都大会。一年目。 ①

 6月最後の日曜日。天気は晴れ。千切れた綿菓子が頭の上を流れていく。真夏と呼ぶにはまだ少し早い。それでも、みんなの夏はここからはじまる。笑って、泣いて、輝いて。青く透明な世界を駆ける、たった一度の今年の夏。

 楽譜の上を跳ね回り曲を奏でる音符みたいに左から右へと波が舞う。ざぱん、たぱん、と会場に響く一定のリズム。色とりどりのメガホンからは十人十色の風が吹く。巨大な電光掲示板が上のほうから、ぱっ、ぱっ、と瞬くと一際大きな音の渦が生まれた。

 

「わぁ……歓声、す、すごいですね」

「屋内だからやたらと響くねー。おー、大会新記録だって」

「400mなんてよく泳げますよね……」

「洸ちゃんはその10分の1も大変そうだもんね」

「そんなことないです。100mは泳げます……バタ足なら」


 私たちが来ているのは東京都の湾岸部にある屋内水泳場で、学生の大会から世界選手権まで開催されている水泳選手にとっては登竜門であり聖地みたいなお馴染みの施設。プールの幅は縦50m、横25m。学校のプールに慣れていると、ゴールが水平線の彼方にあるように感じる。深さは1.4mから3mまでの可動式、中心に近づくほど少しずつ深くなるから、私の身長だと立つことができない。プールの隣には高さ最大10mの飛び込み台と水深5mのダイビングプールもある。こちらも大会用。あの高さから下を見たら……想像しただけで震える。

 大会用の50mプールは大会が無い日であれば、市民プールと同じように一般の人でも泳ぎに来れる。私も中一の頃は何回か泳ぎに来ていた。


 そんな場所で今開かれているのがインターハイの水泳競技の東京都大会。この大会で規定タイムをクリアして上位に入賞すると関東大会、全国大会へと進むことができる。屋内なのでこの会場では秋や春にも高校生の大会はあるけど、全国まで進める大会はこの夏の大会だけ。だから、どの部活もこの大会に向けて当然力を入れてきている。

 

 暑さに負けない熱量がこもったこの空間で、私たちは大会に参加することも出来ず、ただこうして部外者として眺めている。とはいえ、まだ出来たばかりの私たち水泳部にはそれを悔しがるプライドも、次こそはと希望も抱けるほどの熱意もまだ持ち合わせていない。だから、今の私たちは本当にただの観客でまだスタートラインにも立っていないんだと思う。

 数日前は、覚悟しないと、なんて思っていたのにいざ来てみるといたって普通でいられる自分に、薄情だと昔の私は責めるのか。それとも、良かったと安心してくれるのか。

 だから、きっとあの頃の私と今の私では、何かが違うんだ。中学生の時、表彰台に上れなくて悔しかった私と、あの日、家で久我崎さんと話した私。どっちも、勝ちたい、と願っていた。あの頃は自分よりも早い相手で、今は、たぶん……。


「あの、朱鷺乃さん?」

「……ん?あぁ、ごめん。えっと、何?」

「ぼーっと考えごとですか?」

「ちょっとね」

「ふーん……そうですか」


 久我崎さんが興味なさそうな相槌を打つ。たぶん私が昔のことを考えているのはわかっていて、あえて聞かないように振舞ってるんだろう。


「そうそう。次の種目が個人メドレーなんですけど、あれってどういう順番で泳ぐんでしたっけ?」

「バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールの順」

「朱鷺乃さんは全部いけるんですか?」

「昔は一通り泳げたよ。バタフライはちょっと苦手だったけど」

「さすが……!」


 え?なに、その羨望の眼差し。今まで見たことないくらい輝いてる……。


「泳げる人なら4種類泳げるのなんて普通だよ」

「泳げない人からすれば4種類も泳げる人なんて人外みたいなものですよ」

「褒めてるようで褒めてないように聞こえるけど。それと、昔は、だからね」

「でも、泳ぎ方は覚えてるんだから、教えることはできますよね」


 カナヅチから個人メドレー泳げるようになる、か……。まぁ、出来なくはない。それにしても、久我崎さんの目標設定は下手くそにしてはかなり高めだ。ちょっと無茶じゃない?って思いたくなるくらいに。


