夜が来て、光を飲み込む ①

「じゃあ、あの子と久し振りに会えたんだ。私は気づかなかったけど、大会出てたんだね」

「大会は出てなかった。今日は見に来ただけで」

「それって、どういうこと?」


 陽がだいぶ傾いたバスの中、私の隣に並ぶ白羽先輩がその返答に首を傾げる。私はあいつ、朱鷺乃深月と会ったときに聞いたことを先輩に話した。さすがに泳げなくなったこととその理由は伏せて。先輩もあえてなのか、それについては探ってこなかった。


「ふーん。まぁ、また大会で会えるなら良かったじゃない。これで、ウチのエースの本気も見れるわけだ」

「私はいつだって本気だから。それにウチのエースは先輩でしょ」

「私はほら、『日本の』を目指してるから。『海栄高校の』は瀬璃夜にあげる」

「嫌味を通り越すくらいスケールが大きいうえに、先輩なら実現できそうなのがむかつく」

「そんな先輩に勝った後輩が何を言うの」

「私は一度勝っただけで上に立ったと思い上がるほど馬鹿じゃない。10回戦って10回全部勝ってようやくそういう気持ちになれるの」

「後9連勝だ。がんばって」

「そんなつもり全然ないくせに」

 

 先輩は海栄の水泳部では一番速い。去年のインターハイにも出場して自由形の50mと100mで3位を獲っている。私が小さい頃から追いつこうとしている人。そして、今日その高い壁に手がかかった。とはいえ、運良く出来たくらいにしか思ってないから、まだまだこれから。でも、その一勝が本当に嬉しかった。

 それと同時に何かが足りないと思っていた。その答えはそれから1時間もしないうちに見つかったけど。


「ところで、瀬璃夜はなんであの子をそんなに気にしてるの?」

「それは私があいつの影響を受けたから、なんかこう……気になって」

「あの子と出会って人生が変わった、みたいな?」

「うん。そんな感じ」

「さらりと言えるのが瀬璃夜らしいね」

「そういう意味だと、二人いるかも。私を変えた人」

「……二人も!?」



―――――



「6年生の笹川瀬璃夜さんが2位を受賞しました。本当におめでとうございます」


 9月、新学期の全校集会。校長先生が夏休み中の私の大会成績を発表した。体育館の壇上にいる私に向けられた全校生徒の拍手が波のように耳に響く。

 ジュニアオリンピック自由形50m第2位。日本中の同年代の中で2番目。嬉しさに自然と顔が緩んでいた。教室の自分の席に戻るとクラスの友達が集まってくる。

 

「せっちゃん、すごいねー!おめでとう!」

「えへへ……ありがと!」

「笹川のお母さんもオリンピックに出たんだろ?親子でオリンピックとかすげー!」

「私が出たのとお母さんが出たのは違うよ。お母さんが出てたのは世界中の人が出るもっと大きな大会で3年後にやるの」


 母は昔、15歳にしてオリンピックで銅メダルを獲ったその当時有名な水泳選手だった。その後も引退までにオリンピックや世界選手権にも何回か出場して数々のメダルを獲った。父は元水泳選手で母のコーチもやっていた。今、父は大学で水泳チームの監督、母はインストラクターの仕事をしている。私にとって自慢の最強最高な両親。

 そんな両親に憧れた私も小さい頃から水泳選手を将来の夢に掲げていた。当然、二人とも喜んで全面的に応援してくれた。

 私は水泳が大好きすぎて、毎日水泳のことばかり考えていた。練習をやりすぎて二人からたまに止められていたくらい。

 水泳は楽しい、面白い。水泳だけやる人生だったらいいのに。

 そんな夢中になっていた私は学校で水泳の授業があったある日、一つの疑問を持った。


 こんなに水泳は楽しいのにどうして嫌いな人がいるの?



