3.スタートラインに立つ前に
はじまりとおわり①
私が水泳をはじめたのは小学校5年生の頃。同じクラスの子がスイミングスクールに通っているという話を聞いたお母さんが私に勧めてきた。小さい頃の私はいわゆるガリ勉で外で元気に遊ぶことはほとんどしていなかった。だからといって、運動が出来ないわけじゃなかったけど、地味でちょっと暗かった私を心配したお母さんは「〇〇ちゃんもはじめているんだから、深月もやってみない?」と近所のスイミングスクールの体験授業のチラシを見せた。子どものくせにどこかませていた私は「試すだけならいいよ」と上から目線で言ったっけ。
スイミングスクールのプールはもちろん屋内で、これまで小学校の屋外プールしか使ったことのない私にとって、そこはどこか不思議な空間だった。遠くで子どもたちを教えるコーチの声がこっちまで響いていくる。それが子どもたちの声と水を叩く音が混ざって耳の中でゆらゆらと揺らめく。水着1枚しか着ていないのに立っているだけでボーっとしてしまうような妙な温かさ。通路と繋がる窓の外からは通っている子のお母さんたちが不安そうに嬉しそうに子どもたちの姿を見守っている。私のお母さんも背を伸ばして私を探していた。見つけると、笑顔で私に手を振った。無表情に少しだけ笑顔を混ぜて振り返す。
コーチに誘導され、一人ずつプールの中へ入る。水の中と外の温度差に体を少し強張らせるけど、すぐに慣れた。ゴーグルを嵌めて水の中に潜る。その瞬間、私の世界から余計な音がシャットアウトされる。壁を蹴って腕をピンと前に伸ばして、見えない壁をかき分けて、ゆっくりとバタ足をはじめると体がグングンと前に進む。当たり前だけど。
プールの中では他の子たちも泳いでいる。コースのもう片側をこっちに向かって泳いでくる女の子とすれ違う。視線はゴーグルで隠れているから私もあの子もどこを見ているかなんてわからない。周りにたくさんいるはずなのにこの空間にいるのは自分だけ。そんな不思議な錯覚に浸っていた。
私はたぶん一人で黙々と何かやることが好きだったんだと思う。そんな私が水泳に集中して熱中して、そして夢中になるのはあっという間だった。周りで嫌なことがあれば泳いでそれでを発散した。お父さんとお母さんに褒められたから頑張ろうとまい進した。同じコースに通っていた同年代の子も年上の子も追い越せるようになった。天狗になるほど自惚れてはいなかったけど、自分に自信がついていたのは間違いなかったと思う。
だけど、中学一年生になった直後、学校もスイミングスクールも今よりもレベルの高い場所に進んだ私は現実を思い知った。上に上がいて、私は特別すごいわけじゃない。羽ばたくのやめてしまったら簡単に落ちていく。あの頃の私はかなり負けず嫌いだったんだと思う。挫けそうなんて気持ちは芽生えなかった。私は前より少しだけ頑張ることを続けた。どうせ他にすることなんてなかった、というのも理由のひとつ。お父さんとお母さんは私を心配してくれることもあったけど、時折悩む私の背中を押してくれた。
それを一年と少し続けた私はあの夏、ジュニアオリンピックという大きな晴れ舞台に立っていた。残念ながら表彰台にあと少しのところだった。悔しかったけど、それよりも嬉しかった。自分が認めた実力を周りの人たちが評価してくれる。そして、『今度こそ勝つ』『次も負けない』『私も追いついてみせる』と私を見たみんなが自分の力で頑張ることを決意する。ここにいる誰もが特別、なんていうなかなかにクサい言葉を私は本当だと感じていた。
大会が終わった私は応援に来てくれたお母さんに電話をした。三人で一緒に帰りたいと、今日のことをたくさん話したいと、そう伝えようとした私の耳に届いたのは留守電のアナウンスだった。その後、メールが届いていたことに気づいた。『先に帰ることになってごめんね。頑張って!』 送信時間は決勝のレースの直前だった。
いつもより饒舌にスクールの友達と話して帰路についた。赤から紫へと変わっていく夏の空をくぐって帰った家はなんだか暗かった気がする。お母さんの「おかえりなさい。どうだったの?」と聞かれて、自信満々に自分の順位を答えた。私に微笑むお母さんの顔は少し涙ぐんでいた。
自分の成果を誇らしげに思っていた私は少しだけ調子に乗って、笑って迎えてくれたお父さんにおねだりをしてみた。普段はそんなことなんてしないけど、頑張ったんだから少しぐらい良いよね、と。「来年はもっと頑張るから!」とありったけの笑顔でそう言ったんだ。
だから、その時の私は嬉しい気持ちでいっぱいだったから、理解できなかった。お父さんが私の腕を痛いくらいに強く掴んできたことに。
