昇った月は夜に出会う

 笹川さんは別のスイミングスクールに通っている子で、初めて会ったのは中学1年生の6月に参加した大会だ。自由形の決勝で一緒に泳いだけど、コースは互いに両端だったから、会ったというよりは同じ場所にいたという方が正しくて、その時は目すら合わなかった。だから、意識なんて全然してなかったし、名前だってその時は知らなかった。

 ところが、その年の8月に開かれたジュニアオリンピック。更衣室で水着に着替えようとしていた私に笹川さんが突然話しかけてきた。


「あんたが朱鷺乃深月ね。覚悟しておきなさい」

「えっ?あ……はぁ……」


 呆気に取られた。『覚悟って何を?』という前に、こっちからすれば『あなたは誰?』と言いたいくらいだ。その後、彼女は私以外のいろんな子に同じようなことを宣言していたので、変な挨拶ということにして気にするのはやめておいた。世の中には変わった人がいるというのは、一年前に知っていたから。


 大会ではたしか私が軒並み予選敗退で、笹川さんは自由形の50mと100mで決勝進出していた。名前はこの時、電光掲示板に映っていたのを見て知った。決勝に進めなかったことは悔しかったけど、それ以上に大きな舞台に出られたことが嬉しくて、私は終始ご機嫌だった。

 大会が終わって着替えていると、また、笹川さんがやってきた。最初に話しかけてきた時より引きつった顔で彼女はこう言った。


「なんで悔しくないの?」


 私としては悔しかったし、次は決勝行けるようになりたいと心の底から思っていた。明日からまた練習がんばろうとか、どこを変えればもっと良くなるかなとか、そんなことを考えながら着替えていた。だから、彼女の言っている意味がさっぱりわからなかった。


「いや……その、私は……」

「ほーら、また他の子に突っかかって」

「痛っ!?白羽先輩、耳が千切れるから離してってば!」


 困惑していると、知らない人が助けてくれた。その頃はよく知らなかったけど、彼女は雑誌や新聞のインタビューを受けるくらい有名な選手だった。今は都内で一番水泳が強い高校に通っている。今日の決勝レースにも出ていた白羽さん。笹川さんとは中学も高校も同じなことになる。


「だーめー。罰として先輩の3位入賞を全力で祝うこと」

「それは罰とか関係なくお祝いするから!いたたたた……」

「うちのこわーい後輩がごめんね。たしか朱鷺乃さん、だよね?良い泳ぎ方だったよ。もう少し体を浮かせたほうがいいかも」

「体を、浮かせる……」

「そうそう。自分が泳いでる姿をちゃんと見ると掴めるかもね」

「今度ビデオに撮ってもらって見てみます。あ、ありがとうございます!」

「というわけで私たちはこれで。また次の大会で会おうね」

「今度こそ、私なしじゃいられないようにしてあげるんだからね!」

「はーい。真剣な顔で恥を撒き散らすのはこれまでにしてね」

「先輩っ!だから、耳は……あいたたたっ!!」


 ちょっとした嵐だった。……いや、ちょっとじゃないか。


 その後も大会で会うたびに、私に突っかかってきては、「ここで会ったが100年目!」とか「死ぬ気で私にかかってきなさい」とか「いつもあんたのこと考えていたんだから」とか、自分の耳(と彼女の頭)を疑いたくなるような言葉をかけてきた。ドラマや漫画じゃなきゃ使わないような言葉ばかりで、3つ目なんてもう告白の言葉に近い。会った頃はいろんな人に宣戦布告していたのに、気づけば私くらいにしかしてこなくなっていた。なんでなのかはよくわからない。本当になんでだっただろう……。

 そんなかなり変わった人である笹川さんだけど、泳ぎに関しては見習うべき点が多くて、私もなんとなく目で追ってしまっていた。タイムが近くて、大会では勝ったり負けたりを繰り返す。競い合えるのが楽しみで、ライバルとして意識するようになっていたんだと思う。ちゃんと話してみようと思ったこともあったけど、なんかこう……圧が強いというか、ガンガン喋ってくるから、自分から話しかけることが苦手な私はどうしてもいつも押され気味で、いつも私たちの会話は一枚の壁を挟んでやり取りしているようなどこか気持ちの通じていないものになっていた。


 中学2年の夏。私にとって2度目のジュニアオリンピックの日。初めて笹川さんに話しかけられた時と同じ更衣室。あの時と違っていたのは笹川さんも私も決勝に進んで、決勝で私が笹川さんに勝ったこと。

 表彰式が終わって、着替えようと更衣室に入ると、もう先に笹川さんがいた。他の子たちが友達同士で話している中、笹川さんはただ黙々と着替えている。表情は見えない。きっと悔しいんだと思う。


 ……話しかけてみようかな。


 ふと、そんなことが頭の中を過ぎった。

 だけど、勝ったほうが話しかけるのはイヤミっぽくないだろうか。彼女はきっとプライドが高そうだから怒らせてしまわないか。そもそも、なんて声をかけたらいいんだろう。


「あの……笹川さん」


 気がつけば彼女を呼ぶ声が勝手に口から飛び出していた。運良く、それとも運悪く、その声は彼女の耳に届いてしまったようで、「なに?」と振り向かれてしまった。あまり感情のこもっていない彼女の声。


「今日、楽しかったよ。笹川さんと勝負できて」


 彼女はいつも真剣に泳いでいた。私よりも本気で、私よりも全身全霊で。水泳にかける想いが私とは絶対的に違うんだって思えるほどに。

 だから、笹川さんの求める答えを私は伝えることができない。だって、私は彼女と同じ想いを持っていないから。彼女の本気と私の本気は大きさが違う。彼女の覚悟と私の覚悟は重さが違う。彼女の熱意と私の熱意は温度が違う。

 じゃあ、私は何を伝えればいいんだろう。


「また、勝負したい」


 答えは簡単だった。私は泳ぐのが楽しくて、泳ぐのが好きで、だから、今ここにいる。そして、笹川さんと泳ぐのが楽しくて、その時間が好き。そう言ってみればいいんだと。


「私だって……」

「うん」

「私だって絶対に負けないんだから!あーっ!!ほんとっ、悔しい!なんなの!?私に何が足りなかったの?1位を獲れなかったのも悔しいけど、あんたに負けたのがめちゃくちゃ悔しい!身長だって手だって足だって、ほら!私のほうが長いし大きいのに。それに私のほうがたくさん練習してるのに!」

「あ……うん……そうかもね」


 笹川さんにまくし立てられて、すっかりお馴染みの構図に。ちょっと侮辱されている気がしなくもないけど、私にはまだ反論できるパワーが足りない。さて、どうしようと私が困っていると、彼女はロッカーに手を伸ばし、スマホを掴んで手を私のほうに伸ばした。


「連絡先、教えて」

「……私の?」

「当たり前でしょ。ほら、ここ、開放日は泳ぎに来れるんだし。私は早くあんたに勝ちたいの。だから、空いてる日教えてよ」

「あ、あぁ……そういうことなら」

「じゃあ、予定わかったら連絡するね」

「さっさと教えて、私にリベンジさせてよね」

「む……。今度も負けないから」

「臨むとこよ。首を洗って待ってなさい」


 先に着替え終えた笹川さんがバッグを持って早足で出て行った。やっぱり今日も彼女とのやり取りは嵐のようだった。


 笹川ささがわ瀬璃夜せりや


 私は少ない連絡先リストに増えたその名前をしばらくぼんやりと眺めていた。家族以外のをこんなにも意識したのは、これがはじめてのことだった。


 次も、勝つからね


 心の中でぐつりと滾ったその気持ちが私の新しい泳ぐ理由になった、そんな気がした。熱くて、ドキドキして、この先が待ち遠しくなる、そんな不思議な感覚が私の体温を上げていく。来年はきっと二人であの表彰台に上る、そんなイメージがふと湧いてきて、恥ずかしくなって周りに気づかれないように一人で小さく笑った。



 けれど、私が笹川さんに連絡することは、それから一度もなかった。

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