暗い夜空を月が照らす ①
「笹川さんってさ。全国クラスだって聞いてたけど、大したことなくない?」
「雰囲気悪いよね。話しかけても態度そっけないし」
「上下関係わかってないよな、あいつ」
「親がすごいから調子乗ってるんだよ」
これが中学入学後の周りのイメージ。
「あー、もうっ!」
枕を壁に投げつける。ぱすん、と腑抜けた音がした。溜まったストレスはこれっぽちも抜けない。
この頃の私は自分の記録と成績に悩んでいた。でも、決して悪いわけじゃない。タイムを更新することもあれば、上位の成績を残すことも多い。ただ、それらのムラが激しかった。
良い日もあれば、悪い日もある。それは別におかしなことじゃない。だけど、それじゃダメなんだ。私は良いタイムを出し続けて上を目指し続けるんだ。そのためには何度も躓いてなんていられない。前に前に、上へ上へ。母がたどり着いたあの場所へ私も行きたい。絶対に行くんだ。
私は焦り始めていた。
中学生になったその日、私の目の前には15歳でオリンピックに出場した母の姿が巨大な壁として現れた。2年後の夏、そのすぐ先にあるタイムリミットが私の中にあるいろんな気持ちを駆り立てる。
そして、それは私の中からだけじゃなく外からも。
周りの大人たちは期待と話題性から、子どもたちは羨望と嫉妬の視線を浴びせられる日々。気にしないようにしようと思えば思うほど、それらが矢となって突き刺さってくる感覚に囚われてしまう。ひとつひとつは小さいけれど、振り払って泳ごうとしても心と体のあちこちに引っかかっては邪魔をしてくる。
違う。私はこんなことを気にするような人間じゃない。この先に進めばもっと大きくて、もっと重いものを背負うことにだってなる。だから、立ち止まるな。
……なんて強がっても、自分以外の誰かと向き合えなかったあの時のことを思い出すと、また頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していく。
悔しい。悲しい。頑張りたい。前に進みたい。なんとかしたい。速くなりたい!
そうちゃんと思っているのに、結果がついてこない。想いが実らない。
―――――
「今日は良かったんじゃないの」
「イヤミのつもり?」
「そんなことないよ。最近のタイムの中では良いほうだったよね?」
「私、去年2位だった。今年は5位。もう……全然ダメ」
「まぁまぁ、落ち込まないの」
「優勝した人に言われるのって、本当にムカツク」
「ふむふむ。悪態つく元気は残っている……と」
中学1年の夏、ジュニアオリンピック。全日程が終わって選手たちは着替えをしていた。真夏の一大行事を終えて肩の荷が下りたのか、更衣室は一際騒がしい。
そんな中、ショートヘアで細身の女子が私の隣で自分の手のひらを指でなぞり何かをメモする真似をしている。
中学に通う前からの知り合いだから先輩というイメージが持てず、基本的には変わらずにタメ口で話している。向こうがそういうことを気にしないというのもわかっている。
母以外に私が目標にしている人を上げるなら、この人しかいない。水泳が強い今の中学に通っているのも先輩の影響を受けてのこと。私より全然オリンピックに近いと思っているけど、本人は「うーん。どうかなぁ」とその気が無さそうな返事ばかりしている。飄々としていて読めない部分が多い人。
「それでは、次に向けて一言どうぞ」
「絶対に叩き潰す」
「瀬璃夜のそういう前向きなとこ、私は好きだよ」
「はぁー……。いいから早く着替える」
この人を前にすると、余計なことを考えているのが馬鹿らしく思えてくる。
誰もいなかったロッカーに人がやってきた。
今年になって大会で見かけるようになった子。小さくて、なよっとして、地味でちょっと暗そうな見た目。泳ぎは速いほうだけど、後一歩のところで決勝に届かないことが多い。
こっちが葉っぱをかけてもいつもきょとんとしている。まぁ、それは他のやつらに言っても同じだけど。
「なんで、悔しくないの?」
私より遅いからどうこう言っているわけじゃない。予選落ちなのに。前よりタイムが落ちてるのに。
そんな時でも、なんでいつもこの子は泳ぎ終わった後、あんなにも嬉しそうに笑っているんだろう。
「いや……その、私は……」
困ったような煮え切らないその態度。なんなの?
「ほーら、また他の子に突っかかって」
「痛っ!?白羽先輩、耳が千切れるから離してってば!」
突然、横入りしてきた白羽先輩に思い切り耳を引っ張られた。そのまま腕も捕まれながらずるずると彼女から引き離されていく。
私はただ聞きたいだけなのに。
「ほら。目、怖いよ」
姿見に映る私はいつもの私だった。たしかに怖い……かもしれない。
―――――
それからもタイムは縮んだり伸びたり、上位に入賞できる時もあれば、出来ない時もある、そんな状態が続いていた。『泳ぎの速い子』を目指すなら十分で、『オリンピックの出場選手』を目指すなら全然ダメな日々。
それが一年も続いて、周りも過度な期待なんてせず、私よりも断然実力のある白羽先輩に注目していた。そうなっていることにどこか安心している私が嫌いだった。
中学2年、夏のジュニアオリンピック。
私は表彰台に上ることも出来ず、あの子に勝つことも出来なかった。
悔しかった。負けたことじゃなくて、「今の私なら負けてもおかしくない」と思ってしまったことに。ここまで弱くなった自分に泣きそうで、でも、絶対にそうなってやらないと誰にも気づかれないように強く歯を噛み締めた。
「あの……笹川さん」
更衣室で、いつの間にか隣にいたあの子が話しかけてきた。向こうから話しかけられることなんて今まで無かったのに。というか、なんでこのタイミングに話しかけてくるわけ?少しは空気読んでよ、とそこまで思って、「あぁ、それ私のことか」なんて自虐をした。
あの子は緊張した様子で、恐る恐る、言葉を選ぶように考えながら。
何を言うんだろう。なんて言われるんだろう。
気づけば、自分も緊張していた。
「今日、楽しかったよ。笹川さんと勝負できて。また、勝負したい」
はじめてそんなこと言われた。
周りの子よりも速いから、「せっちゃんと泳いでも絶対勝てないよ」なんて言われることは何度もあった。その逆ははじめて。
「私だって……」
「うん」
「私だって絶対に負けないんだから!あーっ!!ほんとっ、悔しい!なんなの!?私に何が足りなかったの?1位を獲れなかったのも悔しいけど、あんたに負けたのがめちゃくちゃ悔しい!身長だって手だって足だって、ほら!私のほうが長いし大きいのに。それに私のほうがたくさん練習してるのに!」
そうだ。
私もこの子と泳ぎたいんだ。
泳いで勝ちたい。負けたくない。勝ち続けたい。だって、負けたら悔しいじゃない。私のほうが泳ぎが速くて、泳ぐのが楽しくて、泳ぐのが大好きなんだって、見せつけてやりたい。この子に。そして、私自身に。
そっか……。
私はあの時も、一緒に泳ぎたかったんだ。
彼女に泳げるようになってもらいたくて。泳ぐことを好きになってもらいたくて。
そして、あの時も今も、目の前にいる人と仲良くなりたくて。
「連絡先、教えて」
そう考えたらすぐに行動に出るのが私だ。
その名前を見て、私はワクワクしていた。
でも、あの子からの連絡はなかった。
こっちから連絡しようと何度か考えたけど、その手は伸びなかった。
どうしてもあの時のことを思い出してしまう。否定されることが、拒絶されることが怖い。私の見えないところから届く視線に怯えてしまう。
どうしようもないくらい、私は弱かった。
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