―――――


 

 小学校高学年になると、水泳の授業を休んで見学している子がちらほら増えるようになった。それは体調不良だったり、女の子ならではの理由だったり、単にサボりたくて仮病を使ったり、人それぞれの理由だから仕方ないけど、私は『もったいないなぁ』と思っていた。


 6年生の7月。私が壇上で表彰された2ヶ月前。水泳の授業中、私は太っていて他の子からいじめられている女の子が見つけた。水泳の授業は男女別々で他のクラスとの合同なので、名前の知らないその子は私とは別のクラスの女の子。水泳の授業が来る度に更衣室の端で隠れるように着替えているところを囲まれて笑われたり、プールの中でわざとぶつかられたり、ひどい時は先生に見えないように蹴飛ばされていた。

 私はいじめているやつらが許せなくて、女の子にあの子たちを怒ってくると言ったけど、その子は指で私の水着を小さくつまむと「それはやめて」と首を振った。そんなことしたら余計にひどくなるだけで、かばった私にも迷惑をかけてしまう、と。

 泣きそうな顔でそう訴えられた私はその子を助けてあげることができなかった。「一緒にいるとあなたもいじめられるから」とその子は私から離れて、また一人になってしまった。

 なんとかしたいと思った私は放課後、寂しそうに通学路を歩く彼女の後をつけて、私たちが一緒にいることを誰にも見られない状況になったのを見計らって声をかけた。


「ねぇ、あなた!」

「ひゃいっ!?」


 地面にぶつかったボールみたいに女の子の体がポーンと跳ねる。振り向いた彼女は私の顔をしばらく見た後、何かを思い出してはっと表情を変えた。


「あっ、水泳のときの……」

「笹川瀬璃夜。よろしくね」

「あの……さっきも言ったけど、私と一緒にいたら……」

「今は誰もいない。だから心配ないよ。あっ、そうだ。あなたの名前聞いてなかった。なんて言うの?」

「久我崎洸です」

「ねぇ。久我崎さんは水泳が嫌いなの?」

「えっ!いきなりどうして……?」

「嫌いなの?」

「嫌いというか、イヤというか……。私太っててそれに泳げないからいつもよりバカにされるの。本当は授業に出たくないけどズル休みは良くないから……」

「そっか!そうなんだ!」

「なんで嬉しそうなの?」

「だって、久我崎さんが泳げるようになれば解決するよ!泳ぐのってすごくカロリーを消費するの。だから、泳げるようになるためにたくさん練習すれば、泳げるようになって痩せられる。ほら、そうしたら全部解決!」

「そうかなぁ……」

「絶対にそう!だから、私と一緒に泳ぎの練習しようよ」

「えぇっ、笹川さんと!?」

「そのために久我崎さんに話しかけたんだけど。私じゃ、イヤ?」

「そうじゃなくて、なんで私なんかにそこまでしようとしてくれるの?」

「久我崎さんに水泳を好きになってほしいから」


 そう強く答える私を見て彼女はぽかんとしていた。そうなる理由も今ならわかるけど、あの頃の私は今以上に水泳バカだったから、それで本当になんとかなると思っていたから。そして、水泳を好きになってほしいと思ったから。なんの迷いもなくそう言い切って、私は彼女の手を取った。


 それから、週末は久我崎さんと近くの区民プールで泳ぎの練習をするようになった。久我崎さんは本当に泳ぎが下手くそで、どうしてそんな動きになるのか私もわからないくらいのダメっぷりだった。おまけにすぐに体力が無くなってギブアップする。私はイライラしたり呆れたりすることもあったけど、そういう時は母が私に優しく教えてくれていたことを思い出して頑張って真似てみた。


 夏休みになると練習の後は久我崎さんの家に行って宿題をするようになった。私はちょっと勉強が苦手なので彼女に教えてもらうことが多かった。今日の分が終わると彼女の部屋で漫画やドラマを見ながら雑談。部屋の本棚には少年向けから少女向けまでいろんな漫画が並んでいた。漫画なんて興味がなかったから、私は物珍しさであれこれと読みふけって、その度に帰りが遅くなって母に怒られた。

 花火をしたり、キャンプに行ったり、彼女の家でお泊りもした。私がジュニアオリンピックで2位を獲ったときは私たちの家族総出で祝勝会もやった。

 8月の終わり。新学期が来るのを嫌がる彼女を説得したら、「せっちゃんが言うなら……」と勇気を出してくれるくらいには私たちは仲良くなっていた。彼女の頑張りのおかげで水泳も少しずつ泳げるようになったから、残りの水泳の授業が終わるまでに少しでも自信をつけてもらえるように私も頑張ろう。そう自分の中で意気込んでいた。


 だけど、その日はやってこなかった。

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