひとも言ったことを後悔させてほしいですね。それで、乗りますか?」
「乗った」
本当はそんなギブアンドテイクみたいなことしなくても、手伝ってあげるつもりだった。素直に「いいよ」と言いたくなったのは……久我崎さんの性格が悪いからだ。そういうことにしておこう。
「そうと決まれば、善は急げですね。部活の後は何か予定ありますか?」
「特に何もないけど」
「それじゃあ、私の家に来てください」
「久我崎さんの家に……?」
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