「……まずは、クロールできるようになってからだね」

「がんばります!」


――第2コース。……さん。……高校――

――第3コース。……さん。……高校――


 ふんぬ、と鼻息強めに左手で小さくガッツポーズ。がんばってね、と小さく声をかけると私の声をかきけすように場内アナウンスが流れる。レースに出場する選手と高校名の紹介だ。大会は両日、午前中に予選をして、午後に午前でやった種目の決勝、というスケジュールになっている。今は女子個人メドレー200m決勝。


 選手は全8コースにそれぞれ並ぶ。真ん中のコースに近い選手の方がタイムが早く、第一、第十に近づくほどタイムが遅い。遅いといっても決勝に出場するクラスなのでもちろんみんな速いし、タイム差だって十分の何秒、場合によっては百分の何秒の世界だ。


――第4コース。白羽さん。五大海栄――

――第5コース。笹川さん。五大海栄――


「へぇー、予選トップが二人とも同じ高校なんだ」

「さすが海栄ね」

「先生。そこって強いの?」

「五星大学付属海栄高校、略して五大海栄とか海栄って言われてるわ。有名大学の付属高校のひとつで、東京都の水泳部の強豪校。都大会の男子と女子の総合優勝は50年連続。もちろん、全国大会に進む選手も多いの」

「総合優勝?水泳って個人競技ですよね?」

「運動会みたいに各種目で1位は8点、2位は7点と順位ごとに点数を割り振って、合計得点の多さで総合優勝を決めるの。もう!部長なんだから少しくらいは勉強しておきなさい」

「はーい。じゃあ、50年間ずっと速い選手が集まり続けている高校ってこと?」

「そういうこと」

「うひゃあ~……」

 

 そうこうしているうちに全員の紹介が終わり、ホイッスルの合図で選手達が飛び込み台に上って前屈の体勢になる。台の淵に手足をかける。ぐっと手足に力を込めて、ブザー音と共に一斉に水面へと飛び込んだ。すらりと伸びた手足が吸い込まれるように水の中へと姿を隠し、加速度を増しながら浮上。激しい水飛沫を飛び散らせながら、泳いでいく。雄々しく両手を広げ、体は浮かんでは沈む。バタフライのダイナミックな泳ぎに合わせて、各校の声援が会場に広がる。

 50mを折り返す。順位は第5コースが1位、第4コースが2位。今度は背泳ぎでその次は平泳ぎ。その間も順位は変わらず、最後のクロールは2位と3位の差がさらに開いた状態でゴール。海栄のワンツーフィニッシュでこのレースは幕を閉じた。


「一年生であれだけ速いってすごいね、あの子」

「世界が違う……って感じがしました。あんな風には、私はとても……」

「まぁまぁ。他所は他所。ウチはウチ。出来たてホヤホヤの新米水泳部は私たちなりにやっていけばいいんだよ」

「それにしては部長。随分と食い入るように見てたよね」

「さすが華江ちゃん。そりゃ、部長ですもの。あんな風にウチの部も活躍したいなーなんて欲は持っちゃうさ」

「あぁ……まぁ、それはわからなくもないけど」

「やっぱり向上心あるよね」

「多少は」

「よろしい、よろしい」


 彼女たちの泳ぎを見て、先輩は、押切さんは、籐堂さんは、何を思ったんだろう。


「ホント、すごいですね……」


 あの子がゴールをした瞬間、明るい表情をしていた久我崎さんは何を思っていたんだろう。


 そして、私は……


 

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