夜が来て、光を飲み込む ②

 9月1日。

 私が久我崎さんを水泳に誘った彼女の家の近くの交差点、そこが私たちの集合場所。夏休みが終わった後も変わらずに集まって一緒にプールに行く、私はそのつもりで彼女もそうだと思っていた。久我崎さんは一度帰って水着の入ったバッグを取ってここにやってくる。だから、彼女の家のある方向から歩いてくる影をずっと待っていた。

 何十分待っても彼女は来なかった。学校に来ていたのはちゃんと見ている。下校のタイミングもほとんど一緒のはず。私は気になって家に向かった。


 おばさんは私の訪問に少し驚いていた。今日はプールには行かないとそう言われたらしい。お母さんは「ちょっと待っててね」と困った様子で彼女を呼びに行った後、申し訳なさそうな顔で「体調が悪くて今日は行けないみたい」と私に言った。

 お見舞いの言葉を伝えて、一人来た道を戻る。仕方ないことなのはわかっていたけど、モヤモヤしたものが残っていた。すっかり当たり前になっていた彼女との習慣が不意に途切れたことに私はやり場のない苛立ちを抱いていた。寂しいという気持ちを誤魔化すように。


 翌日から彼女は学校に来なくなった。

 電話をしても出てくれない。家に行っても会ってくれない。

 部屋からほとんど出てこないし、家族の人も全然話せていないらしい。


 その理由がわかっていたから、当事者でもなければ同じクラスでもない私ははじめこそ彼女がいない隣の教室を静観していたけど、何週間経っても変わらない事態に業を煮やした私は彼女をいじめていたグループに詰め寄った。

 でも、みんなで口裏を合わせて「いじめていない」と、そう言われてしまったら、私がいくら責め立ててもそれ以上は何も起こらなかった。

 そんな悔しさで泣きそうなのを必死に堪えて隣の教室を出た私の耳に、教室の中からひそひそ話と笑い声が聞こえてきた。


「笹川さんと遊んでるんだね、って言った時のあの子の顔見た?」

「見た見た。すげぇビビッてて面白かったよな!」


 ……久我崎さんは私のせいで学校に来られなくなったんだ。

 


―――――



 同じ町に住んでいるんだから、こっそり遊んでいたって見つかるのはおかしなことじゃない。いじめられている子と仲の良い子が次のターゲットになるということだってあり得ること。

 クラスの中で私は好かれているほうだと思っているけど、それと同時に人より優れている部分がある、恵まれている部分がある私を妬んで嫌っている人がいることも知っている。きっとあいつらは久我崎さんに私もいじめのターゲットにすることを面白半分で示唆したんだ。

 他の人に迷惑がかかることを嫌がっていた彼女はそれを真剣に受け止めて、関わらないことで私に危害が及ばないことを考えた。

 

 でも、その結果がこれだなんて辛すぎる。


 私はこの2ヶ月くらいですっかり見慣れた久我崎さんの家の門をくぐって、インターホンを鳴らす。彼女が学校に来なくなってからも訪れて部屋の前まで行って声をかけたことだって何度もある。でも、一度も返事はなかった。


「ねぇ、こーちゃん。学校に行こうよ」


 どこかの木に止まっているひぐらしの鳴き声が聞こえる。

 ドアの向こうからは何も聞こえてこない。


「学校に行って、先生にちゃんと話そう。そうすればきっと変わるから。もちろん、私も一緒に話す。だから、大丈夫」


 鳴いて、止まって、また鳴いて。たったひとりだけの重ならない音色は、夏の終わりを告げていた。


「そうしたらさ。一緒に勉強しよう?ほら、前に話したよね。私、私立の中学行くって。こーちゃんも一緒に行こうよ。おばさんも『良いわね』って言ってたよ」


 プールの授業も終わった。私たちの小さな願いはもう叶わない。

 でも、ひとつ叶わなかったくらい、なんだ。


「もし、私に迷惑かけるんじゃないか、って思ってるんだったら全然気にしないで!あいつらがどう思っていても、何をしてきても私は大丈夫だから」


 トン、とドアに何かがぶつかった。


「違う……」

「こーちゃん?」

「大丈夫なわけないよ!すごく怖いんだよ!?すごく不安になるんだよ!?明日は何されるんだろう。なんて言われるんだろう。毎日学校行くのが怖いの!でも、自分だけなら大丈夫。我慢できるから。でもね!私のせいで私以外の誰かが、私の友達が……せっちゃんが少しでも傷つくのはイヤ!もし、せっちゃんが強くて気にしないんだとしても、私はせっちゃんが嫌なことをされるところを見たくないし、聞きたくないよ!」

「だ、だから、私は大丈夫だよ?弱いところなんて見せないから」

「せっちゃんはそう思っているかもしれないけど、本当にそうなったらわかんないよ。たしかに私がされていることなんてせっちゃんから見たら大したことないのかもしれない。怖がらないでイヤだって言えばいいって思うかもしれない。でも、それはせっちゃんが自分のことだけしか見えてないからだよ!!」

「自分のことだけ……だなんて……」

「こんな時、相手は、あの子は何を思っているんだろう。みんなはどんな風に私を見ているんだろう。そんなこと少しは考えないの?周りのことを気にせず、自分の気持ちに素直になれるのはすごいことだよ。でも、少しは周りを見てよ!どうしても弱い人がいることに気づいてよ!」

「こーちゃん……!」

「よく知らない子についてこられて、いきなり一緒に泳ぎの練習しようなんて話しかけられて、勝手に目標決められて、すごくイヤなのに学校行こうなんて言われて、せっちゃんは私のこと全然考えてくれてないじゃん!」

「…………」

「私はもうダメなの!だって、だって、せっちゃんが……!」


 ダメだ。

 そう思ったときには足が勝手に動き出していた。

 廊下を駆け出して、慌てているおばさんに「ごめんなさい」と謝って、家の扉を開けっ放しにしたまま彼女の家を後にした。


 私がいたから、私が友達になったから、優しい彼女は立ち上がれなくなってしまった。もしかしたら、私がしていたことは迷惑だったのかもしれない。私が話しかけたのはいけなかったのかもしれない。そんなことばかりで頭の中が埋め尽くされる。

 だから、もしも……それ以上彼女の口からなにかを聞いてしまったら、

 

 元には戻れなくなってしまうような気がした。

 だから、私は逃げた。



―――――



 その翌週の水泳大会で、私は予選落ちした。

 都内規模のそこまで大きくない大会で、私の速さだったら上位に入賞して当たり前のレベルだった。

 落ち込む私に両親は「こんな時もあるよ」と頭を優しく撫でてくれた。

 だけど、私はそんな手のひらの温かさよりも、「どうして勝てなかったのか」と私を眺める周囲の冷たい視線が気になって仕方なかった。

 本当にそう周りが思っているかどうかなんて、聞いていないからわからない。でも、あの頃の私の目にはそう見えた。慰めや励ましの言葉をもらってもその裏側を勝手に探してしまうようになっていた。


 怖くて、不安で、何かに怯えていた。

 今ならきっと気持ちがわかる。だけど、勇気づけたいあの子も、きっと励ましてくれるあの子も、もう私の隣にはいなかった。

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