はじまりとおわり②

 病院での診断結果はPTSDだった。あの日から私はプールに入ることはおろか、顔を洗うことも出来なくなった。お風呂に一人で入るのも怖くなって中学三年生までお母さんと一緒に入っていたくらいだ。水を顔につけることに体が勝手に恐怖を抱くようになっていた。

 スイミングスクールは数ヶ月通わず、その年の冬に辞めた。中学の水泳部は団体行動が好きじゃなかったからほとんど幽霊部員で、先輩や同級生も私の成績を知って二年生の夏までは連れ戻そうと躍起になっていたけど、私が頑なに断り続けたら諦めてくれた。陰口も叩かれたけど、そういうのは慣れっ子だったから然程さほど気にならなかった。


 お父さんとの関係も表面上は良好だった。学校の話や進路の相談もするし、休みの日は一緒に買い物だって行く。真面目だったけど実はそういう性格の人だった、なんてことはなくて、本当にあの時一度だけ。お父さんも仕事に対してはそれ相応の自信とプライドを持っていた。でも、それが無情にも崩れてしまって、焦りと不安であの時は動転していたんだと思う。お母さんにも左遷のことを隠してたくらいだから、精神的なダメージは相当にあったと思うと私も居たたまれない気持ちになる。だから、私はお父さんに対して怒りとか恨みは抱いていなかった。傍から見ればひどいことをした人間を許すなんて不思議に思われるかもしれない。でも、私からすれば生まれたときから好きでいつも傍にいてくれた人をいきなり嫌うなんてことは考えられなかった。

 だけど、やっぱり多少の溝は出来てしまう。世間一般的な年頃の娘と父親という間柄以上の隔たりが私とお父さんの間には生まれてしまった。会話の中に時々生まれるちょっとした間や余計な気遣い。抱えてしまったトラウマを思い出さないように、ガラス細工を扱うような慎重な空気が私たちの言動に表れるようになっていた。


 私がスイミングスクールをやめる少し前、季節は秋が終わりに近づいた頃。お父さんは遠くの街へ単身赴任することになった。その時も周囲の心無い噂に胸を痛めるお母さんに私はただ寄りそうことしか出来なかった。荷物を持って玄関に立つお父さんに笑って「頑張ってね」と本心からそう伝えたけど、その言葉をお父さんが素直に受け止めてくれたと思う自信が私にはなかった。


 冬が過ぎて、また春がやってくる。中学三年生になって私に残った勉強だけを黙々と続ける毎日は、あの頃とは違って全然楽しくなかった。どこか身が入らないまま成績は平凡に成り下がり、一人で帰る放課後が私の胸に小さな棘を刺していく。その棘を無理やり引っこ抜いて、強がりながら中学生最後の夏を迎え、そして何も変えられないまま終わっていった。私は一年前に立った舞台を遠くで見ながら、最初で最後の弱音を吐いた。


 結局のところ、私は罰が当たったんだ。自分がちょっとできるからって知らず知らずの間に周りの子たちを見下して、自分が気に入らない態度だったから邪険に扱った。スイミングスクールで出会った蓮菜先輩にもずいぶんとひどい態度を取ってしまった。無視したり、適当に返事したり、愛想笑いも浮かべなかったり。うん……あれは今思ってもひどい。塩対応なんて優しいものじゃなかったと思う。

 お父さんとお母さんに対してもそうだ。あれこれ自分のやりたいことを主張していろいろ迷惑をかけてしまった。お金のことや私自身の管理のこと。子どもの私だけじゃ出来ないサポートをたくさんしてもらった。子どもなんだから迷惑かけて当たり前、そう言われたとしても申し訳ない思うところは数え切れないくらいある。

 だから、これは私自身を見直すために神様が与えた試練なんだ。



「お母さん、お父さんと一緒にいてあげてよ」


 年末に差し掛かり、受験勉強がラストスパートに近づいた頃、私はお母さんにそう提案をした。一時は私も高校進学を機にお父さんが単身赴任している街へお母さんと一緒に引っ越そうと思った。でも、あの事故が起きてしまってからしばらくの間、お父さんとの間に出来てしまった見えない壁がその気持ちを躊躇わせてしまった。いまだに顔を水に浸けることを怯える私が一緒にいてもそれはお父さんに心配と負担をかけてしまうだけ。それに周囲の目を気にしながら、私のことを気遣ってくれるお母さんだって心配だった。お母さんだけはもう私たちみたいになってほしくないと願っていたから。

 お母さんはもちろん反対した。しばらく言い合いになった。生まれて初めての本気の言い合い。私はなんとか言いくるめようとあれこれ説得してみたけど、お母さんの首は縦に振られなかった。だから、最後に私は精一杯吐き捨てるようにこう言った。


「私、もう一人になりたいんだよ」


 その時の私はどんな顔をしていたんだろう。その答えを知っているお母さんははっと驚いた表情を一瞬浮かべた後、笑顔で私の頭を撫でてくれた。「こんなに頑張ってくれて、ありがとう」とつぶやいて。「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」と言ってくれたお母さんの強さが痛いくらいに胸に突き刺さる。床に水滴が零れ落ちる音を聞いて、もう少しまともなウソをつける大人になりたいと思った。いくらなんでも下手くそすぎた。



―――――


  

「変じゃないかな。これ……」


 3年後にはちょうどいいサイズになると言われて買ったブレザーの袖は少し手のひらに被っている。女子高生にその言葉は無理があるでしょ……と思いつつ、見栄をはってこのサイズを選んだ私もどうかしていた。あの日から季節が1周半くらいした空は淡いピンクが広がっている。高校に入ったら何をしよう。図書室で小説をたしなむ文学少女はどうだろう。とにかく地味で目立たず過ごしたい。逆高校デビューというやつだ。そんな言葉聞いたことないけど。

 始めたばかりの一人暮らし。私以外誰もいない部屋には、まだ私の知らない匂いが残っている。まだ開けられていない段ボール箱が視界に映る。あの中は二人に誇らしげに見せた大会の賞状が入っている。いつか開けられる日が来るのかはわからない。


 上から下まで全然馴染んでない制服に身を包んで、新品の靴のかかとを鳴らした。コンコンと乾いた音を遮るものはこの部屋にも私の中にも今はない。

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