透き通ったこの空で
今日も今日とて太陽は梅雨の季節なんてどこ吹く風で、街と人に容赦なく光と熱を振りまいている。須江川高校では全クラスに冷房が設置されているため、生徒達はこの恐ろしき灼熱地獄に抗うことができるが、それも放課後まで。授業が終われば再び生徒達は滴る汗水を代償にして青春の一ページをめくりに行く。とはいえ、吹奏楽部や文芸部などの文化部は冷房の効いた特別教室が部室に宛がわれているため、夏が近づくにつれて文化部が羨望と嫉妬の眼差しが浴びせられる。
しかし、そんな過酷な環境で戦う運動部の中でも例外は存在する。
「ついにやってきたねー、この季節が!」
「先輩。上履きのまま出ちゃダメですよ。掃除ばかりなんですから」
「あー、ごめん、ごめん」
丸めた紙くずをゴミ箱に捨てるように蓮菜が真っ白な上履きと学校指定のハイソックスを放り投げる。綺麗な放物線を描いて空を舞う。注意をした
「ここに置いておきますね」
「あっ、涙ちゃん、ありがとー。ねぇ、ほらほら。こっち来てみてよ。綺麗だよー」
「すっかり水も満杯ですね」
「いやー、ついにやってきたね。我らが青春の夏!」
深緑色の床に囲まれた青く透き通る水面。どこまでも広く、何よりも深く……と表すには程遠いものだが、彼女たちにとっては常夏の島のビーチよりもワクワクして、大海に広がる珊瑚礁よりドキドキする思える光景が広がっていた。
「わっ、冷たい……」
「涙ちゃん、ここはもうちょっと大胆に行こうよ。こんな感じで。……んんっ~!」
涙がそっと水面に手を触れる隣で、蓮菜の細い両足がぽちゃりと水に浸かる。つま先から一気に背中のほうまで駆け上がる心地よい冷たさに満足げな顔を浮かべる。そのままばたばた足を前後に揺らすと水飛沫が星のかけらみたいにキラキラと宙を舞う。いくつかはゆらゆら漂う水色の空に戻り、またいくつかは乾いた床にぽたぽたと落ちた。
「ねぇねぇ、スポーツドリンクのCMっぽくない?」
「そ、そうですね。そんな風に見えますよ」
「もう……、子どもみたいなことしてないで早く部活はじめましょう」
「洸ちゃんはドライだなぁ……はいはい。さて、とっとと着替えて一番風呂もらっちゃおうかなー」
「あれ?久我崎さん。籐堂さんは?」
「あの人なら、まだ扉のところですよ……あら?」
一人、プールには目もくれずプール棟から校舎へと伸びる廊下のほうを見ていた
「わぁ……!」
夏になり、本当の姿を見せたプールを眺めた深月はまるではじめて遊園地に足を踏み入れた子どものような声をあげた。けれど、もう少しでも緩みそうだった唇は何かを躊躇うようにきゅっと閉じてしまう。
「おいで。深月ちゃん。冷たくて気持ちいいよ」
プールに足を浸けた蓮菜が手招きをする。深月は少し迷ってからおずおずと上履きを脱いでプールサイドに足を踏み入れる。プールのすぐ近く、蓮菜の斜め後ろまでやってきて眼下にある水色の世界をじっと見つめる。しかし、深月は見つめたまま何をするわけでもなかった。わずかに乱れた深月の息づかいと蓮菜の足元から時折広がっていく波紋がちぐはぐなリズムを刻む。
「あのっ……!私、水泳部には入れませんっ!」
「どうしてかな?」
「そ、それは……」
「言いたくなかったら、言わなくても大丈夫。ただ、気になったんだ。最初に誘った時は入らないって答えたよね。それは深月ちゃんの意思。私なんかよりもずーっと水泳が好きな深月ちゃんがそうしようと決めた気持ちを、中途半端な私が崩すことなんて出来ない。でも、たぶん今は百パーセント自分の意思じゃない。その言葉にもし深月ちゃんがどうしようも出来ない何かがあるのなら、私が手を差し伸べられることがあるなら、私は深月ちゃんが掴めるようにこの手を伸ばすよ」
深月の視界にくっきりと彼女の手が映る。太陽に染まって明るいオレンジ色に透き通った柔らかな手のひらが。
「香原、先輩……」
その手に触れようと、深月は手を伸ばす。少し届かなくて、一歩だけ近づこうとした。
「……あれ?」
斜めに傾いた蓮菜の顔は驚きの色に包まれる。その隣にいた涙の目はしっかり見開いている。洸の「あっ」というかすれた声と、華江の「おい!」という叫び声が深月の耳元に飛び込んで離れていく。少しバランスを崩したのだろうか、床が濡れていたからなのか、靴下を履いたままで滑りやすかったせいか、小さな偶然と可能性が積み重なって、あの時と同じように、
ドプンと、吸い込まれていった。
プールに落っこちた程度がなんだ。制服はびしょ濡れになって大変だけど、替わりの体操着だってある。自分みたいにカナヅチじゃない。彼女は全国大会に出たくらいだ。だから、大丈夫。大丈夫。あの時と違ってすぐにばさっと慌てたふうに上がってくる。
無数の泡がぶわっと蠢いて彼女たちの視界に映る。力の抜けた深月の体が浮力に従ってゆっくりと上がってくる。その自然で不自然な光景に全身の毛がぞりと逆立つ感覚に襲われた洸は何かに取り憑かれたように水中に飛び込んだ。
「朱鷺乃さんっ!」
「深月ちゃん!」
洸よりも一瞬早く同じように飛び込んでいた蓮菜がそのまま水の中へと潜り、深月の身体を抱き抱える。水面までたった20センチほどの距離がなぜか長く感じた。
「水飲んじゃった?落ち着いて。もう大丈夫だからね」
「朱鷺乃さん、大丈夫ですか?」
少し大げさなくらいに二人は声をかける。胸のあたりまで水面から上がった深月は糸の切れたあやつり人形みたいに両腕と首をだらりと下げている。蓮菜は深月の顔に自分の耳を近づける。乱れているが呼吸に問題ないことを確認する。洸は深月の正面に回り込み、両肩を掴む。手を離したらそのまま身体を支えることも出来ずに沈んでしまう、そんなありもしない予感に襲われたからだ。
「ごめんなさい」
「急にどうしたんで・・・・・・」
「ごめんなさい!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!全部全部わたしが悪いの。わたしがわがまま言ったから。自分のことしか考えてなかったから。お母さんとお父さんの気持ちに迷惑かけたから。友達と仲良く出来なかったから」
深月の鬼気迫る突然の懺悔にここにいる誰もが気圧されてしまい、彼女を労る言葉を発することすら出来なかった。怯えて震える小さな瞳。両腕も同じように震えていた。もしかしたら、泣いているのかもしれないが、それが滴る水滴なのか涙なのかはわからなかった。そして、彼女は再び濡れた唇を開いて消え入るようなボリュームでつぶやいた。
「……泳ぐことが大好きになったから。いけなかったんだよね」
これは自分を知らない彼女たちの物語の1ページ目。
ずぶ濡れになったタイトルのない表紙が
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