それは彼女の最初の一歩

 図書室から戻ると、2階の一年生教室フロアはいつもの騒がしさに戻っていた。誰かを卑下する囁きはすっかりなりを潜め、学内のあちこちに散らばっていたクラスメイトたちが朝と同じような日常を構成していた。教室に戻り席に着いた深月がぼーっとしながら過ごしていると、あっという間に午後の授業も終わっていた。

 放課後を告げるチャイムが鳴り、深月はプールへ向かうために教室の外に出る。すると、後を追うように涙が席を立ち上がり、早足気味に深月の隣へ並んできた。


「あ、あの……」

「どうしたの?」

「朱鷺乃さんに……手伝ってほしいことがあって……」

「私に?」

「いい……ですか?」

「そんな面倒なことじゃないなら。なにするの?」

「これを、出したくて……」


 涙が鞄から取り出した一枚の紙には「入部届」と書かれていた。二行目の空白になっていた部分は「水泳部」と、丁寧な筆跡で埋められている。


「これを、私が一緒に?」

「ごめんなさい……。一人だと不安で……。この前、退部届出したばかりだから、何か言われるかもしれないし……」

「あぁ、そういえば……」


 顧問のいない部活動に入部する場合、入部届は各学年主任の教師に提出する決まりになっている。一年の学年主任は古文を担当する男性教師で、涙が先日まで入っていた文芸部の顧問でもある。気の弱そうな涙のことだから、余計な考えを巡らせてしまっているのだろう。部活動の入退部は個人の意思に委ねられているので、どの部活に入るのも辞めるのも本人の自由だ。しかし、それが自分に関する部活となれば、複雑な気持ちを抱く教師もいる。涙がためらいを感じてしまうのも無理のない話ではある。おまけに……


「顔、怖いもんね。あの先生」


 涙は無言で何度も大きく頷いた。そんな必死そうな彼女を放置していくのはさすがに気が引けてしまう。深月が「良いよ」と返事をすると、涙はわかりやすく安堵の表情を浮かべた。


「ありがとうございますっ!」

「お礼なんていいって。大したことないし」


―――――――


 職員室は校舎2階の端にある。中に入ると当然のごとく各教科の教師があちこちに座っていた。教師と話し込んでいる生徒もちらほら見える。深月はぐるっとあたりを見回して、窓に一際近い机に座っている男性教師を視界にとらえると、隣で体を震わせる涙の肩を優しく叩いた。「行こ」と声をかけて、涙の返事を待たずにそちらへと向かう。涙はその後を何も言わずについて行った。


「あ……あの……藤尾ふじお先生」

「ん?あぁ、押切おしきりか。どうしたんだ?」

「はっ!はいっ……!えっと、その……」


 窓の外を見ていた学年主任の藤尾が涙の小さな呼びかけに反応して振り向く。50過ぎのあちこちにシワが寄った固い顔声も低くまるで極道みたいだといわれ、上級生からは怒るとかなり怖いと評判だった。


「あの……その……」

「先生。押切さん、入部届を出したいそうです」

「そうか。どこに入るんだ?」

「はい……あの……えっと……」

「ほら。それ、出して」


 隣に立つ深月が、両手で掴まれて少し折り目のついてしまった入部届けを指差す。「お願いします……」と消え入りそうな声で手渡されたそれを藤尾は無言で受け取り、そこに書かれている文字を読むと、口元に手をあてて何か考え込む仕草をした。ふと涙に目を向けると、偶然にも彼の様子を伺おうとした彼女と目が合ってしまった。涙は慌ててすぐに目をそらす。藤尾は眉をわずかに下げて、


「水泳部か。うん、そうか。がんばれよ」


 それだけ言って、入部届に印鑑を押した。


「……は、はい」


 その声は彼女の傍にいる深月と藤尾にしか届かない。2ヶ月前と変わらない小さな声。けれど、今の一言に躊躇いの色はなかった。


「あっ、でも、えっと、その……また、ダメ……かもしれない、ですけど……一応。それなりには……」


 と言い切るにはどうやらまだ早かったようで、藤尾は「ぷっ」と息を軽く漏らしてしまった。聞こえてないか気にしたが、同じタイミングで発せられた同じ声にうまいことかき消されたようだ。もう一つの発生源は涙の隣に立っていた少女から。それに気づいた藤尾は安心した様子で、


「受理はしたぞ。ほら行って来い」


 と、ぶっきらぼうに言い放った。



 用事が済み、それじゃあ、と去ろうとした深月と涙に、藤尾が「おい」と声をかける。深月は彼の視線が自分に向いていて、なおかつ、次の言葉が出てこないことから、自分が呼ばれているのだと察した。


朱鷺乃ときのです。一年の」

「朱鷺乃も入部希望なのか?」

「いえ。ただの付き添いです」

「そうか」


 はい、と返事をしてから数秒、藤尾はもう一度「がんばれよ」と声をかけた。二人は会釈でそれに応え、教室から出て行った。


―――――――


「水泳部、か」


 訪問者がいなくなった机で一人、藤尾は一枚の入部届を見ながら呟いた。シャツのポケットにしまっていたペンをどこか迷いながら取り出そうとすると、机の上に黒い影が差した。


「あの……藤尾先生。すみません。お話があるんですけど、今、よろしいでしょうか?」

「磯部先生。あぁ、大丈夫です。この椅子、使ってください」

「ありがとうございます。でも、もうそこまでお気遣いしていただかなくても大丈夫ですよ。それに、わざわざ丁寧口調にしなくても」

「それもそうだな。もう大丈夫なのか?」

「はい、もちろん。でも、他の先生達もこれくらい気が利いてくれたら良かったのに……なんて」


 磯辺と呼ばれた女性教師がいたずらっぽく笑う。彼女は昨年末からちょうど1ヶ月前まで産休で休職していた。去年よりも落ち着いた姿に藤尾は昔の自分の妻を見ているようで、不思議と気が和んでしまった。


「先生も笑うことがあるんですね」

「……磯辺」

「ふふっ、すみません。やっぱり藤尾先生だと気が緩んでしまって」

「くれぐれも校長や教頭の前ではそういう態度は取らないように」

「はーい、注意します」


 緩い返事をする磯辺に視線を向けると、彼女もさすがに申し訳なさそうに椅子の上で体を縮める。磯辺は昔、藤尾の生徒だった。絵に描いたような明るいお転婆娘だった彼女が自分と同じ教師になり、さらに一人の母となったことに去年は驚いたが、母になっても彼女は彼女だったようだ。藤尾は「はぁ」と二つの意味をこめたため息をついて、引き出しを閉めようとしながら、「で、どんな話ですか?」と教師同士の口調に戻って尋ねなおす。

 磯辺はさっきよりもさらに申し訳なさそうに「あの……」と前置きを加え、おそるおそる口を開いた。


「そのことで、ちょっと……」


 磯部の指は藤尾がまだ手に持っていた入部届を指していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る