どうしていいかわからなくて
「へあぁあ~……」
「ぷっ。なにそれ」
「えっと……緊張の糸が切れてしまって……」
涙は職員室から出るや否や実に間の抜けた声を出す。それには深月も思わず噴出してしまった。
「おつかれさま」
「ありがとう、ございました……。あの……、これから……よろしくお願いしますね」
「あ、うん……。えっと……頑張ってね」
「はい……!!」
労いの言葉に対するお礼は予想できたが、その先の言葉までは想像していなかった。深月は内心で『なんで上から目線になってんの』と涙には悟られないように反省する。言われた本人は逆に嬉しくなっているので、良しということにするが、どうして涙は自分に好意的に接してくるのだろうか。昨日の話と今日の彼女の様子から考えて、涙は他人と接するのが苦手ということは確かである。面倒くさがりな深月とは異なる理由で。
「これから、部活行きますよね?わっ、私も一緒に行っていいですか?」
「う、うん」
今、こうして一緒にいるのだから、断る理由など全くないが、改まってたずねられるとそれはそれで反応に困る。だからといって、「別に」とか「勝手にすれば」と言い放ってしまうのは性格が悪そうなやつに見えてしまう。小動物みたいに後ろからついてくる涙とつかず離れずの距離を保ちながら、少し足早に深月はプールへと向かった。
―――――――
「あれ?」
「久我崎さん……何してるんでしょう……?」
プール棟の近くまで来ると、洸が入口の前に立っていた。扉はしっかり開いているのに、洸はそうっと中から外を覗いている。う~ん、と小さく唸《うな》るように声を漏らし、落ち着かない様子でなにやら悩んでいた。
「久我崎さん」
「へぇっ!?あっ……朱鷺乃さんに押切さん。どうも、こんにちは~……」
「なにそのごまかし方がすごく下手くそな挨拶」
「あの、その、これはですね……えっとぉ……」
「久我崎さん、プールサイドに……誰か、いるんですか?」
「あっ、いや、そういうわけじゃなくて、ですね。あぁっ!そうだ。今日も外で走りませんか?」
「よし。押切さんが入部したし、お祝いも兼ねて昨日の倍走ろっか」
「それ、どこがお祝いなんですか!?あまり激しいのは押切さんにも悪いですし……」
「えっと……昨日は4kmくらい、走ったんですよね?う~ん……まぁ、その倍くらいなら、なんとか……」
「あの……もしかし、押切さんって、結構体育会系なんですか?」
「『人間、体が資本だ』って、小さい頃はいくつかスポーツ系の習い事を受けさせられたり、兄たちの遊びにいつも付き合わされていたので……。私は、部屋で本を読むのが好きだったんですけど……」
「短めに切りそろえられた髪、めがね、大人しい性格。どこをどうとっても根っこは文系だと思っていたのに……」
「はいはい、しょうもないやり取りしてないで入るよ」
「あ、いや、ちょっと……」
困惑している洸が面白く、つい彼女をさらに慌てさせてみたくて、深月は洸の言葉をスルーしてプールサイドへと入った。自分は結構Sなのかもしれない、なんてつまらない自己分析をしながら。きっと、洸のクラスメイトか知り合いが新入部員として来たんだろう。だから、どんな人物なのか見てみたかった。もしかしたら、洸のことをよく知っているかもしれない、なんて興味心で。
「あ……」
昨日、涙が居眠りをしていたベンチに少女が一人、座っていた。切れ長の瞳。右肩にかかった薄茶色のポニーテール。スカートから曝け出された太ももが日光に反射して白くきらめく。余計な肉は全くなく、爪先へ向かって鋭く伸びている。胸の前で組んだ両腕も足と同様に細い。しかし、そこに不健康さは全くなく、引き締まった美しさだけを覗かせている。そんな洸とは別の理由で目を引いてしまう女子を、深月は一度だけ見ていた。それも数時間前に。
「売春女……」
「えっ、なにか言いました?」
「う、ううん。なんでも」
「私たちのクラスの人じゃ……ないですね」
あの女子生徒が放った衝撃的なワードを思わず呟いてしまったが、後に入ってきた涙の耳にはギリギリ届いていなかった。
「誰?」
「ぴひゃっ……!?」
そのとき、座っていた女子生徒が深月たちが入ってきたことに気づいた。鋭い眼光に睨まれた涙が小さく悲鳴を漏らしてしまう。どうやら涙の鳴き声は何パターンかあるようだ。
「もしかして、新入部員?」
「だったら、何?」
彼女にこちらと友好的に接しようという気持ちが無さそうなことが、その一言から十分すぎるほどに伝わってきた。そうなると非常に対応が面倒くさい。そこで、深月はいまだに扉の外で引っ込んでいる洸の手を強く握った。