「やめて!」と叫ぶお母さんの悲痛な声を耳にしながら、リビングから出てすぐ近くにあるお風呂場に連れていかれた私はお父さんに頭をつかまれた。もうその時は体中が恐怖に包まれて動けなくなっていた。痛い、と言葉にすることも忘れてしまっていた。優しかったお父さんがこんなことをする、ということを頭が信じようとしてくれなかった。
水の浸かっていた浴槽に歪んだ私の顔が映る。どんな表情をしていたか確認する間もなく、それは見えなくなった。顔を浴槽に沈められた私はごぼごぼと醜く息を吐き出した。叫んでいる声がする。「お前は……」「俺なんて……」同じことを繰り返していたと思う。口から息を吐き出し続けて肺に溜まっていた空気が全て無くなった頃、頭に込められた力が緩まった。水面から顔を上げて、大きく息を吸い込んだ。もう何が起きているのかわからない。後ろを振り返ると子どもみたいに泣きじゃくるお父さんと、両腕でお父さんを強く抱きしめているお母さんの姿があった。そこで私の意識はふっと途切れてしまった。
寝苦しくて起きた私の隣にはぎゅっと私の手を握るお父さんと、さっきみたいにぎゅっと私を抱きしめるお母さんがいた。大会で疲れて寝ちゃったんだとぼんやり思った私にお父さんはひたすら謝り続けた。それはいつもの優しいお父さんで安心したけれど、同時に悪い夢じゃなかったんだと心の中の私がそれを確定事項に塗りつぶした。だから、わたしは何度も「大丈夫だよ」と二人に答えた。自分に言い聞かせるために。
お母さんが共働きしなくても大丈夫なくらいの大きな会社に勤めていたお父さんは私の中学生活が順調になった一年生の夏頃から仕事でうまくいかないことが続いていたらしい。そして、地方の子会社に近々転勤になることを言い渡されてしまった。それが私の大会の前日。自分がどん底にいる中で嬉々として自慢げに語る私に腹を立ててしまったんだと思う。人は自分より特別な人に憧れもするけど、嫉妬もする。私は自分がお父さんよりすごいだなんてこれっぽっちも思ってないけど、その逆も然りなんてことは絶対じゃない。必死に頑張っていたお父さんの糸を切ってしまったのは偶然にも不幸にもあの日の私だった。お父さんは一番近くにいたお母さんにも抱えていたものをずっと隠していたんだから、私がそう簡単に気づけるはずもない。
そう、仕方なかったんだ。これは。
でも、私が思っても、世界はそうは思ってくれない。
あの日の我が家の声を聞いてしまった近所の人がその話を周りに広める。じわりとこぼれたコーヒーが絨毯を汚していくみたいに。真っ黒とまではいかなくても茶色く染みたその跡は私の心の中にまで消えない汚れを残していった。
「そんなことがあったの」「奥さんと娘さんがかわいそう」「あぁ、なんてひどい」「普段は真面目そうなのに」「前から不仲だったと聞いたのよ」 悲哀の言葉は同情を呼び、それは大きくなって実を結ぶ。熟れて地面に落ちた果実からは想像から生まれた少しの妄想と、善意から出来たわずかな悪意が染み出ていく。
私はその臭いにうんざりしながら、久し振りにスイミングスクールに戻った。コーチや仲間達が純粋に心配してくれた。キャップを被り、ゴールを嵌めて、水の中に潜る。全てを忘れられる透明な世界の中に沈む。腕で脚で世界をかき分けてまた前へ進もう。私はまだ頑張れるから。
呼吸をしようと顔を上げようとした。でも、出来なかった。頭の後ろを何かが押さえつけていて上げられない。徐々に苦しくなる。早く向こう岸に着いて落ち着こう。そう思った。おかしいな。いつまで経っても向こうに着かない。25mくらいあっという間なのに。
目の前の風景が何も変わっていないことに気づいた。私はただそこに浮かんでいただけだった。
何事かと駆けつけたコーチに抱え上げられた私はプールサイドに呆然と座っていた。心の中が目の前で波打つ水面と同じようにゆらゆらと揺れている。何が起こったのかしばらく理解できなかった。その日は体調不良ということで早く帰るように促された。
いつもより早く帰ってきたからお母さんが心配した。体調が良くないかもと話したら、「ゆっくりお風呂に入って、今日は早く寝なさい」と優しい声で言った。ぼーっとしながらお風呂に入る。体が疲れているのかもと気付けを兼ねて、お湯をすくって顔を洗う。なぜか突然息苦しくなって
「ごめんなさい」
それはあの時、私が水の中で吐き出す息に混ぜて言った言葉。泡となって消えた誰にも聞こえなかったその言葉を私はちゃんと覚えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
口からとめどなくあふれ出てくるそれが怖くなって、私は浴槽を飛び出した。しっかり体も拭かずにリビングに続く扉をふらりと開ける。驚いた様子で私に駆け寄るお母さんとお父さんを見て、私は「ごめんなさい」とつぶやいた。
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