嵐の前の静けさ

 須江川高校の朝は早い。野球部や剣道部、吹奏楽部などの部活が始業の1時間前から朝練に臨んでいる。窓から漏れる吹奏楽部の演奏と校庭から金属バットの乾いた音が今日も登校する生徒達を迎える。まだ、2ヶ月しか経っていないが、1年生たちにとってもすっかり当たり前の日常の始まりとなっていた。

 バラバラに登校する生徒の群れは玄関に近づいていくにつれ、クラスメイト同士で固まっていき、会話の渦があちこちで生まれる。深月はその合間を縫うように通っていく。自分の下駄箱までたどり着いて、いつもと同じ所作で上履を取り出す。


「あのっ……おはよ……ます」


 他の生徒たちの声に紛れて、小さな声が深月の耳に届いた。朝の喧騒の中でその声を聞き取れたのはそれが昨日はじめて会話を交わし、彼女が深月の中で名前も覚えていないクラスメイトから、クラスメイトになり、印象が強くなったからなのだろう。


「おはよう、押切さん」


 声がしたほうを向いて挨拶を返そうとした瞬間、涙に目を反らされる。そうなることはもちろんわかっていたので、特にリアクションはない。昨日、散々視線を反らされつづければ嫌でも慣れてしまった。それどころか、ちゃんと彼女から挨拶をしてくれたのだ。昨日接した限りでの彼女の性格から考えれば、得られるのは好感のほうが高い。

 上履きに履き替えた深月が教室へと進むと、涙は一歩遅れて歩を踏み出し、深月の背中を見るかたちで進んでいく。


「久我崎さんと……一緒に登校しているんだと、思ってました」

「違うけど、なんでそう思ったの?」

「仲が良さそうだったので……」

「そう見えた?」

「はい……あっ、私、なんか変なこと言っちゃいました!?」

「変じゃないよ。たぶん、変なのはこっちだから」

「は、はぁ……」


 洸との距離感をいまだに掴みかねている自分は認めるけれど、それを言葉にするのはさすがに恥ずかしい。風船みたいに宙を漂う会話の種は、着地どころが見つからないまま、遠くへと飛んでいってしまった。


 1時間目の開始に10分弱の猶予を持たせて、二人は教室に入り、それぞれの席に座る。深月の席は教室中央の列の後方、涙の席は廊下側の列の真ん中。涙が着席するとこまで見てはじめて、涙が自分のクラスメイトだったことを認識した。間違いなくこの2ヶ月の間に幾度も彼女の後姿を視界に入れていたはずなのに、今の今までそれが誰であるかなんて、これっぽっちも塵も気にせずに過ごしていた。

 しかし、そんなこと誰にだってあるだろう。きっと自分自身だって他のクラスメイトから「名前を覚えていないあいつ」程度に思われているのだから、これは仕方のないことなのだともっともらしい言い訳を自分に言い聞かせる。

 そこから昼まで深月は涙とその周辺の動向をチェックしてみたが、涙は一度も顔を上げることはなく、また、誰一人、涙に顔を向けることも声をかけることも無かった。



 昼休み。いつの間にか教室からいなくなっていた涙をこれといって気に止めることもなく、いつも通り一人教室で昼食を取る。昨日、幸恵が置いていった冷凍おかずを解凍したものを適当に詰めた弁当は、まるで母親の手作り弁当のように彩り豊かだった。頼めば、いや頼まなくても彼女はまた作ってきてくれるが、それでいいものか……と深月はピンク色の子供用の箸を口につまみながら悩む。だが、結局のところ、引越し翌日に気合を込めて作った朝食が殻入り暗黒目玉焼きと高血圧者殺しの味噌汁になり、心が折れた深月にとって、現状は従姉を頼る以外に経済的で健康的な食生活を送る術はなかった。


「ねぇ、あれ……」

「うわぁ……」


 と、静かに悩む深月とは正反対に、教室の外がなにやらざわつきはじめた。教室の扉から廊下を覗く生徒の姿がちらほら。一方、廊下から聞こえる声も少しずつ大きくなっていく。声の雰囲気から女子同士が言い争いをしているようだ。もちろん、深月は興味がないので野次馬根性が芽生えることはない。それでも、ヒートアップしてくる声は次第に深月の耳にも届きはじめる。


