つめたくて、あたたかくて②

 小学校の水泳の授業で最初にやったのは、ビート版を両手に持ってのバタ足。ばしゃばしゃと荒っぽい音を立てて、人の輪をつくりながら延々と泳いでいた。私は前の子に追いつかないようにしながら、ちょっと不貞腐れていた。

 でも、こういう初歩的な練習はとても大事で、適当に気を抜いてやっていると後々に響いてくる。だから、本格的に水泳を始めてからはどんな練習も真剣にやっていた。前で泳ぐ遅い子を右側から追い越すと後で冷めた目で見られたけど、気にする素振りなんて見せないでやった。


 前から泳いでくる久我崎さんがすれ違い様に自慢げな顔を私に向ける。目はゴーグルをしているから見えないけど、口角が不自然なくらいに上がってた。

 あぁ……あの時の子の気持ちが今ならわかる。練習ごときで調子乗ってるやつがいたら、確かになんとなく気に食わない。たかがバタ足。されどバタ足。でも、やっぱり所詮はバタ足。クロールでクイックターン決めて100m泳ぎきれるようになってからその顔見せてみろ……なんて、今の私には思う権利すらない。

 震えと怯えはなくなったけど、不安だけはずっと残っていた。

 絶対に手から離れないようにビート版をぎゅっと握り締めて体に引き寄せる。早く25mを泳ぎきりたい。いざとなったらコースロープにしがみつこう。

 泳いでいるときって、こんなに考えること多かったかな?


「これで50m6本……!これ、後、2セットもやるんですか?」

「うん、今日の練習メニュー」

「うっはぁ……きついですね……」


 久我崎さんがプールサイドに置かれているウォータージャグの蛇口を捻って、コップにスポーツドリンクを注いで勢い良く飲み干す。私もそれに倣ってコップに口をつけた。冷たい水の中でも汗はかくから、適宜の水分補給を怠るのはよろしくない。ドリンクは粉末のもので磯辺先生がポケットマネーで用意してくれた。先生本人は今日は職員室で期末テストの準備中。

 顧問の先生といっても、本来の業務もあるし、先生によっては顧問を兼任していることもあるから、大会や合宿以外の通常の部活動は参加することのほうが珍しい。その代わりに昔からある部活ではOBやOGがコーチとしてくれるので、生徒の監督役も務めているらしい。先生の話では今は距離を置いているみたいだけど、水泳部にもそういう人たちはいるからいつか会うことになるのかな。


「ところで、朱鷺乃さん」


 私が中身を全部飲み干したのを見計らっていたのか、コップを置いたタイミングで久我崎さんに声をかけられた。


「楽しいですか?」

「まだ慣れないけど。うん、それなりに」


 楽しくない。


「また、泳げるようになれそうですか?」

「頑張って今年中には復帰したいな」


 たぶん、無理だ。


 泳いでいる間、ずっと何かあったときのことを考えていた。この前みたいなことにはもうなりたくないと、そう思って必死に足を動かすほど、心の余裕も一緒に私の外へ掻き出されていく。さっきは自信が出来たのにまたすっぽりと抜け落ちてしまった。蹴り上げても押し出しても違和感はまとわりついて離れてくれない。

 やっぱり、あの頃みたいにはもう戻れないんだ。


「そんな朱鷺乃さんに私がレッスンしてあげましょう」

「うひゃあっ!?」


 そう言うと、ぐわりと私の背後に回った久我崎さんは私の両脇に差し込んで、私の体を持ち上げた。両足が床を離れる。そのまま後ろに引っ張られて、体が倒される。後頭部が水に当たる音がした。私は思わず目を閉じる。

 ……なにかが私の頭に当たっている?

 仰向けに倒された体は水面に浮いて、開いた視界には真っ青な空と女の子の笑顔が映っていた。


「ほら、こうすれば顔も浸かないし、溺れずに泳げますよ」


 下手くそなウソは案の定見抜かれていみたい。

 私は頭の部分だけを久我崎さんに支えられた状態でプールの上に浮かんでいた。久我崎さんの両手と両胸に支えられて。


「で、これは何かの嫌がらせ?」

「なんのことでしょうか?」

「わかってるくせに」

「まだ、彼氏にも触らせたことないんですよ」

「うそっ、いるの!?」

「……いないですけど。その反応は失礼だと思いませんか」

「ほら、私たち似てるって言ってたし。後、大抵の男子からすれば久我崎さんは手出しづらそうだよね。高嶺の花って雰囲気で」

「そういう弱腰な人はお断りですね。いきなり部屋に連れ込むくらいの気概を持った人じゃないと」

「あれは事故だから仕方なく」

「……ホント、女の子で良かったですよ」


 どうしてかは知らないけど、たぶん私を例えに出したんだと思って冗談で言ってみたら、思いのほか変な答えが返ってきた。


「でさ。そろそろ独り立ちさせてくれない?」

「あらあら。お母さんから離れても寂しくならないですか?」

「よーし。明日は覚えておくように」


 久我崎さんはクスクスと笑って私から離れた。その途端、頭の中にすーっとひんやりしたものが染み渡っていく。それは体中を巡って胸の辺りで渦巻いて、手足の先から抜け出ていった。頭の後ろ半分が水に浸かると、うるさかった蝉の鳴き声もばしゃばしゃと飛び散る水の音も、こぽこぽ、うわんうわん、と不思議な音色に姿を変える。

 下を向いて怯えるなら、前を向いて悩むなら、上を向いてみればいい。

 見えるのは真っ赤な太陽と女の子がひとり。ふたりとも無駄に明るくて、時々上から目線でからかってくる、この季節になると面倒くさくて嫌なやつ。片方は他の季節でもそうかもしれないけど。今はまだ知らない。そして、ふたりとも私のことをなんか見透かしたように笑ってくる。おかしなやつ。大きいのか小さいのか、本当はどんな形をしているのか。見ただけじゃさっぱりわからない。

 そんな不思議なあいつを見ながら私は、


「あったかいね」


 と、なんとなく、つぶやいた。


 ……また、太陽に笑われた。

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