プール開き

「先輩、生きてます?」

「……ごめん。後1分したら蘇生するから」

「はーい」


 昨日のことを先生にすぐ伝えなかった件で5人まとめて怒られた後、香原先輩は追加で『部長としての責任』についてあれこれ注意されていた。しまいには日ごろの素行や学校の成績にまで話が飛躍して、まるで母親に叱られる子どもみたいな構図だった。というより、


「まさか、先生が香原先輩と知り合いだったとは……」

「れん……じゃなくて、香原さんは小さい頃うちの近所に住んでてね。その頃に彼女の面倒を見たこともあって、高校に入るまでよく相談に乗ってあげていたの。去年、私が赴任している高校に入ってきたのはビックリしたわ。どこの高校に入るかなんて聞いてなかったから」

「じゃあ、先生と生徒っていうより、姉と妹みたいな仲なんですね」

「学校に持ち込むことが良くないのはわかってるんだけど、つい気になっちゃうの」

「先輩とはいろいろ話しているんですか?」

「悩み事とか変わった出来事とか、たまにね。ウチに入学してからはぱったり止まっちゃったけど」

「……じゃあ、もしかして私の話もしてました?」

「その当時はね。面白い子にあった、って話してた。無愛想でよく自分のこと罵倒してくる、って」

「もちろん、今はそんなことないですよ」

「うーん、愛想はもう少しよくした方が良いと思うかな。まぁ、それはここにいる他の子にもいえることだけどね」


 担任の先生の評価を下げるのは学校生活においてかなりよろしくないので、しっかり訂正したけど、2ヶ月でクラスの友達が一人しかいないのは先生にも気づかれていたみたいだった。


「それと、泳ぎがすごく速いって言ってた」

「そう、ですか」

「泳げない理由は香原さんは知ってるの?」

「……いえ、言ってないです」

「ということは、朱鷺乃さん自身は何が原因かわかってるんだね」

「はい。えっと、その……」


 すると、先生は手を伸ばして私の口元を覆う。驚いた私が先生の顔を見ると、先生は首を左右に振った。


「担任として、顧問として、知っておいたほうが良いと思うし、私も聞いて力になりたいとも思ってる。でも、誰にだって言いたくないことはあるわ。香原さんが昨日のことを黙っていたのも、きっと朱鷺乃さんのことを思ってなのよね。本人に会った瞬間、ぽろっと漏れちゃうところはまだまだ子どもだけど。香原さんも知らないのよね?」

「先輩にも言ってないです」


 話したら二人はきっと力になってくれる。でも、今の私はそれが重そうだと感じていた。それに、話してしまうとあの出来事がどんどんこの世界のになってしまう。私はそれがどうしようもなく怖かった。


「わかったわ。それと、朱鷺乃さんが水泳部に入ったのは自分の意志で合ってる?」


 また、泳ぎたい。あの頃みたいに。


「はい、そうです」

「それならこの話はこれで終わり!でも、無茶だけはしないでね。後、子どもだけじゃどうにも出来ないことがあったら、ちゃんと話すこと。そのための先生なんだから」

「わかりました!」

「うんうん。素直でよろしい」


 少し長い先生の前髪がさやさやと風になびく。真珠みたいな丸い瞳に前髪が交差するたびにチカチカと淡い光が瞬いている。それは私が好きな大人の目だった。不安そうに眠る子どもたちを優しく照らす星空みたいな綺麗な目。


「先生ー!頼まれたもの、家庭科室から持ってきました」

「あっ、みんな、ありがとう!じゃあ、はじめましょうか」


 久我崎さんと押切さんが大きな袋を提げてプールサイドに入ってきた。プールサイドの奥に建てられている物置兼部室になっている部屋で掃除をしていた先輩と籐堂さんも先生の声に合わせて出てきた。


「よーし、プール開きだー!!」



―――――



 日本酒の一升瓶を持った先生と小さな袋を持った先輩が入口に一番近いプールの角に立って、お辞儀をする。それに合わせてプールサイドに立っている私たちも頭を下げた。頭を上げた先生は瓶を傾けてその中身をプールに注ぐ。その隣で先輩が袋から一つまみの塩をプールに撒いて、またお辞儀をする。今度は扉から離れた角に立って同じようにお辞儀をして、お酒と塩をプールに撒いた。今年もプールで事故が起きないように水神様に無事を祈るプールを清める大切な習わし。本当はもっとちゃんとしたやり方もあるけれど、割けるお金も時間も人もいないからさっと簡単に、とのこと。学校から一駅離れた所にある神社は水神様を祀っているから、そこの神様に祈ってると先生は言っていた。たしか、籐堂先輩からそんな話をちらりと聞いたような気もする。先輩、神様の類の話も好きだって言っていたから。

 二人がぐるりと四隅を回った後、みんなで一緒にお辞儀をした。小学生の時も最初のプールの授業で校長先生が同じことをやっていた記憶がぼんやりと蘇ってくる。お酒を注ごうとした校長先生の艶やかな頭頂部が太陽光線を屈折させてプールの水面にお月様を映し出してその場にいた児童みんなと担任の先生を爆笑の渦に巻き込んだことも。あの頃の私はどんな気持ちでその日を迎えていたんだっけ。


「さて、一番は私がもらうよー」


 先輩が田舎のおじいちゃんみたいなことを言った。特に誰もツッコミは入れない。早くも自分の扱い方が固まったことに先輩は握りこぶしからグッと親指を上げる。なんで嬉しそうにしてるんだろう、この人。

 私たち一年生組も水着に着替えるべく、部室に置いてあるスポーツバッグを取りに行く。


「あっ……」

「どうしたんです?えっ、朱鷺乃さん。もしかして……」


 私の間抜けな声に久我崎さんが反応し、何かわかったように嫌そうな声を出す。どうやらかなり勘が良いみたい。


「水着、持ってくるの忘れた」


 久我崎さんと香原先輩の『この流れでそれはないでしょ』と言いたげな冷たい目線が少し痛かった。


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