「ホント目障りだから、学校辞めてよ」

「はぁ?なんで私が、あんたのために辞めないといけないの?」

「私のためじゃない。部活のみんな……それに、彼のことあんなに傷つけておいて、部活だけ辞めてハイ終わり、なんておかしいでしょ!?こっちはもう顔だって見たくないのに!」

「イヤ、あんたのためじゃん、それ。後さ、見なきゃいいだけでしょ」

「これから3年間もずっとなんて嫌に決まってるでしょ!」

「じゃあ、そっちが退学すれば?」

「どうしてそうなるのよっ!この売春女!!」


 ありったけの憤怒が込められたその言葉が放たれた直後、口論する二人も、それを遠目で見物する生徒達も、動くことも喋ることもせず、その場で固まった。明るいはずの真昼の廊下を、熱を通る隙間もないほどに気まずさという絶対零度の冷気があっという間に充満する。校舎の外にいる生徒達の声や遠く離れた教室から演奏している吹奏楽部の音がやたらと不快に感じる。それらが耳障りに思ってしまうほど、あの言葉は多感な高校生の心を刺激して支配するには十分すぎる衝撃力を持っていた。


 キュッ、と廊下が小さく鳴いて、深月のクラスの前を無表情の少女が通り過ぎていく。少女の真っ白な上履きが奏でる不揃いな音色だけが昼休みの廊下に響く。切れ長の鋭い目が廊下に向けていた深月の視線に入る。ただ進行方向だけを見つめるその目には怒りも悲しみもないのだろうと思った。ただ、一方的に話しかけられるだけ、頼られるだけだったことにうんざりしていた深月が見た、窓に映った自分の目に似ていた。

 少女の姿が見えなくなり、足音が階下へ消えていったのを確認して、生徒達はまた日常に戻る。暴言を突き刺したもう一人の少女も唇を強く結んでどこかへ賭けていく。彼女の友達とみられる二人の女子生徒も心配そうに彼女の後を追っていく。そうして、また日常の温度が取り戻されていく。

 さっきまでと違うのは、いろんな会話の端々にその少女らしき名前と彼女が何をしたのかを示すワードが点在するようになったこと。


「……ってさ。……の彼氏、盗ったんでしょ?」

「そうそう。中学から付き合ってたのにあいつが寝取ったみたい。それに……」

「援交してるらしいよ。……のラブホ街におっさんと行くの見たんだって」

「今は他校の男子と付き合ってるって……」

「隠れていろいろやってるのかー……ちょっとタイプだったからショック」

「普通に学校来れるとかメンタル強すぎるわ、アイツ」

「学校辞めろは正論だよね。雰囲気悪くなるし……」


 再び戻り始めた喧騒の中で、深月は教室の時計を見上げる。昼休みが終わるまで後20分くらい残っていた。ひとつため息をついてから重い腰を上げる。ズズ、と椅子が鈍い音をたてるが当然誰も気にしない。さて、どこに行こうか。この2ヶ月、休憩時間はずっと教室で過ごしていた深月にお気に入りの場所なんてない。会いに行く知り合いは……いなくもない。昨日どこのクラスなのかも知った。顔を出せばきっと彼女も快く迎えてくれるとは思うけど、もしも彼女が別の人と話していたら、と考えるとなんだか面倒な気がしたので、やめておくことにした。暇ならここでも潰せる。それでも、暑く湿った教室の空気に混ざりこむ嫌な匂いを嗅ぎたくなかったからだ。



―――――――――――



 友達の少ない学生が暇つぶしに悩んだ時にくる定番の学校スポットといえば図書室だ。それは深月にとっても例外ではない。どれだけ人がいても一人になれるこの空間は深月も小学校からお世話になっていた。高校生になってからまだ一度も来ていなかったのは、昔より勉強への執着心が減ったのと、教室にいるだけで十分事足りているから。

 本棚から気になった本を適当に一冊取り出して、空いている席に着く。中間テストと期末テストのちょうど間の時期からなのか、それとも図書室がそんなに人気ではないのか、三十ほどの席は3分の1以上が空席だった。


「あら、珍しい。こんにちは、朱鷺乃さん」

「あっ……先輩。こんにちは」


 一年女子が一度は見惚れてしまう大人びた顔つきと、一年男子が一度は見つめてしまう大人顔負けな紅葉の身体が深月の目の前に現れる。お姉さま的な憧れも、下世話な下心も持ち合わせていないが、相変わらず羨ましい気持ちだけは拭いきれない。


「籐堂先輩はよく来てるんですか?」

「ええ、ほとんど毎日ね。歴史や風土史の本はどれだけ読んでも飽きないから」

「さすが民俗学同好会の部長」

「朱鷺乃さんも少しは真似てくれると嬉しいわ。今なら文化祭にも十分間に合うわよ」

「そのあたりは空に任せます。私は雑用担当で」

「じゃ、そっちのほうで期待してるわ」


 そう言うと、紅葉は深月の隣の席に座り、持っていた本を開いた。ちらりと見えた表紙からは「民俗芸能」というワードが見えた。視線に気づいた紅葉は再び深月に顔を向ける。


「去年の文化祭はね。この地域の神社の歴史について調べたんだけど、内容が固かったのとちょっと凝りすぎたせいで学校からの感触があまりよくなかったから、今年はもう少し柔らかいのにしようと思ってるわ。個人的にはああいう神秘的な内容のほうが調べがいがあって好きなんだけど」

「好きなんですね。そういうの」

「大学も民俗学を専攻するつもり。研究職になれたら面白いな……って思っているけど、現実的に考えると簡単じゃない部分も多いから、そこは入ってから決めようと思ってるわ。とにかく今はいろいろ学んで、自分が何が一番知りたいのかを知ることからね」

「へぇ……すごいですね」

「ごめんなさい。一人語りしすぎちゃったわね」


 どうやら筋金入りで大好きらしい。将来の夢も入りたい大学も全く考えていない深月には、そうやって楽しそうに自分のやりたいことをすらすらと語れる紅葉が輝いて見えた。


「ところで、どう?今は……楽しい?」

 水泳同好会のことを言っているのだろう、と深月は理解した。

「気晴らしと最近の運動不足解消にはちょうどいいです」

「そう。でも、たまにはこっちにも顔出してね」

「今は久我崎さんのことがちょっと気になるだけなので……落ち着いたらこっちに戻ります」

「良かった。このまま二人だけになっちゃうのは、私も大塚くんも寂しいから」

「そう、ですか?私、部室にいても自分から何も話さないし……。いてもいなくても大して変わらないんじゃ……。んっ……!?」


 深月の上唇に紅葉の指先が触れる。少しだけ力を込めた人差し指に開きかけた口がきゅっと閉じられる。初夏の熱気を纏った紅葉の指先から彼女の温度が伝わってくるような気がした。


「……そんな風に思わないで」


 その温かさはたった今深月の心の中から這い出てきた自身を卑下する気持ちをじわりと溶かしていった。紅葉の表情は本気だった。本気で深月のことを思っていた。そして、言葉は優しいけれど、深月が自分を卑下したことを真剣に責めていた。


「もっと朱鷺乃さんと仲良くなりたいから。単なる先輩のわがままだけど、聞いてくれたら、嬉しいな」

「は、はい……」


 そう言うと、紅葉は微笑んで、すっと深月に当てていた人差し指を離した。読んでいた本に目を戻す。深月は紅葉が触れた後を軽く指でなぞってから、自分がされたことになんだか恥ずかしくなって、読もうとしていた本を開く。それから昼休みが終わるまで、お互いに一言も交わさなかった。けれど、紅葉は深月の隣席から移らない。その意味をすぐに理解した深月は少しでも見られないように顔を小さく左に傾ける。唇に残っていた熱は頬に移っていた。


「朱鷺乃さん」


 チャイムの合図とともに席を立った深月に紅葉がどこか元気のない声で言葉をかける。


「よろしくね」

「は、はぁ……」


 その言葉の意味までは、わからなかった。

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