はじめての ①

「ごめん、みんな。ちょっといいー?今日の部活なんだけど、早めに終わってもいいかな?」


 香原先輩がプールサイドに上がっていた。時刻は17時を少し回ったところ。日が暮れるにはまだ早すぎる時間で、校庭は変わらず賑わっている。


「私、バイトやってるんだけどね。店長から今日は早めにシフト入って欲しいって頼まれちゃって……。部活のほうも、今は先生がいない時は私が必ずついているのを約束しちゃっててさ。うん……私は大丈夫だと思っているんだけどねー」


 間違いなく私のことが原因だ。

 先輩は明後日の方向を向いて、たはは……と笑っている。それがどういう意味なのかは理解しているから、私は黙っていようと思った。何か言葉を紡ぐにしても今の私じゃまだ足りてない。

 三人が『大丈夫』と答えたり頷いたりしていたので私も頭を小さく下げる。先輩は『ごめんねっ!』と頭を下げた。



―――――


 放課後でももちろん冷房がしっかりと効いた職員室。先生たちはみんな期末試験の準備やらこれから本格的なシーズンを迎え始める受験のことで忙しそうにしていた。私と久我崎さんはノートパソコンとプリントの束を交互に相手している磯辺先生の下へと向かった。先輩は一足先に帰ってもらっていて、他の二人は外で待機中。


「そういうことね。わかったわ。今日もお疲れさま」


 先生にプールの鍵を手渡す。指の先がちょこんと触れた先生の手のひらはソフトクリームみたいに柔らかくて冷たかった。受け取った鍵を机に置くと手のひらを2、3回擦り合わせる。


「あ、そうそう。連盟にウチの高校とみんなのこと申請しておいたわ。今週の大会も観覧は出来るけど、行く?」

「はい、もちろん!」

「朱鷺乃さんは?」

「えっと……はい」

「二人にも予定が無かったら来てもらうように話しておいてくれる?あっ、私の都合で申し訳ないんだけど、日曜だけでも大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ、時間と集合場所は前日までに決めておくわね」


 先生は卓上カレンダーに赤丸を書き込む。きゅっと鳴る油性マジックの音に反応して、少し身が引き締まる。横目で隣を覗くと久我崎さんは左手だけ握り締めていた。



―――――



「「失礼しました」」


 職員室の扉を閉めるとまた夏の暑さが襲ってきた。6月でこれだったら8月にはどうなるんだろう、なんて去年も考えてまた来年も考えそうなことが頭をよぎる。

 二人にさっきの話をすると、二人とも二つ返事で頷いてくれた。


 一階に降りると、選挙活動をしている籐堂先輩たちに遭遇した。今はいろんな部活を回っているらしい。先輩の両隣には2年生の女子生徒と3年生の男子生徒が紙束を持っている。上履きの先端部分の色で学年の違いは見分けられる。今年の2年生は赤で3年生は緑、私たち1年生は青、と言った風に。

 二人の先輩は私たちに持っている紙束から2枚ずつ取って私たちに渡してくれた。今朝の演説で言っていた公約が箇条書きで記されたもの。文に目を通していると、隣でくしゃっと紙が折れる音がした。籐堂さんが二つ折りにした用紙を鞄の中に突っ込んでいた。うまく入らず斜めに大きなシワが入る。籐堂さんは気にすることなくそのまま手で押し込んで鞄のファスナーを閉じる。

 私はその音をごまかすように「応援してます」と籐堂先輩に声をかけると「ありがとう」といつもの優しい声で返事をしてくれた。ちっともごまかせてなんていないけど。

 そのまま笑顔で手を振る先輩たちと別れて、玄関の下駄箱からローファーをこコトンと床に落とすと、


「あの……!」


 と、まだ一人廊下に立っていた押切さんが何か意を決したように声を絞り出す。


「よ、良かったら、この後……みなさんでお茶でも、しませんか?」

「うん、いいよ」


 ひとつ奥、別のクラスの下駄箱からもふたつの声が聞こえてきた。押切さんはちょっぴり赤くなった頬を隠すように顔を伏せている。……じゃなくて、顔を伏せて頬を赤くしていた。みんなを誘うだけなのに告白みたいに緊張しているのはなんだか微笑ましいなぁ、などと上から目線で思いつつ、そういえば、放課後に友達と遊びに行くのって何年ぶりだろう……なんてことを考えて凹んだ。

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