「ちょっ!?朱鷺乃さん?」
「私たち、あの人のこと知らないから。ここはお願いっ!」
「待ってください!イヤですー!!」
「知るかっ!」
グイっと力を込めて洸の腕を引っ張ると、思った以上に簡単に彼女の体が動いた。深月は自分の体に引き寄せた後、今度はしがみつこうとする洸の体を振りほどいて、プールサイドへと押し出す。“おっとっと”という効果音が当てはまりそうなおぼつかない足取りで洸が目つきの鋭い少女の前に現れる。
「あぁ……誰かと思ったら、一人ぼっちの久我崎さん。良かった。友達、出来たんだ」
ピクリと、洸の眉が上下した。6組の生徒であり、他クラスに友達など一人もいない深月と涙は3組である洸の普段は全く知らない。おそらくこの彼女も洸のクラスメイトであることは間違いないが、どうやら間柄は芳しくないようだ。
「えぇ、おかげさまで。籐堂さんこそ、停学からの復帰、おめでとうございます。しっかり自習は進めていました?もしもわからないところがあったら、教えてあげましょうか?」
洸も真正面から食ってかかるつもりらしく、笑顔のまま二人は激しく火花を散らしている。自分がどうにか出来る状態ではなくなっていることに困惑している涙を余所目に、深月は洸が呼んだその名前に驚いていた。
「あの……。籐堂って。籐堂先輩の……妹?」
あのお淑やかを具現化したような人にこんな正反対の妹がいたのか、と深月はつい興味本位で彼女に質問した。
「……だとしたら、なんだってわけ?」
やってしまった、と深月は後悔した。昼休みにテニス部の女子と言い争っていた時よりも、たった今洸と一触即発しかけた時よりも、さらに顔が険しくなっていた。もう一つ気になったワードのほうが聞いてはいけない内容だと思ったが、こっちのほうがNGワードだったとは思わなかった。
「そっ、そうなんだ……」
こうなったら、もう適当な言葉でごまかすしかない。洸と彼女の確執も、彼女が紅葉の妹であることも、深月にとってなかなかに気になるポイントではあるが、ここでさらに追究するのは愚かであることは明らかだ。語尾を弱めて会話を無理やり終わらせる。深月の後ろに立つ涙に至っては小刻みに震えていた。俯いているから顔はよく見えないが、半べそくらいかいてそうだった。
深月の発言を最後に行き交う言葉が止まった。立ち去るわけにもいかず、気にせず練習に入る空気でもなく、さて、この修復困難な状況をどうしたらいいものかと深月が悩んでいると、
「あっ、みんないるね!おつかれさまー」
この面倒くさい空気を作り出した影の立役者。
「んー。空気が重い!ほらほら、これから同じ部活でやっていく仲なんだからさ。もっとさ、和気藹々といこうよ、ね?」
「だから、私は……」
何を言っているんだ、この口は。と、皮肉を言おうか迷ったが、それ後に続いた言葉に深月は黙っていられず、声を上げた。だから、私は入らない、そう言おうと思ったのだ。
「もちろん、深月ちゃんは入ってないよ。ここにいる深月ちゃんを除いた私たち4人のこと。そりゃ深月ちゃんにも入部してもらえたら嬉しいけどね。何度もしつこく誘うのも良くないかなと思って……」
蓮菜が言っていることは何もおかしくはない。たしかに深月は彼女が最初に勧誘した時に明確に断りを入れている。水泳はもうやらないとまで告げた。そして、それから深月は洸や涙と出会った数日の間で一度も彼女から再び勧誘されることもなかった。だから、普通に考えれば蓮菜が自分を部員の頭数に入れてないことも簡単に理解が及ぶ。けれど、はじめて洸に会った日、彼女は蓮菜の名前を出して深月のことを勧誘した。深月が押しに弱い性格だという話も交えながら。
深月は驚きを残した顔で洸のほうを見た。しかし、彼女の顔からは何も読み取れない。さっきまで口の悪い彼女とのやり取りで見せていた強気な表情は消え、あの時と同じ端整でまるで人形のようなそれだった。ただ、その瞳だけはそらすことなく深月を見つめていた。
「そうですか。じゃあ、私はこれで」
「あっ……待って、深月ちゃん!」
勝手に唇が動いていた。勝手に足が動いていた。洸の瞳から目を背けて、顔を上げて自分を見る涙の視線に気づかなかったことにして、そして、言葉をかけようとした蓮菜の横顔に振り返らずに過ぎ去った。
ピシャリと閉じたプールサイドの扉だけがその場に残った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます